第13話 慧の思い出

第13話 慧の思い出


 二度目を読んだ後、信也は別れのメールの時と同じ様に放心状態になっていた。

 違っていたのは前回はそれが比較的長く続いたのに対し、今回は空虚な空間が周囲の物質を吸い込むようにどんどん満たされていくのを感じたことだった。


 あの二週間続いた国際電話を思い出す。

 IP電話が普及したおかげで、オーストラリアまでの国際電話料金は、国内で市外電話を掛けるような気軽さがあった。

 慧の声は幾分ハスキーだがとても魅力的だった。それを言うと慧は、ハスキーな自分の声が好きじゃないと言った。

 信也は自分の高い声が嫌いだと言った。

 慧はそれ程高いとは思わないし落ち着いてるし私の好きな声だと言った。


 初めての電話なのに、慧との話は驚くほど弾んだ。

 チャットやメールで親しく話して来たからだろう。

 相手の顔が見えず声も聞けない文字だけを使った会話は、好意的な場合にはお互いが相手の言葉を理解しようと集中することで、共鳴し深いコミュニケーションを可能にすることがある。  信也と慧も既に共鳴していたのだ。


 始めの一週間、信也は仕事が終わる五時を待ちかねた様に電話して、慧と一時間位話した。

 次の週は午後を半休にして、二時か三時頃からオーストラリアに掛けて二時間ほど慧と話した。

 あの四時間を越える長電話は週末のことだったかも知れない。


 当時の竜野信也の職場では、全日の連続休暇を取る場合は他の職員との事前調整が必要だったが、半日の連続休暇を一週間程度取る事は比較的容易だった。

 休暇の目的として、信也は短期の教養講座を取ると説明した。


 慧は年の差なんて関係無いと言ってくれた。

 その慧は当時ハイスクールの三年生で、オーストラリアの就学年度が日本と半年ずれていることを計算すれば、大学一年生か一浪生に匹敵することになるが、それでもまだ十九歳だ。

 ほぼ二十も年下の娘と三八歳にもなる中年男が恋に落ちていたのだ。

 それは信也も認めざるを得ない。


 顔も知らない慧が、真剣にジャズダンスの練習をしているシーンを、信也は想像したことがある。

 すんなりと伸びた肢体、飛び散るほど噴出した汗、それを拭おうともせず一心不乱に長い振り付け練習を繰り返す慧。次第に切れが良くなって行くターン。

 慧はダンスの勉強もしていて、三分位の歌に付ける短い振り付けなら十分から十五分もあれば覚えられると言っていた。

 例に引いたのは確かモーニング娘の「LOVEマシーン」だったか。

 中学生の頃、初オンエアをビデオに録って、その翌日クラスメイトの前でその新曲を踊って見せ、皆をあっと驚かせたことが自慢だそうだ。

 今の身長は一六八位あるけれど、メルボルンではこれでも小柄な女の子なんだよとも聞いた。  それらの情報を総合した想像だった。


 論文が書けないと慧に言われた時には、練習すればそんなの簡単さと信也はチャットで答えた。

 当時は小説よりも説明文とか論文系のものの方が得意だった。仕事で日常的に書く文章と同じだからだ。

 じゃあ教えてと慧は言った。いいよと信也は答えた。

 今やってる問題集から難度の高いものをメールするね、まだ私もやってない奴だよと慧は言った。


 慧から送られたメールに添付された例題は、「死刑制度は廃止すべきか」と云うタイトルで、死刑制度に代えて終身刑を推進すべしと云う二千字ほどの論文を読んで、

 a著者の主張を二百字以内で要約し、

 bあなたは死刑制度廃止と終身刑についてどう考えるか、二百字程度で述べよという出題だった。


 しかしながらあんな教え方が良く出来たなあと信也は思い出して、自分自身のコーチングに感心した。

 それはこんな方法だった。

①論文中のキーワードに印を付けて行く。a著者の主張の要約文に対する準備はこれだけで十分でしょう。

②キーワードの中から、b「あなたの考え」に使いたいものを絞り込んで丸印を付ける。

③さあ愈々丸印キーワードを使って「あなたの考え」を書くのですが、それをどの順番で使うか検討し、丸の中にその数字を入れる。

 これで準備は完了。書き始めてください。例題の論文以外の関連知識があれば尚良いが、無理する必要は無い。以上


 メールによる信也の模範解答では、その例題論文を使って具体的にキーワードを抜き出し、①から③までの手順に従い、著者の主張要約文と「あなたの考え」を書いて見せたのである。

 教えると言った手前逃げることはできなかった。だから信也は誠実に取り組み、考えを纏め、なるべくわかりやすく小論文の解法を解説してみせた。

 慧はとてもわかりやすい解説だと喜び、これなら私でも何となく書けそうだと言った。

 実際この方法を使って上智の小論文を書いたらしい。


 慧はもう二一歳になるのか。

 自分は今年の秋には四十になる。

 十九歳と云う二人の年齢差は永遠に縮まらないものだなと改めて思う。

 慧は小さな時に父を病気で亡くしている。自分に好意を持ったのも、ある種のファザコンなのだろうかと、信也は寂しく感じた。


 慧への返事をどうしようかと迷った。

 そこで初めて広美のことが瞼に浮かんで来た。


 二人の女を同時に愛してはいけないのだろうか。

 女性からは即座に否定されそうな命題が一年半振りに信也の心に復活した。

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