第15章 慧と藍

第56話 説得

第15章 慧と藍


第56話 説得


 慧が荻窪の家に帰ると、出勤前の藍は、自室から顔を覗かせ嬉しそうな声を掛けた。

「今日は外出したんだね。学校へ行って友達と会って、少しは元気を取り戻せたのかな? それとも映画でも観て来たの?」


 慧は、これから自分が姉になすべきことを思うと、緊張の余りその声はハスキーを通り越して掠れてしまった。

「姉さん、訊きたい事があるの」


「なあに、慧」化粧を終えた藍は、ティッシュで指先を拭きながら居間に入って来た。


 けばい程の濃い化粧である。衣服は店で着替えるにしても、今身に着けている通勤服もかなり派手だった。


 慧は、藍の顔をまともに見ることができず、白々しく訊いた。

「姉さんが持ってるルビーの指輪だけど、あれは本物なの?」


 藍はルビーのリングと聞いて、一瞬固まりかけたが、ごく自然に振舞った。

「本物の訳ないじゃない。本物だったら幾らすると思ってるの。あんなのおもちゃよ」


 慧は、藍と目を合わせることを恐れ、藍の反対側へと移動した。

 そこには藍のハンガーがあった。


 緊張を隠すように、慧は掛かっている衣服を一枚一枚撫でていた。

 偶然なのか、無意識的に触れたのか、キツネのコートに手を触れた瞬間、慧はびくりとして手を引っ込めた。


 慧を目で追っていた藍は、それを見て、あっと思った。

 慧の視線は、毛皮のコートに釘付けになっている。


 慧はコートから目を逸らすように、藍を振り返った。

「でも姉さんは、あれ結構大事にしていたじゃない」


 藍にも、慧の緊張感が伝わって来た。

(慧は何をしようとしているの?)

 それでも、藍は何食わぬ感じで応答した。

「リングの十八金は本物だし、細工も丁寧だからね。貰いものだけど、割と気に入ってたよ」


 慧の方へ振り向いても、慧は藍を見ていなかったが、その過去形の言葉を聞いた瞬間に、慧は目を上げた。

「気に入ってた? もう無いの?」


 藍は、自分が投げたリングの放物線を思い出した。

(あの後で私は……)

「くれた人には悪いけれど、この前失くしちゃった」藍の声に、僅かな震えが混じった。


「姉さん、このキツネのコート……」

 慧はコートに手を伸ばし、そこで言い淀んだ。


 藍は本能的に、危険信号を察知した。

「なあに、慧。今日は少しおかしいね。あんなことがあって、信也さんのことがよっぽどショックなんだろうけれど、あの人のことは忘れるしかないのよ」


 慧は、信也という言葉を聞いて、思わず目を瞑った。

「シンのことは忘れないよ、ずっと!」


 藍はソフトに声を掛けた。

「今は、そう考えるのも無理ないよ」


 慧は、藍を追求すべく意を決した。それは、信也と云う言葉の効果かも知れなかった。

「姉さん、十二月九日、金曜日の夜どこへ行っていたの?」


 藍の危険信号は、黄色が点滅を始めていた。

 ごく普通を装って、藍は返事する。

「花金だもの、お仕事に決まってるでしょ」


「ウソ! お店の人に訊いたら、その日は姉さんが休暇を取ったって答えたよ」慧は強い口調で決め付けた。


 藍の心臓の鼓動が、少し早くなって来た。

「慧、どうしたの? 何かあったの?」


「姉さん、あの夜、津田沼へ行ったんじゃないの?」


「どうしてそんなことを訊くの?」


「姉さんはあの夜、貝原洋と会ったんでしょ?」

 慧は、藍をじっと見詰め続けていた。


 藍は思わず目を逸らせる。

「どうして……」


 藍の目が泳ぎ出し、慧の口からは、追求の言葉が溢れ出した。

「あの現場から、ルビーのリングのレプリカも見つかった、キツネの毛が、たぶん貝原洋の衣服に付いていた。姉さんの髪の毛も見つかった。あのリングは黒木アユからもらったんだよね?」


 呑まれた様に、藍は答えた。その声は明らかに震えている。

「何でそんなことまで知ってるの?」


「姉さんと黒木アユは、お互いに殺したい人を、交換殺人したんだ……姉さん、自首しよう」慧は藍の手を取った。


 藍は慌てて、その手を引っ込め、一歩後ずさった。その目は怯えていた。


「自首すれば、刑期も短くなるよ」

 慧はハスキーな声を絞り出した。


 藍はイヤイヤをするように、首を左右に何度も振り続ける。

 声は殆ど消え入りそうだ。

「……そんなことしたら、あんたに迷惑が掛かるよ。外交官にもなれない……」


 ずっと年下の慧が、姉をいたわる様に抱きしめた。

「そんなことどうだって良いの……

 姉さん、この先一生苦しみ続けることになる。私もそう、姉さんを赦したくても、憎むようになると思う。私、姉さんを憎みたくないよ……」


 藍はぶるぶると震えている。

「……もうわかった。もうそれ以上言わないで慧……」


 二人は暫くそうしていた。お互いの温もりが、その気持ちを正直に伝えて行く……




 二人は既に落ち着いていた。

 慧は、藍を慈しむ様に見詰め、口を開いた。


 藍は、慧の口許の動きをぼんやりと見ていた。


「姉さん、町村さんがね、今でも姉さんを愛しているって……姉さんが出所するまで待つって、そう言ってくれたんだよ」


 口許を見ていた藍の目が、慧の目の色を確かめるかのように、僅かに角度を上げた。


「まさか慧、町村博信さんのことを言ってるの?」


「そうよ、町村さん外で待ってる。部屋に入ってもらう?」


「……そんなこと急に言われても……」

 藍の頭の中は混沌としていた……

(町村、町村……町村博信)突然、町村の顔が明瞭に浮かび上がった。

 その顔は、自分に微笑みかけていた。


「お姉さんを本気で愛している人が、私の外にも居るんだよ!」

 慧の声に同期するかのように、町村が自分に語り掛けたように、藍には感じられた。


「町村さんの愛は本物だよ。あの人は信じてもきっと大丈夫」


「でも慧、怖いよ、私、あの人に会うのが怖い……」藍は、子供の様にそう答えた。


「大丈夫、姉さん私を信じて」

 慧は再び、藍を抱き締めた……




 慧は、藍の同意を得て、外で待つ町村を部屋に入れた。

 広美はまだ外で待っていた。


 町村が、松原の家に入ってから一時間ほどして、その町村から広美の携帯に電話が掛かって来た。

「広美さん、今夜だけ、今夜だけで良い……最後の夜を、藍さんと慧さんの、二人水入らずにしてやって欲しい……

 藍さんは自首すると約束してくれた。明日の朝、必ず警察に出頭させますから。

 広美さんお願いです……」

 掠れ声の町村から必死の思いが伝わって来る。


 広美は静かに答える。

「町村さん、私は始めからそのつもりでした。

 慧さんに伝えて下さい。信也の葬式も、お墓参りも一緒に行こうって。それは、慧さんと私の約束だから……」


「広美さん、ありがとう。慧さんも、この話を聴いています。今、慧さんと代わります」


 町村の喜びの声が消えると、慧のややハスキーな感激の声が聞こえて来た。

「広美さん、ありがとう!」


「慧さん、辛い思いをさせてしまってごめんね」


「姉さんも苦しんでいました。大事な人を奪うなんて、自分はどうかしていたって。

 姉さんに代わって謝ります。ごめんなさい!」


「今夜は姉さんと、思う存分語り合いなさい。たった二人だけの姉妹なんだから」


「広美さん、ありがとうございます……」


 しんしんと冷えている筈なのに、何故か、広美は辺りの空気に温かみすら感じていた。

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