第4話 どんな行動も、水面に波を生む
「一ノ瀬さんなら大丈夫そうだとは思ってたけど。いざ目の当たりにすると突き抜けててびっくりした」
南棟には音楽室や家庭科室などの特別教室と職員室があり、屋上へとつながる外階段は人気がなく静かだ。
理と会話するには人目を避ける必要があったから、昼はここで食べることにしていた。
膝の上に弁当を広げると、一段目がご飯、二段目には彩り豊かなおかずが並んでいる。
「別に俺のメンタルが鋼なわけじゃなくてだな。知らない歌をいきなり歌えって言われてうまく歌えるわけねえのは当たり前だろ、ってだけだ。それを笑われても、そりゃあなとしか思わんわ」
「そう割り切れない人がほとんどだと思うよ。僕もプライドがあるから、自分を低く見られたり、貶されたりするのは嫌だな。貶める意図で『笑い』という行動をとられるのも不快だし」
「どうでもいい奴にどう思われても関係ないだろ?」
「でも、雑踏で転んだら恥ずかしくない? 周りは知らない人ばかりで人生に関わりもないけど」
それは確かに。
「あー。そこら辺を歩いてる人には『変な人に見られたくない』って欲があるな。だけどパジャマで登校した奴に寝ぐせを笑われても、『いや、おまえに笑われてもな』って思うだろ? あのクラスの奴らは俺にとってみんなそんなだ」
いじめをするような奴のほうが音を外している俺よりよっぽど恥ずかしいというのに、何を楽しそうに笑っているのかうすら寒くすらある。
狭い世界で生きる奴らには、外の人間から見た自分がどんなかまるでわかっていない。
これだけ世の中ではいじめが批判され、ニュースになり、議論が発展していて、それを知っているはずなのに、まるで自分の世界には存在しないという夢を見ているかのようだ。
目の前の自分を取り囲む小さな世界が、外の世界で大きく取り上げられることなんてないと思っているのだろう。
芸能人が転校してくるなんて漫画の世界でしか起こり得ないと考えるのと同じように。
俺が今は大人で、社会を知っているからそう思うのだろう。
子どもの頃は今その目に見えているものだけが自分の世界で、画面の向こうは自分と繋がっているような気がしなかった。
そう昔の自分に思いを馳せることはできても、今の俺に奴らの思考は理解できない。
異次元の生き物だ。
「みんな、か……」
「みんな、だろ。見て見ぬふりをする奴も、俺にはどうでもいい」
「傍観者も加害者だと言われているけれど。僕からしたら、クラスの人たちは傍観してるんじゃない。耐えてるんだ。だから、被害者だよ」
この狭い世界にいれば、クラスの中の息の詰まる空気というものが嫌でもわかる。
庇うような真似をすれば自分が成り代わることになると理が見せてしまったからなおさら、誰も目立つような行動はとらない。
そうでなくても以前のようにその場の気まぐれで誰かが標的にされるかもしれない。急に自分に矛先が向くかもしれない。そんな怯えが見て取れた。
もしかしたら理が休んでいる間は誰かがターゲットになっていたのかもしれない。
だから誰もが視線を躱そうと息を潜め、身を縮こまらせるのだろう。
自分を殺し、ただただ時間が過ぎるのを耐えて待っている。
「当事者、だろ」
別に加藤一派に怯える奴らを批難するつもりはないし、そうなってしまうのも、まあそうなんだろうなと理解はする。
だが一人の人間が死にかけたのだ。
それなのに周りは何も変わらなかった。
事実なんて知りようがなくとも、クラスの誰もが目にしていた日常と理の『事故』を結びつけるのなんて簡単なことで、一度は頭に浮かんだはずなのに。
だから俺は加藤一派以外のクラスの奴らのことも怒っている。
一人の人間にできることは多くない。そう考えるのもわかる。
だがそうして加藤一派だけを気にしているから、周りなんて誰も見えていないのだ。気づいていないのだ。
教室の真ん中でふんぞり返ってあざ笑っている人間より、縮こまって耐えている人間のほうがよっぽど多いということに。
理の言うように『被害者』と考えれば視野がさらに狭くなっているのも致し方ないことだろう。
だが今の俺の言葉であいつらを動かせるわけじゃない。
理もたぶん、俺が言いたいことはわかっていない。
俺は言葉だけで誰にでもわかるように伝えられるほど器用じゃないし、遠回りだとしても俺自身で見せていくしかない。
「ああ。一つだけ謝っとく。今期のおまえの音楽の成績は期待できない」
五教科については既に謝ってある。
音楽くらいはいけるだろと思っていたのが完全にあてが外れた。
「そんなこと、別にいいけど。歌は苦手?」
「いや、元々はそんなに音痴ってわけじゃない。カラオケも好きだしな」
卵焼きをつまみ、口に放り込むと、理は考え込むように顎に指をあてた。
「やっぱりその体だと勝手が違う?」
「ああ。今までの声の出し方のまま歌うと喉になんか引っかかるみたいになって、声が裏返るんだよな」
「そうなんだ……。僕、ずっと考えてたんだよね。今ここにいる僕ってどういう存在なんだろう。その体に入った一ノ瀬さんって、どこまでが一ノ瀬さんなんだろう、って」
「なんだそりゃ」
「よく、心はどこにあるのか、脳か心臓か、って議論があるじゃない? 僕のその体には脳も心臓もある。だけど心は僕じゃない。こういうことがこれまでにもあって、同じように記憶や感情がそこにあったから、魂っていう概念ができたのかなって考えてた」
「随分めんどくせぇこと考えてるな」
まあやることもなければそうなるのもわかるが。
俺の言葉など気にした様子もなく、理は考えるようにして続けた。
「だけど、一ノ瀬さんが僕の体で歌うのに苦労したみたいに、脳や心臓とか、体も心に関係してくると思うんだよね。脳のつくりや発達によって、得意不得意があって、能力差もある。心臓の働きによって血の巡りなんかも左右される。そこから行動や思考にも影響が出るはずじゃない?」
なんだか話が難しくなってきた。
俺は必死についていこうと頭を整理しながら口を開いた。
「心は俺でも、理の体にいればその影響を受けるはずで、感情や思考がそれまでとは違ってくるんじゃないか、ってことか」
「そう。心と体は互いに影響し合っていることは医学的にも証明されてるし。そう考えた時、それは『一ノ瀬さん』なのかな」
最後にぽつりと呟かれた言葉に、ぞっとした。
俺は俺だ。
そう強く確かめる。
しかし理が言うこともわかる。
いつの間にか俺は理の体に馴染み、影響を受け、俺ではない俺になっていくのかもしれない。
それだけじゃない。俺が理を侵食してしまうかもしれないと考えるのもぞっとする。
このままの状態が続けばどうなるかわからない。
だからといって今はこの体を捨て去ることもできない。
「それに、こうしてふわふわ浮いて漂う僕には考えるための脳も、その活動の素になるエネルギーもない。時々思考がぼやける時があるんだ。僕はいつまでこのままいられるんだろう」
「近いうちに限界はくる。その前に体は返す」
「珍しく断定的だね」
首を傾げた理が興味深げに俺を覗き込むのを無視して、ご飯をかきこむ。
しっかりと咀嚼して飲み込んでから、次の一口に迷い、ミニトマトを口の中にころりと放る。
「……状況から考えればそうだろ。まあ、どうすれば元に戻るのかは俺にもわからんが」
ミニトマトを嚙み潰すと酸味が口いっぱいに広がる。
彩りのために入れられたのだろうと思ったが、栄養バランスも考えてのことなのだろう。母親というのは偉大だ。
「前に自分の体に戻ろうとした時はダメだったんだけど。僕の体の中に一ノ瀬さんがいて、意識がない状態だったからかもしれない。なんていうか、こう、閉じた状態だったんじゃないかな」
「まあ、その時が来たらやってみればいい。お経でも何でも読んで俺を追い出せよ」
理が真面目に「お経ってどこの宗派で読んでもらえばいいの? 一ノ瀬さんの家はどこの――」と真面目に考え出したから、無理矢理話題を戻した。
「しかし、さっきの音楽の授業で反応が薄いなと思ってたら、そんなことを考えてたわけか」
「うん。『自我とは何か』ってところまで考えてた」
「永遠に考えてられそうだな」
だが、自分で体をコントロールできないやきもきをじっと味あうのも辛いだろうから、そうして別のことを考えていたほうが精神衛生上いい。
奴らはああして理をいじめていたのだろう。
あんなのは序の口に過ぎないことは理の反応を見ていてもわかる。
だが受ける側にとっては気にしていなければ意味はない。むしろ奴ら自身が評価を下げてしまうリスクを負うだけだ。
そういう意味で、あいつらが俺へのいじめを成功させるのは至難だろう。
俺はアラサーのおっさんであり、俺にとってどうでもいい奴らにどう思われようがどうだっていいのだから、参りようがない。
次はどんな工夫を凝らしてくるのかと楽しみにさえしている。
一方の言い分だけを聞いて物事を進めるのは気持ちが悪いと様子見しているところがあったが、事実確認もできた。
俺自身にも、奴らを大人しくさせるべき理由もできた。
俺がダメージを受けていないことと、奴らが何を思って何をしたかは別問題だ。
宝くじが外れて何の利益もなかったからといって、買わなかったことになるかといえば、そうはならない。
俺は売られた喧嘩は買うし、やられたらやり返す。
人に悪意をもって仕掛けたのならば、それなりの覚悟はすべきだ。
理の計画には従うが、それ以外に何もしないとは俺は一言も言っていない。
前言撤回だな。俺自身に戦う理由を与えたのだから、奴らの底意地の悪いあの小芝居は無意味なんかじゃなかった。
さてやるかと本気を出して考えてみれば、やっぱり俺も理と同じようにさっさと加藤を潰してしまうのが一番だと思う。
いちいち一人ずつ潰していくのは効率が悪いし、加藤がすべての人間を動かしているのはこの短い時間でもわかった。
だが加藤をなんとかするだけではダメだ。
代わりに桜井が立つだろう。楽しさを知っている奴は、また同じことを求める。繰り返す。
杉本のように調子に乗りやすい奴がそれを助長し、押し上げる。
だからこそ理のように慎重に考える必要があるのだとよくわかった。
俺みたいにすぐ反射でやり返そうと滾っていては、根絶はできない。
幸いにも、二人目に撒いた種もそろそろ芽吹き始めている。
順に刈り取っていくとしよう。
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