第3話 Gの行方

 Gが出た。

 今度こそ正真正銘、ヤツだ。

 真っ黒で背中がテカり、思ったより鈍足ではあるものの、休まずあちこち動き回っているからすぐに見失ってしまいそうになるのを必死に目で追いかける。

 最初に発見したのは台所だった。

 捕まえなければ、何かないかと手近な物を探しているうちにヤツは台所から逃げ出したから慌てた。

 私はお菓子の空き箱をつかみ、猛然と追いかける。

 それをかぶせて捕まえるのだ。

 直接接触なんて冗談じゃない。

 たとえティッシュ越しでもごめんだ。

 感触そんざいが伝わること自体が嫌なのだから。

 階段を器用に飛んで逃げたそれは、息子の部屋のドアの隙間に体を滑り込ませた。


 しめた。そこは袋小路だ。

 それとも、敢えて窓から逃がしたほうがいいのか。

 しかし窓は閉まっている。

 開けるには奴がいるその部屋に乱入する必要があり、そのことによってパニクった奴が縦横無尽に飛び暴れまわるかもしれない。

 もしもそれで奴がこっちに飛んでくるようなことがあったら――


 やめよう。

 外に放逐しても何の解決にもならない。

 隣近所の家に潜り込んでしまう危険性だってある。

 自分の家がよければそれでいいとはならないのが奴の厄介さであり、逃げてもまた近隣に居住域を広げるから奴らは厄介なのだ。

 一匹見たら百匹いると思えという恐ろしい言葉がある通り、一匹を見逃したら被害が拡大することになる。

 そもそも真っすぐに走って逃げる保証なんてどこにもなく、ぐるりと回り住み慣れた我が家に野草の香りを添えて帰ってくる可能性だって高い。

 そうなってからでは捕まえることは困難だし、次に対峙した時には子どもからひ孫まで大家族を揃えて暗がりにニュータウンを形成しているかもしれない。


 なんとしてもここで捕獲しなくては。

 私は覚悟を決め中腰になると、部屋の中央で足を止めて触覚をうごうごさせている黒光りにそろりそろりと近づいた。

 そうして一気に距離を詰め、お菓子の空き箱をガボッとかぶせる。


 ふう……。


 仕事を終えた私は、某いぶし銀ベテランアクション俳優が見せるように構えを解き、ゆったりと息を吐き出した。


 しかしこんな軽い覆いではいずれ奴に突破されてしまう。

 息子の机の上にあった参考書を一冊取り、重しとして載せてから殺生担当を呼びにいく。

 今日は休日。息子は出掛けているが、夫は相変わらずリビングのソファで居眠りをしている。

 仕事か居眠りしかしない男の前に仁王立ちし、スーパーロボットを召喚する面持ちで夫を見下ろす。


「さあ出番よ! 今度こそGを捕獲したわ!」

「え~? なんで殺すときだけ俺?」


 重い一重の瞼はすぐに開いた。

 どうやら騒ぎにはうすうす気づいていたらしい。

 目覚めていたなら、そして殺すだけが嫌ならなおさら捕獲作戦から協力しろよと言いたいが、今追い詰めるべきは夫ではなくGだ。


 正直、いつもなら自分でやっている。

 しかし、このように夫は家の中で何が起きていようと自分から動くこともないから、たまにはその存在価値を示させてあげようという優しい配慮だ。

 そんなことに気づく由もない夫は、仕方なさそうにのっそりと起き上がるとリビングの棚に常備してあった対G用の殺虫剤を手に二階へと向かった。

 そうだ、いけ、いくんだ夫!

 私はその背を応援しながら、ついて歩く。


「また息子の部屋?」

「追い詰めたらそこに逃げ込んだのよ」


 息子の部屋に入ると私は夫とは反対側に回り、『いくわよ?』と目で合図をしてから菓子箱の上の参考書をそっとどけ、菓子箱に手をかける。

 夫がゴクリと喉を鳴らす音が響くが、Gは気配を殺しているのかカサリとも音がしない。

 暴れていると狙いが定まらず地獄絵図になるから、動いていない今ならちょうどいい。

 夫は、「よーし」「よぉぉーし」と何度か気合いを入れるように呼吸を繰り返し、見上げる私に頷いた。


「イチ、ニ、サンで箱をあけたら、ブシューな」


 スパンと叩き潰すわけでもないのだから、そんなにいちいちビビッてないでさっさとやってしまえばいいのに。

 まあ、夫の優しさゆえなのだろう。

 そう考えることにして、夫の合図を待つ。


「じゃあ、いくぞ! イチ、ニの、サン!」


 カウントが弱冠変わっているのはどうでもいいとして。

 箱をがぽりとあけたそこには、何もいなかった。


「あれ? なんだ、逃げちゃったか」


 途端に夫は余裕を出し、「まあ、また出てきたら呼んで」と笑いながら部屋を出ていってしまった。

 その急変ぶりがかわいらしい夫だ。

 また肩透かしかよ! と怒ってもいいところだが、そうすると先ほど抑え込んだ批難が五倍になって返ってくると知っているから賢明なる夫はそれをしない。


 しかし、Gを見たら百匹はいると思えという先駆者のありがたい教えに従い、私は徹底抗戦を決めた。

 すぐさまホームセンターに行き、すべての部屋の数だけ噴霧型の殺虫剤を買い揃えた。

 そうして帰るなりすぐさまそれを設置し、つま先でレバーをぐっと踏む。

 ブシューッと音がして薬剤が噴射されるや、慌てて部屋を出た。

 他の部屋も同様に、家中一斉駆除だ。


 その間は夫を外に放牧し、私は買い物に出る。

 二時間なんてあっという間で、戻ってきてからがまた忙しい。

 窓という窓を開け、食器やテレビにかけていた覆いを外し、家中に掃除機をかけまくる。

 そうして息子の部屋を開けると、失敗に気が付いた。


「あちゃー、窓開けっ放しだった」


 これでは意味がない。

 息子の部屋だけやり直すか?


 しかし、いやいやと首を振る。

 そうだ。Gを逃がすか迷ったあの時に、私は確かに窓が締まっていることを確認した。


 では夫か?

 しかし家中の大事なものにカバーをし始める時点で夫は放逐した。


 この部屋に、何者かがいる……?


 それまで考えないようにしていたことが、急激に頭をもたげた。


 そうだ。

 私は確かに、その可能性を考えないようにしていたのだと気が付いて、私はぼんやりと息子の部屋に立ち尽くした。

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