第10話 十二月

第10話 十二月


 八月末から大きな夢に向かって竜野信也は書き続けた。

 町村博信の助けが無ければ途中で挫折したかも知れない。

 竜野は毎日のように県庁をほぼ定時の五時で退庁し、一日十枚を目標に書き続けた。目標に足りない分は週末で取り返した。


 遂にクリスマスイブ当日その長編小説は完成した。

 千二百枚の大作……竜野は心の中で祝杯を上げた。やり遂げた充足感が胸一杯に満たされていた。

 ポーン!

 いつの間に用意したのか、シャンパンを広美が抜いたのだ。

 隣の居間から響いた破裂音は和室の信也を仰天させた。

 しばし首をすくめていた彼は立ち上がって白いリビングへ移動した。


「メリィクリスマス! しんちゃん」

 広美がシャンパングラスを信也に手渡す。


 信也がグラスを構えると、とくとくとシャンパンが注がれた。信也はまだ目を白黒させている。

「珍しいね。広美がクリスマスイブを祝うなんてさ。どうしたの」


 ふふと笑って、広美は自分のグラスにもシャンパンを注ぎ、信也のグラスに軽くぶつけた。

 今日の広美は珍しくきちんとメークしていて美しい。いつもメークしていて欲しいとの思いは口にしなかった。


「はい、クリスマスプレゼント」

 グラスのシャンパンをお互いに飲み干すと、広美はA4大で厚みの有る赤いリボンの付いた包みを差し出した。信也は受け取ったそれを嬉しそうに軽く揺すってみる。


「何これ。俺広美に何も用意してないけど」


「マウスとマウスパッドのセットだよ。無線のマウス」


「ええ、悪いな。ありがとう。俺欲しかったんだ、そういうの」


 でしょうと言いながら、広美は信也を見つめ微笑んだ。

「遅ればせながら『NEXT賞』のお祝いも兼ねてね」


「あれはB賞だったぜ。コメント以外のご褒美は何も無かった」


 信也はちょっと照れ臭かった。去る十二月十五日に、角川書店から六月中旬に投稿した「風俗の天使達」のコメントシートが、野性時代の最新号と共に送られて来たのである。


「でも次はA賞の見込みがあるじゃない。だからその前祝でもいいわ」


「そうか、ありがとう」信也は妻の祝福が単純に嬉しかった。


「それに、今日しんちゃんの第三作も完成したみたいだし。本当はそのお祝いのつもり」


「見せてなかったのに、よくわかったな」


 見ていないようで影で見守ってくれていた広美に、信也は強い愛おしさを感じていた。

 今回の執筆については、町村と相談しながらやってきたが広美には敢えてあまり話さないようにしていたのだ。


「妻なんだから当然よ」


「じゃあ明日の晩はディナーをご馳走するよ」


「うん」

 そう頷いた広美は信也を見詰め「長い間お疲れ様でした」と付け足した。


 信也もうんと答え、「新作を読んでみるか」と付け加えた。


「お正月にゆっくり読ませてもらう。いつ応募するの」


 その新作をすぐにも読みたかったが、広美は夫に少し休んでもらいたかった。

 ここ数日間、信也が睡眠時間を削って追い込みを掛けていたのを知っているからだ。


「大晦日が応募締切だから、あとは梗概こうがいを書いて、二三日内には応募するよ」


「町村さんが付いていてくれたんだから、今度のは凄い期待できそうだね」

 広美は、披露宴の時を含めて二度会っているから自信家の町村を知っている。


「最終候補までは残らせると町村は言ってた」


「そんなことできるの」その目が輝いた。


「来年四月の一次選考は、編集者だけで十作決まるらしいから、そこまでは多分大丈夫だと思うよ」


「へえ。二次は?」


 広美の目がさらに光ったが、あまり期待を持たせても後が怖いと信也は思った。


「編集者と選考委員の、八月の合同選考会議で五作に絞られる。それが最終候補作品なんだ」


「そこまでは、町村さんが保証してくれるんだ?」


「いや。実力で残るだろうと言ってる」

 信也は曖昧に笑った。


「残らせるんじゃないの」広美は凝っと目を覗き込む。


「その辺は良くわからん」

 はぐらかすように答えた。信也の方がそれを訊きたい。


「裏事情は知らない方がいいかな」広美はにと笑って見せた。


「そうだな」信也は思わず苦笑した。


 翌日、本年度「交差点推理新人賞」別名クリスマス賞が発表になった。

TVのニュースで短いインタビューが流れている。

 受賞者の喜びの声を聞いて自分に重ね合わせたのか、信也の顔に笑みが浮かんだ。

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