第51話 慧の姉

第51話 慧の姉


 広美は、慧の目をじっと見る。

 慧は言葉を待っていた。


「実は犯人の特徴はわかっているんだ」


「どんな奴ですか?」


「女だよ」


「女?」

 女と聞いた途端、何故か慧の心の中に、姉の藍の顔が浮かび上がり、慌てて慧はそれを振り払った。


「犯人は、栗色のショートヘアをした、血液B型のやや年配女性らしい。

 その女は、下を見ていた信也の足元を、後ろから掬い上げて、防護柵の外へ突き落としたらしい」


 慧は、犯人の特徴を聞いて一旦ほっとした。と同時に怒りが湧いて来る。

「そんなことがわかるんですか?」


「現場には、犯人の髪の毛が落ちていたらしいの。

 貝原の方は、別の女が突き落としたらしい。その件は情報をもらえなかったわ」


「二人も犯人がいるんですか?」慧の目が大きく開いた。


「屋上九階で、貝原が先に突き落とされ、その後、八階で信也が突き落とされたらしいのよ。

 それが別々の事件なのか、連続殺人なのかは、全くわからないらしい」


「何だか難しそうな事件ですね……」


「だから、私たちの手で究明したいと思う訳。警察も簡単には、この事件を解決できないと思うからね」


「私たちで何かできますか?」


 広美には今の所、その方法が全く思いつかなかった。

「慧さん、さっき言った犯人像に該当する女を知らない?」


「知りません。第一、信也さんと私は、いつも二人切りでしか会ってません。それに……」慧はそこで口ごもった。


「それに?」


「二人の交際を知っている人も、私の姉だけです」


 手掛かりが無い以上、広美は、傍に浮かんでいるものは藁でも掴もうと思っていた。

「お姉さんは、その交際をどう思っているの?」


 慧はそれを、広美の単純な質問だと理解していた。

「賛成はしてくれませんが、反対もしませんでした。

 二人のことでは、姉は唯一の良き相談相手でした」

 慧は、信也とのことで悩みを聴いてもらったことを思い出し、また暗い顔になった。


「お姉さんは幾つ?」

 慧は答えてから、突然その質問の意図に気が付いた。


「三二歳です……姉は絶対違いますよ。

 第一、姉はO型ですし、髪はセミロングで、一月前から黒髪ですから、ほらこの通りです」

 慧は、携帯に姉の写真を呼び出し、広美に見せた。


 小さなディスプレー一杯に、慧と並んで、かなり年上の女が、仲良く写っていた。部分拡大してもらうと、女のショートコートが、キツネの毛皮らしいこともわかった。

 女の髪の特徴は、慧の言うとおりで、その化粧はかなり濃かった。


「この前、姉の店へ遊びに行った時、お店の人に撮ってもらったんです。

 姉はホステスまでして、私を高校、大学へと行かせてくれた。誰にでも自慢できる姉です」


 広美はそれを、じっと舐めるように見てから、「うん、素敵なお姉さんだね」と言ってから、取り繕うように言葉を継いだ。

「別に疑った訳じゃないけど、念の為ってこともあるでしょ」


「はい……」慧は複雑な気分で答えた。


 その時、慧の携帯が鳴った。

「はい」

「・・・」

「ええ私です……あなたはどなたですか?」


 慧の緊張感が、広美にも伝わって来た。


「捜査一課の亀山さん? はい、どういうご用件でしょうか」


 広美は、自分を指差してから、口許で人差し指を立てた。

 慧は意味がわからず、とりあえず電話を保留した。


「千葉県警の亀山警部補でしょ? 関係者に勝手に会うなと止められているから、私の事は内緒よ」


 広美がそう説明すると、はいと答えてから、慧は保留モードを解除した。


 慧の電話が終わると、早速広美が訊ねた。


「亀山さん、何だって?」


「今日か明日、信也さんのことで、会って訊きたい事があると言ってました」


「それで明日にしたんだね。じゃあ今日は二人で動けるね?」


「ええ、大丈夫です。何か当てがあるのですか?」


 そう訊いた慧は、とても聡明な女性に見えた。改めて、広美は慧の魅力を認めた。


「信也の親友で、貝原の担当編集者が居るの。

 太平洋書店の町村さんに会って、色々情報を集めよう」


「太平洋書店の町村さん?」

 慧が長い間忘れていた名前だった。


 慧の反応に気付き、広美は訊いた。

「知ってるの?」


「下の名前は?」

 慧は怒っているように見えた。


「町村博信、年は信也と同じ四十歳よ」


 慧は、そうですかと言って、姉について再び語り始めた。

「私が小学六年生の頃です。大学を卒業した姉は、太平洋書店に入社して、その夏、町村博信さんと婚約したんです。

 何で姉さんが、あんなおじさんと結婚するのか、私には不満でした。でも今の私に、そんなことを言う資格は無いですね。

 婚約は口約束だけだったみたいで、間も無くその話は解消になりました。

 姉は詳しいことを教えてくれませんでしたが、母の重病が、その原因だったのではないかと私は思います。酷い男だなって思っていました」


「へえ、そんなことがあったの……」

 広美は、町村の顔を思い浮かべた後、慧姉妹の悲しい境遇に同情した。


 広美が、お父さんのことを訊くと、自分が四歳、姉が高校生になった年に癌で亡くなったと、慧は答えた。

 広美は軽々しい同情の言葉を、慧に掛けることはできなかった。


 一度話し出してしまうと、慧は、姉の為にも、その先を話さなければならないような気がした。

「母はその翌年の十一月三十日に亡くなり、姉はその翌月会社を辞めてしまいました。

 次の年の春、私たち姉妹は大阪へ転居しました。

 姉は二人の生活の為にホステスを始めたんです。でも私が大阪の中学校に慣れなくて、たった一年で、また東京へ戻ることになってしまいました……」


「大変だったね……」広美はそれしか言えなかった。


「ああ、すみません。こんなこと話すつもりじゃなかったのに」

 慧自身が、そんなことまで話してしまった自分自身に対し、一番驚いていた。

 それも町村博信と云う、嫌いな名前を突然耳にしてしまったからだろう。


「いいじゃないの。辛いことは誰かに話してしまえば、幾らか楽になるよ」広美はできるだけ、軽い感じで言った。

 そしてその目は、慧を包む込むように見守っていた。


「そうですね」

 慧は、話したことを、それほど後悔せずに済んだ。


「じゃあ、嫌かもしれないけれど、町村さんの所へ行きましょう」


「ええ、私は大丈夫です」


 広美はその場から、町村の携帯に電話した。

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