第8話 最後の一歩を踏み出す理由

「理、おかえりなさい」


 学校に行き始めてからもずっと時短勤務を続けている理の母親だが、先に帰ってきているのは久しぶりだ。

 玄関を入った時にはトントントンと規則正しく聞こえていた包丁の手を止め、振り返って待っていた。


「ただいま」


 そのまま廊下を通り過ぎようとした俺を、理の母親が呼び止める。


「何?」

「うん。学校はどう?」

「別に、変わりはないよ」


 嘘ではない。

 俺は俺のまま、何も変わっていない。


「そう……」


 それで会話は途切れたが、まだ言いたいことがあるように黙り込んでいる。

 学生の時は悪さばかりしていたせいで、こういうとき、つい、何かやったっけ、どれのことだ? と考えてしまう。

 その間に理の母親はぎゅっと拳を握りしめ、もう一度「理」と呼びかけた。


「気付いてあげられなくてごめん」

「なんのこと?」


 シラを切るのがうまい俺でも、どこか確信を持った理の母には戸惑った。


「理が怪我をする前、元気がないなとは思っていたの。だけど、どう声をかけたらいいか迷ってた。頑張れっていう言葉は追い詰めるだけだと聞いたし、そういうこと考えたら何を言えばいいかわからなくなって」


 担任の高田から連絡があったのか、それとも警察かどこかから調査結果として聞いたのか、理がいじめられていたことを知ったのだろう。

 いや。それとも母親の直感のようなものなのか。


 理の元より色のない白い顔がぼんやりと母を見ている。


「逃げてもいいの。死ぬよりずっといいわ。何があっても生きていてほしい。辛いなら引っ越したっていい。学校なんて行かなくたっていい。生きてさえいれば、やり直すことも違う道を歩くことだってできるわ。無理に立ち向かう必要なんてないのよ。それで折れてしまったら、死んでしまったらもうどうにもならないんだから。生きた者が勝ちなのよ。反省も後悔も新しい幸せも何もかもみんな、生きた先にしかないんだから」


 これは理が答えるべきことだ。

 俺は斜め上に浮かんでいる理をちらりと見上げた。


「うん。わかってる」


 理が言ったその通りに、俺は告げた。

 大丈夫、とも、死ぬつもりなんてないとも俺は答えられない。

 理の人生は理の意思の上にあるのだから。

 だから俺は、そのまま二階の理の部屋へと階段をのぼって行った。




「人ってよく『死にたい』って言うよね。凹んだ時とか、恥ずかしくてもうダメって時とか。でも死なないのは本人もわかってるじゃない? それでも言いたくなるのってなんなんだろうね」

「稀に平気な顔して本気で言ってる奴もいるがな」

「――うずうずと胸の底にたまったようになって、ぽそっと声に出したくなるんだ。言ったら許されるような気がするのかな。口に出したら目の前に現実が広がって、『あー、ナイナイ』って否定できるからかな」


 それは経験者の疑問だった。


「『死にたい』は『幸せに生きたい』ってことだろ。ただ純粋に死だけを求める奴は、もう生きちゃいない。生きたいのに生きられないから、死にたいって口にするんだ」


 救われたい。

 まだ抗いたいんだ。

 だから死にたいと口にして、生き延びようとしている。

 それは俺にもわかる気がした。

 だが、最後に自らの死を選択する奴の気持ちはわからない。


「ここから落ちても死にはしないだろうとは思ったよ。だけど、大怪我したらしばらく学校に行かなくて済むなあ、って思うくらいには疲れてたみたい」


 そう言って、斜め上にふわりと浮いていた理が俺を振り返り、笑った。

 俺は思わず水筒を勉強机に力いっぱい叩きつけ、ガァンと空洞に重い音が響いた。


「何でだよ。そんなの悔しくねえのかよ!」

「悔しいに決まってる。一瞬、このまま死んでやろうかとも思った。だけど何で僕が死ななくちゃいけないのか、そんなの意味がわからないってすぐに打ち消した。だけどあそこで僕が死ねば、加藤くんは殺人犯として疑われることになるって、つい考えた。

 死んだら僕に口はないんだから、加藤くんがうまいこと言えば僕が勝手に落ちたとか自殺したとかって話になる。死人は勝てない。だけど、あの一瞬だけは理屈と感情がないまぜになって、ごちゃごちゃと頭を過って。目の前の男を苦しめたい。楽になりたい。そんな思いが頭一杯に膨れていって、最後は何も考えられなくなったんだ」


 瀬戸際に立たされたその時のように、理は理屈と感情に揺れていた。

 わかってる。だけど。

 その問答を一瞬の間に何往復もしていたのだろう。


「死にたいなんて思ってなかった。母さんや父さんが悲しむこともわかってた。だけどそんなものに縛られずに、何も考えずに自由になれちゃえたらいいのにって、ふっと思ったんだ。誰かのためじゃなく。自分のために生きるって、その一瞬は、僕にとってはそういうことだったんだ。

こういうの、魔が差したっていうんだろうね」


 俺は何も言えず、ただ黙って水筒を握り締めた。


「ただ純粋に死だけを望む人なんていないんじゃないかな。健康で楽しく幸せに嫌なことなんて何もなく暮らすことができないから、生きていることが辛いから死にたいと思うんじゃないかな。自ら死を選ぶことは確かに罪かもしれない。だけどそうさせたのは誰? そいつが全ての元凶なんじゃないの? 仕方ないから死ぬのに何故責められなければいけないの?」

「結局自分を殺したら、犯人は自分だからだろ」


 理の目がこちらを見た。じっと見つめたあと、ふっと笑う。


「わかってるよ。理屈は全部わかってる。これまでにずっといろんな言葉を、言い訳を考えた。だけどその度に必ず自分を論破したから。死んでいい理由なんて見つからなかった。だけど自分を生きさせるのは結局『気持ち』でしかないんだって、あのときわかっちゃったんだ。どんな理屈を並べたてようと、僕は自殺なんてしないってどれほど思っていたって、最後の大事な瞬間に心が折れたら、それで終わりなんだ」


 それは真実なのだろう。

 何度も自殺未遂を繰り返した末に本当に死んでしまう人がいる。

 どんなに同じことを繰り返していて無事でも、最後の一瞬に、不意に何を思い、最後の一歩に届いてしまうのか。それは誰にもわからない。


「だけど、僕はもう『死』に逃げたりしない」


 理はゆっくりと息を吐くようにして、それから窓の方に目を向けた。


「母さんがどれだけの思いを込めて言葉にしてくれたか、わかるから。前は、僕を大切に思ってくれるその気持ちが、呪縛でしかなかった。母さんと父さんがいるから『死ねない』って思うのが苦しかった。自由になれないのは二人のせいだって思いもした。だけど今は、それが幸せだと思えるから。二人が思ってくれることが、僕の力になったから。きっともう僕は僕に負けたりしない」


 理の中にも迷いはあったのだろう。ずっと戦っていたのだろう。

 自ら死を選んでしまう道が、こんなにもすぐ側にあることに俺は気付いていなかった。

 これほどまでに物を考え、他者の気持ちを理解し、尊重しようとする理でさえ、死の誘惑にふらついたのだ。それほどまでに追い込まれていたのだ。


 それでも、理をそこまでにした奴らを幸せにすると改めて決め、情報を集め、考えてきたのだ。

 その精神力は並大抵のものではない。

 自分のことではない、俺ですら怒りに震えているのにそれを胸に収め、全てを終わらせるために自ら最も辛く苦しい道を選んだのだ。


「そうだな」


 肯定し、宙に浮かぶ理を見上げる。


「今のおまえになら、体を返してもいい」


 理は二度とその命を無駄にすることはないだろう。


「一ノ瀬さんのおかげだよ。自分が間違ってなかったって確認できた。僕を強いって言ってくれたから。僕の計画を笑ったりせず、全力で立ち向かってくれたから。自信が持てた。一ノ瀬さんの命を思う言葉に、僕は命が大切なんだって当たり前のことを当たり前だとちゃんと思えるようになった。命のこと、どう生きるか、どう生きたいか、たくさん考えた。だから、もう一度その体で生きさせてください。今度は絶対に投げ出したりしないから」


 そう言って理は、俺の前にふわりと浮いた。


「計画の途中だけど、約束の時間が来たんだ。『一ノ瀬さん』が、目覚めたよ」


 目を見開いた俺に、理は首を傾げた。


「だけど今も僕の中にいるあなたは、誰?」

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