第4章 慧

第11話 慧からのメール

第11話 けいからのメール


 二〇〇五年が明けてから三ヶ月もの間、竜野信也は全く小説を書いていない。


 二〇〇一年からチャレンジした創作小説は、当初の三年間に及ぶ試行錯誤期間を経て遂に三作の長編を結実させた。その結果燃え尽き症候群に陥ってしまったのである。

 ことに、三作目の千二百枚もの長編が直接的原因となった。

 文学賞を狙って書く作業は、書いたものを文学賞に応募することと似ているようで、全く異質のプレッシャーを与えていた。

 今の信也には貝原洋のスランプが少しわかるような気がした。


 そして四月。

 かつて張り切り過ぎによる報復として左遷の様な異動命令を受けた竜野が、新年度の県庁の定期異動では、前年度の不甲斐無い働き振りから、東金市とうがねしへ派遣される形で本当に左遷されてしまった。

 派遣期間は異例の長期に渡る三年間だ。

 竜野の張り切り過ぎを唯一評価していた当時の課長代理が部長となって、引き上げる形で課長代理に抜擢したのに、その期待を裏切った報復人事だった。

 竜野の精神状態は鬱病に近かった。



 四月下旬、太平洋書店の町村博信から朗報がもたらされた。

「竜野、喜べ。お前の『欲望の罠』が一次選考の十作品に残ったぞ」


 町村は、携帯の受話口から返って来た「そうか、ありがとう」で終わってしまった気の抜けた言葉に驚いた。

 続けて町村は、千葉県庁の総務課に、竜野広美の所属先電話番号を問い合わせて連絡した。


 一次選考に残った話を伝えた時の広美の声は明るかったが、信也の話になるとその声から色あいが消えた。

 広美はどうにか聞き取れる程の小声で、正月休みに入ってから虚脱状態になって、春の定期異動でさらに状態が悪化していることを説明し、お酒を誘ってやってもらえないでしょうかと頼んだ。

 町村からの誘いなら夫も気分転換に外出すると思うからである。


 竜野の鬱状態はかなり意外なことだったが、八月の二次選考で最終候補五作品に選ばれる頃までに回復してくれればいいさと、町村は軽く考えていた。

 新社会人の五月病みたいなもので三月もすれば治るたぐいのものだろう、本業を別に持ちながらの四ヶ月間のプレッシャーが少しばかり大きかったようだから、少し休むことはかえって竜野にとって良いことだろうとも思っていた。


 いやそんなことよりも自分自身が公私に渡って疲れ切っている今、落ち込み中年男のお守までは願い下げだった。

 町村にとっても前年のラスト四ヶ月間はハードだった。

 本来の仕事とは別枠で素人作家を叩き上げて養成していたのだから。

 そして年明けからの四ヶ月間も楽じゃなかった。太平洋書店の看板文学賞の一つ、「交差点推理新人賞」の応募作品約二十点の下読みが割り当てられたのだ。


 例年のこととは言え千枚以上の長編の下読みはきつい仕事だ。

 短編で賞金の低い「交差点新人賞」と異なり、クリスマス賞のレベルは平均的に高いから最初の十枚で八割も除外する訳には行かない。

 それで落せるのはせいぜい二割だ。四作品に絞るのは新人賞と同じだが、十五、六作は全文読まなければならないのだ。

 千枚と言えば文庫サイズにして五百ページ。中には二千枚近いものまで含まれている。

 帰宅後にやり残しの仕事をやっつけてから、さらに一週間あたり長編一冊を選考と云う形で読まされるこの時期は、交差点編集者の誰もが小説嫌いになる時期なのである。



 五月の初め、竜野の許へ角川書店から「日本ホラー小説大賞」の一次選考の結果、候補作品十点の一つに「闇落ちの美学」が選ばれたとの通知があった。

 今後の予定は八月下旬に二次選考が行われ、その中の五作品が最終候補作品になるとのことだ。

 クリスマス賞に引き続く朗報で竜野の気分は明らかに和らいだ。特に二作目を応募したホラー小説大賞は、自分で探し出し自らの意志で応募したものだから。


「これでもしクリスマス賞が取れたら県庁を辞めても良いかな」

 ふとした思い付きだった。

 思い付きは次第に竜野の中で広がって行く。リビングの窓を大きく開け放つと初夏の息吹が体全体で感じられる。

 もうこんなにも季節が変わっていたのか。竜野は遅ればせながらも漸く灰色の冬世界から抜け出すことができた。



 ゴールデンウィークの終わり頃、竜野は懐かしい人からメールを受け取った。松原慧まつばらけい、ハンドルネームkeiからである。


 慧が連絡して来るとは思いもしなかった。

 一年半前の甘酸っぱい思い出に、信也の胸が少女のようにきゅんとなる。

 そしてつらさからなのか、凝固ぎょうこしたあの心の記憶が蘇り、その中にほっとした気分が入り混じっていたことも鮮明に思い出した。

 慧の名前は、つむじ風のように信也の心を揺さぶって通り抜ける。水色っぽい空気がその場に漂って信也を包んでいた。


 気分をできるだけ平静にして信也はそのメールを開いた。




''''''''''''''''''''''''''''''''''''''''''''''''''''''''''' 以下は本編とはなんら関係ない注です ''''''''''''''''''''''''''''''''''''''''''''''''''''''''''''


【注: 以前近況ノートにて、日本ホラー小説大賞に応募した作品名を変更した理由について、個人的に恥ずかしい状況になるからと説明しました。


 それは、元の「黒い美学」のままにしておくと、実際にはカテゴリーエラーで選外になってしまったくせに、この「ドロップ」内では一次選考作品に選ばれたことにしてしまっていた、当時まだ結果が出ていないのに、ずうずうしくも希望的観測で書いていたことに気がついてしまいました。

 ああ今更ながら、当時の記述が恥ずかしいですw 】

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