第三十七話 フレイにとって彼女は

 それを見た時、神聖なる力とはこういうものを示すのかと、フレイは思った。

 ナズナから、淡い光が溢れ出ている。それは青色を纏っていたかと思えば銀色になり、金色を帯びて淡い赤にもなる。月の色だと、そう感じた。

 月神の魔力は、リリーの黒い肌を覆い始めた。冷たい魔力が染み込んでいくのが、ナズナの手と、リリーの身体から伝わってくる。

 リリーが目を閉じる。気持ちよさそうに、穏やかな顔をして。

 何をしているかわからなかったフレイは、そのまま彼女の命が消えてしまうのではないかと不安になった。

 ぽん、と。肩に手が置かれる。


「安心しろ。ナズナは、浄化をしているだけだ」

「浄化……?」


 説明を求める。浄化とは何なのか。リリーはどういった状況なのか。

 何故、ナズナはそんなことができるのか。


「月の魔法石と同じ原理だ。ナズナは今、月神の魔力を用いて、太陽の魔力を消し去っている」

「それって、ナズナさんが……」

「ああ。“そういう”ことだ」


 フォルクスはみなまで言わなかった。言われなくても、フレイにはわかってしまった。

 ナズナを見る。睫毛を伏せ、淡い瞳でリリーを真剣に見つめるその横顔は、覚悟を決めた顔つきをしていた。

 軟禁だと諦めたように笑い、外には出られないよと寂しそうに首を振る。そして会いに来てほしいと、ささやかな願いをフレイに伝えた彼女。その中にはいつも、フレイには言えない特別が見え隠れしていた。


(ナズナさんは多分、その特別を俺には見せたくなかったはずだ)


 フレイが現れると、酷く安心したような表情を見せ、わたし自身を見てほしいと表現する彼女の特別に、フレイが気付かないはずがなかった。

 でも彼女は隠すから。それを見ないでほしいと目で訴えるから。見ないふりをしていた。ただの探偵として、接していた。

 それが彼女にとって一番安心できる時間で、居場所であったのだろうと、フレイは感じている。

 だからこんな風に、その特別を見せられる日が来るとは思っていなかった。

 いや、見せるつもりはなかったのだろう。何もなければ。


(でもナズナさんは、俺を助けるためにここに来た)

 

 それにはどれだけの覚悟が必要だっただろう。どれだけの恐怖があっただろう。フレイには測り知ることができない。

 それでも彼女はここに来た。出てはいけないはずの部屋を飛び出し、おそらく止めたであろうクレイス家の反対を押し切って。ここに、飛んできたのだ。


 ――幸福を諦めちゃだめです。


 それは以前フレイが伝えた言葉。手を差し出した時に伝えた想い。

 あの時、ナズナはその手を握らなかったけれど。

 三ヵ月の時を得て、彼女はこうして、フレイの元へ現れた。

 それならば。フレイ自身が諦めているわけにはいかない。


「ナズナさん。お願いだ。リリーちゃんを、元に戻してくれ……!」


 強く、願う。彼女の魔力を、彼女の特別を目に焼き付けて。

 すると彼女は――淡く、笑った。


「それがあなたの、依頼ねがいなら――」


 光が強まる。四色の光はやがて虹色に染まる。

 ガクン、とリリーが震えた。黒い唇から息が漏れる。閉じていた瞳が、かっと見開かれた。


「うあ、あ……ああああああっ!!」


 突然、抵抗するかのようにリリーが叫び声を上げた。身体を反らし、かと思えば足を曲げてくの字になり、左右に大きく揺れる。焦点の合わなくなった視線が宙に投げられ、絶叫が迸る。

 その声と共に、黒い瘴気がナズナとフレイを覆うようにして広がった。羽を拘束していた氷に亀裂が入る。魔力がぶつかり合っているのか、何かを引っ掻くような何とも言えない耳障りな音が空気を痺れさせる。


「くっ……!」


 リリーに乗りかかっていたフレイは、あまりにも暴れる身体から振り落とされそうになった。しがみつくようにリリーの腕を掴むと、やめろとばかりにその左腕が振り回され、伸びた爪がナズナの肩を引っ掻いた。

 鮮血が舞う。フレイは目を見張る。


「ナズナさんっ!」

「離しちゃ駄目!」


 悲鳴を上げるようにナズナが叫んだ。

 はっとしてフレイは、ナズナと繋がっていた手に力を込める。離れそうになったその手を、ぐっとリリーの胸に押し当てる。そこから、熱すぎるくらいの熱が伝わってきた。リリーの体温か、それとも太陽の魔力か。わからなかったけれど、この浄化を止めてはいけないことは瞬時に理解した。だから――


「リリーちゃん! 俺の声が聞こえるか!」


 揺れる視界の中、フレイも叫ぶ。深紅の瞳に呼びかける。


「頑張ってくれ……! こっちに、戻っておいで!」


 ――君は、死んではいけない。こんなところで命を手放しては駄目だ。

 それにまだ、君は俺の作ったお菓子を食べていないだろ……!


「俺が作った焼きマシュマロを食べるんだろ? 綿あめを食べたいって言ってたじゃないか!」


 作るよと言ったら、楽しみだと身体を揺らした姿を覚えている。身体を温めながら見せてくれた笑みも、魔法に目を輝かせてくれた、子どもらしい翡翠の瞳もしっかりと覚えている。

 友達が亡くなってしまったと涙を流して弔ったリリーの、彼女の生活をまた取り戻したいと思った。魔物になっても、完全には意識を手放さず、深い森に隠れるようにして、これ以上犠牲者を増やさないようには自身を抱いていたリリーは、利口で優しい子だ。

 そんな子が、罪のない子どもの人生が、一人の大人の欲望によって踏みにじられることなど、あってはならない。

 君はこんなところで、命を手放してはいけない。


「絶対に君を助けるって約束した。俺は約束を破らない! だから……!」


 だからどうか、戻って来てくれ。太陽の魔力なんかに、その身を受け渡さないで――!


「リリーちゃん……!」


 強く、強く。小さき身体を抱きしめるように、フレイはリリーの名を呼んだ。

 すると――


「……おにい、ちゃん……っ」

「っ……!?」


 魔力の音の中で、甘い声が響いた。苦しそうに呼吸をしていた唇が動き、拙い言葉を零す。


「こわ、い……しにたく、ない……!」

「ああ……! 安心して、リリーちゃんは死なない。死なないよ!」


 絶対に死なせたりなんか、しない……!

 リリーの赤い瞳から、涙が零れ落ちた。その涙を指で掬い、フレイは安心させるように彼女の腕をさすった。頬を包み、頭を撫で、大丈夫、大丈夫だからと繰り返す。

 そうするとリリーは、フレイの声が聞こえていたのだろう。荒い息を繰り返しながらも、次第に落ち着きを取り戻していった。

 ぱっと光が弾けたのはその時だ。リリーを覆っていた黒い影が、黒く変色した肌が、虹色の光を受けて、まるでかさぶたのように剝がれ落ちた。

 同時に、瞳が。血の色をしていた瞳が、柔らかな光を灯す。赤色が洗い流され、透き通った翡翠色が姿を現した。そこから光が広がり、顔を覆っていた影も粒子となって消えていく。黒かった髪も朱色を取り戻す。

 そのまま光に溶けてしまわないように、フレイがリリーを抱きしめると、最後に羽が背中から崩れていき――魔物の気配が、太陽の魔力が、跡形もなく消滅した。

 後に残ったのは、幼き少女。肌も髪も瞳も元の色に戻った、一人の少女がそこに残された。


「リリー、ちゃん……?」


 呼びかける。確認する。彼女の声を。命の灯を。

 そうすると彼女は――伏せていた睫毛を上げて、フレイを見上げた。

 薄紅の、小さな口が動く。


「フレイ、お兄ちゃん……?」


 しっかりとした声は、口調は、彼女が完全に元に戻ったことを表していた。


「あぁ……よかっ、た……!」


 安堵と共に、いつの間にか詰めていた息が吐き出された。潤んだ声も、喉から落ちる。

 よかった。本当によかった。

 助けられた、一つの命を抱きしめて、フレイは繰り返す。

 本当によかった。死ななくて、生きていてよかった……!


「もう、こわいの、いなくなったの?」

「ああ……! いなくなったよ。もう、大丈夫だ……!」


 乱れてしまったが、それでも綺麗な色をした髪を撫でれば、リリーの両腕がフレイの背中に回った。抱き起こすと、彼女の額がフレイの胸に当たる。

 温かかった。フレイに触れる腕も元の長さで、嗚咽を漏らす彼女の行動も幼き少女のもので。何度も何度もそれを確かめて、フレイはリリーの頭に顎を乗せ、もう一度深く深く息を吐いた。

 長い戦いが終わったような気分だった。

 しかし――


「ナズナよ。他の者たちはどうする?」


 フォルクスの言葉は、まだすべてが終わってはいないことを示していた。

 我に返り、フレイは顔を上げる。

 リリーを元に戻すため、奮闘していたナズナを見守っていたフォルクスは、今は杖を片手に周りを見渡していた。

 ナズナが立ち上がる。その横顔を目で追った。

 あんなにも神聖で、それでいて膨大な魔力を使っていたからだろう。彼女の顔色は悪く、疲れたような表情が浮かべられていた。汗が顎から流れ落ちる。それを拭って、ナズナはフォルクスに見上げた。


「もちろん、みんな元に戻します。わたしにしか、できないことだから」


 凛々しいその姿に、フレイはまた、目を奪われる。洋館を離れた後に何があったのかフレイは知らないが、フレイの瞳には、ナズナは町を照らす月のように映った。闇を切り裂き、人々を導く、そんな神々しい光に。

 不意にその光がフレイに向けられた。淡い桃花の色がフレイとリリーを見下ろす。疲れた顔に、笑みが灯る。前から思っていたが、ナズナの笑みは花によく似ていた。道の端に健気に咲き誇る、小さき花。けれど今はその花が、高く大きく育ち、人々を守らんとしていた。

 神を信じていないフレイだが、月神がいたら、こんな姿をしているのではないかと思った。


「フレイさん、手伝ってくれて、ありがとうございます。リリーちゃんを戻せて、本当によかった」

「そんな、お礼を言うのは俺の方だよ。君がいなかったら、この子は……」

「うん、そうなのかも。でもね、わたしにこんなに力をくれたのは、フレイさんなんですよ」


 弾けるように笑って、彼女はもう一度礼を言う。それから研究所の壁際で、いまだ氷漬けにされている他の魔物――姿を変えられてしまった魔法使いたちを見渡して。彼女は足を踏み出した。


「フレイさん、見ててください。これがわたしの最後のわがままと……それから、約束です」

「約束?」

「はい! 前に約束したでしょ?」


 ――目を惹くような強くて綺麗で美しくて、誰もを魅了するような、そんな特別な魔法を見せるって。

 フレイは瞠目する。そのような約束、した覚えはあるけれど、そんなのは本気ではなかった。ただの興味心と、ナズナが庭園を見せるお礼がしたいとだだをこねるように約束を取り付けようとするから、仕方なく頷いた、ただそれだけの約束だった。

 それを彼女は、果たすと言うのか。


「でも、最後って……?」


 その問いには、ナズナは答えなかった。

 杖を持たない両手を祈るように合わせ、研究所の中央に立って。彼女はその身に光を宿す。

 虹に似た、月の光を。冷たいけれど、温かい、彼女が持つ特有の魔力を全身に漲らせ、ナズナは囁く。

 先ほどリリーにもかけてくれた魔法を――月桂樹ローレルと。


「ナズナの魔法を見てやってくれ」


 フォルクスが言った。言われずとも、フレイの目はナズナの魔法に釘付けになった。

 ナズナから溢れ出た光は、ナズナを中心に柔らかく四方へと広がった。それは魔物一人一人を包み込み、光の柱を作る。魔物を閉じ込める氷に染み込んでいき、黒い肌を巡り、その内側から太陽の熱を浄化していく。外へ漏れ出した熱は、金の光を纏って宙に浮き、消えていく。フレイの目には、それが花のように映った。


(月桂樹だ)


 月桂樹は、神聖な光を纏う樹だ。月神の加護を受け、濃い魔力を身籠り、一年中葉を枯らさないと言われている聖なる樹。王のいるコズモス地方を支えている、ファルナで一番大きな樹でもあった。

 ナズナはそれを作り出しているかのように見えた。その聖樹と、月神の加護で、魔法使いたちを助け出している。

 美しかった。美しいだけでは表現が足りない。身体が震え、息をすることを忘れ、己の抱く闇や負の感情さえも洗い流されてしまいそうなほどに清らかで神々しくて、目を離せないほど、離したくないほど、この世のものではないと思えるほどに、美しい魔法だった。

 そしてそれは、フレイの胸を激しく打った。どうしようもなく実感させられる。

 彼女は神聖なる存在。手の届かないほど遠い存在。

 『月の子』なのだと――


(だから、か――)


 虹色に染まる空間で、フレイは吐息を漏らす。

 わかってしまった。ナズナの言った言葉の意味が。最後という、言葉の重みが。

 覚悟を決めた瞳が向けられた理由を、察してしまった。


(君はもう、俺に会わないつもりなのか)


 『月の子』は、現在では秘匿とされる存在だ。その命が狙われないように――人や魔法使いだけでなく、魔物、それから月神を敵と謳うアウローラという勢力から守護するために――、その存在は隠されている。公になることなく、ひっそりと国の王とされ、そして知らぬ間に命を落とす。『月の子』はそのような存在だった。

 数年前にそれを知った時、なんて酷い世界なのだろうと思った。思ったけれど、それをどうにかするほどの力がないことも事実。酷いと思いながらも、フレイはそれを受け入れた。

 そう、受け入れていた。ナズナに会わないままであったのなら。


(でも俺は、君に出会った)


 君と出会って、知ってしまった。君の心の声を。

 『月の子』だとは知らなかったけれど。軟禁され、隠されていた君は、そこから出たいと望み、運命を嘆いていたように見えた。受け入れなければと諦めてはいたけれど、そこには苦しいほどの葛藤と、欲と、涙があったのではないだろうか。


(君は本当に、その運命を受け入れたのか?)


 それはおせっかいなのかもしれない。フレイが口を出すことではないのかもしれない。それでも。

 誰とも知らないフレイに手を伸ばした君は。フレイが持ち込んだクッキーに、写真に、ルナブルームに目を輝かせた君は。

 最後と言いながら、先ほどのフレイの問いに返事せず、背を向ける君は。


(本当は違うんじゃないのか)


 問いかけは言葉にならず、彼女には届かない。

 けれどフレイは、神のように振る舞う小さな背中が、少しだけ無理しているように思えて。

 血を流すその肩も、痛々しいと感じた。


「……ねえ。あのお姉ちゃんは、神さまなの?」


 不意に、腕の中のリリーが問いかける。

 神様。耳に触れるとその言葉は、酷く不似合いに聞こえた。


「違うよ」


 フレイは答える――首を横に振る。


「あの子はただの、魔法使いの女の子だよ」


 言葉にしたら、そちらの方がしっくりときた。

 どんな肩書きを持っていたとしても、特別な力を使ったとしても、それは人を魅了するほどの美しい魔法ではあるけれど。

 フレイにとって彼女は。ナズナという少女は。

 周りと変わらない、ただの女の子だ。

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