第18話 夜道

「い、家まで送ってもらう……?」


 月曜日の夜。この日は久しぶりにななちゃんの家に遊びに来ていた。

 ななちゃんと最後に会ったのはゴールデンウィーク初日。一緒に服を買いに行ったとき以来だ。


 私がお兄さんと水族館にデー…………遊びに行ったその日の夜に、ななちゃんは作戦変更を宣言した。

 女の子として見られてすらいない私がお兄さんに告白してもフラれるだけ――という、悲しいけど認めざるを得ない根拠と共に。


 それから数日。妙案が浮かぶまで待っててと言われ、ななちゃんからの連絡を心待ちにしている間にゴールデンウィークは明けた。


 そして今日。

 遂に呼び出された私がななちゃんの部屋に入るや否や、ななちゃんが告げた言葉に私は目を丸くする。


「そ。まずはおにぃにあーちゃんが女の子だってことをきっちり意識してもらうの。そのために明日、あーちゃんはおにぃに家まで送ってもらいます」


 床に敷かれたラグの上に正座する私を、ななちゃんがベッドの上から見下ろす。

 その声は自信に満ちていたけど、私にはピンと来なかった。


「あの、ななちゃん。……家まで送ってもらうだけで、お兄さんが意識してくれるかな……?」


「よくぞ訊いてくれた!」


 なんだかよくわからないキャラを演じているななちゃんは、ぴょんとベッドから飛び降りると、勉強机の上に山のように積まれた本を何冊か取り出す。


 パラパラと捲りながら、ななちゃんは得意げに語る。


「いい? とある大学の研究ではね、女性は夜の方が魅力的に見えるそうなの」


「え、どうして?」


「それは……まあとにかく、そういう研究があったらしいの」


「…………うん」


「こほん。他にも真っ暗な夜道という不安と恐怖はまさに吊り橋効果を狙うにはうってつけ。夜の魅力と相まってあーちゃんにメロメロになるはずっ」


「なるかなぁ……」


 なんだか不安になってきた。

 夜道といっても街灯はあるし、真っ暗でもなんでもないと思う。


「心配しなくてもこれは数ある作戦のうちの一つでしかないわ。もし失敗したら別の作戦を試せばいいの。トライアンドエラー! はい復唱っ」


「ト、トライアンドエラー……っ」


 ななちゃんが腕を突き上げたのを真似して私も右手を上げる。

 その様子に満足したらしく、ななちゃんはベッドの端に座り直した。


「それじゃあ作戦の概要を説明するね。まず明日、あーちゃんには暗くなるまであたしの家で遊んでもらう。その後、おにぃに家まで送るよう仕向けるの」


「で、でもなんだかお兄さんに悪いよ。騙してるみたいで……」


「何甘えたこと言ってんの! 恋愛は戦い! どんな非道な手を使ってでも、押し続けたものが勝つのよ!」


「それ、今期のアニメ『戦百合姫』の台詞だよぉ……」


 さっきから微妙に教官っぽい振る舞いなのは、『戦百合姫』に出てくる上官の影響だったんだと、ようやく納得する。

 ……ななちゃん、すぐにアニメの影響受けるから。


「それにお兄さん、いつも暗くなる前に『そろそろ帰った方がいいんじゃないか』って声をかけてくるよ?」


「それに関してはあたしに任せて。大丈夫、あたしが完璧にコントロールしてみせるから。安心して。あたし、おにぃのことならなんでもわかるんだから」


 胸をドンと叩いて、ななちゃんは得意げに話す。

 そのことがなんだか少し羨ましいなと、思ったりしたのでした。




 ◆ ◆ ◆




 そして今、私はお兄さんと夜道を二人で歩いていた。

「おにぃのことならなんでもわかるんだから」という言葉通り、ななちゃんは連絡一つでお兄さんが帰ってくる時間を遅くして、私が夜遅くまで家で遊ぶ機会を作ってくれた。


「もしかしたらおにぃ、あーちゃんが遊びに来るって連絡したら気を利かせて遅くまで帰ってこないかも」というのはななちゃんの予測。

 それが見事に的中したのだった。


 私もいつかお兄さんのことをななちゃんみたいに理解できる日が来るのかな……。


 ななちゃんへの羨望を深めながら、そうなった時のことを予想して思わず頬を緩めていると、隣を歩くお兄さんが不思議そうに訊ねてくる。


「どうかした?」


「っ、ぃ、いえ……その、ななちゃんってお兄さんのこと何でも知ってるんだなって思って」


「あいつ、なんか言ってたの?」


 お兄さんのちょっとむっとした声。

 私と話しているとき、お兄さんがこういう反応をするのは珍しくて、なんだか嬉しくなった。


「そういえばお兄さん、ななちゃんのご飯作ってるんですよね? 学校に持ってきてるお弁当もお兄さんのお手製だって、この間言ってました」


「まあね。父さんは基本家にいない人だし、帰ってくる時は大抵休みだから、家事をさせるのも申し訳なくてさ。母さんの話は……奈々から聞いてる?」


「は、はい。ななちゃんが小学校に入った年に亡くなられたと……」


 いつも楽しいことしか話さないななちゃんが唯一口にした悲しい話がそれだった。

 ちょうど街灯が遠い場所で、お兄さんがどんな顔をしているのかよく見えない。

 だけどお兄さんは明るい声で続けた。


「最初はコンビニのご飯とかスーパーの総菜だったんだけどね。流石に料理するかーってなって、勉強し始めたんだよ。それからはずっと俺が飯作ってる」


 そう言いながらお兄さんは「あいつは全然やらないけどね」と恨み言のように零したけど、その声音はどこか愛おしげだ。


 お兄さんがななちゃんのことを大切に思っていることが言葉の節々から伝わってくる。


「今度、お兄さんのご飯食べてみたいです」


「俺の飯?」


「~~~~っ」


 ほとんど無意識に、私はぽつりと呟いていた。

 お兄さんが反芻してきてハッとした私は、お兄さんの視線に耐えられなくて地面を向く。


「ぁ、あの……ごめんなさい、突然」


 恥ずかしさでいっぱいになりながら辛うじて謝る。

 図々しいことを言ってしまった。私のバカっ。


「大したものは作れないけど、それでもいいなら」


「……え、いいんですか?」


「うん。奈々も喜ぶんじゃないかな」


「――!」


 私は密かに右手をぎゅっと握りしめる。

 この暗がりでお兄さんには見えていないはずだ。


 思いがけない幸運を噛みしめる。

 きっと、今の私の顔は情けないほどに緩みきっているはずだ。

 その顔を隠すように俯いていると、突然お兄さんに肩を掴まれた。


「っ安城さんちょっとごめん」


「~~~~っ?!」


 大きくてゴツゴツとした手が私を抱き寄せる。

 突然のことに混乱する私のすぐそばを、シャーッと軽快に自転車が走り抜けていった。


「あいつ、ライトもつけずに……安城さん、大丈夫だった?」


「は、はひぃ……」


 お兄さんの手が私を離れる。

 心配そうに覗き込んでくるお兄さんの顔を、私は直視できなかった。




「あ、ここが私の家です」


 それからは大きなハプニングもなく、家に着いた。


「す、凄い家だね」


 お兄さんが私の家を見上げて呟く。


「そうですか?」


「うん。なんというか、物語にでも出てきそうな洋館だ」


 お兄さんの独特の表現にくすりと笑う。

 思えば、誰かを家に連れてきたのはこれが初めて。

 ななちゃんでさえ、まだ遊びに来ていない。


 初めてななちゃんのお家に遊びに行ったあの日から、ななちゃんは遊び場をななちゃんのお家に決めていたから。

 理由は言わずもがな、お兄さんに会うためで。


 だけど今度、ななちゃんを招待しようと思った。


「あの、送っていただいてありがとうございましたっ」


 私は門扉の前で振り返り、お兄さんに頭を下げる。


「うん。ああでも、いつも送れるとは限らないから気をつけてね。さっきも自転車に轢かれそうだったし、やっぱり夜道は危ないからさ」


「は、はい。気をつけます……」


 心から私のことを心配してくれるお兄さんの眼差しに、胸の奥がチクリとする。

 ななちゃんはああ言っていたけど、やっぱりお兄さんを騙すのはダメな気がした。


「それじゃあね」


「ぁ! あの……っ」


「うん?」


 立ち去ろうとしたお兄さんを思わず呼び止める。


 不思議そうに見つめられて、私は次の言葉に詰まった。


「……ぅぁ、っ、~~~~っ」


 今日夜遅くまで遊んでいたのはわざとで、本当はお兄さんに送ってもらおうとしていたんです――なんて、告白みたいなことを口にできるはずがなく。


 頭がぐちゃぐちゃになって口がわなわなと震える。


「そ、その……」


 ななちゃんの言葉が脳裏をよぎる。


 ――もし今あーちゃんがおにぃに告白しても、まず間違いなくフラれる。


「ええと、安城さん……?」


 一向に話を切り出さない私を訝しむ声。

 何か言わないと。何か、何でも良いから、何か……っ。


 私が焦っていたその時、門扉の向こうから物音がしたかと思えば、玄関先に明かりがつく。

 そうして玄関扉がゆっくりと開かれた。


「あら……?」


「っと、じゃあね」


 家からママが出てきたのを見て、お兄さんが慌てて会釈をして立ち去っていく。

 その背中を、私は呆然と眺めることしかできなかった。


「ただいま、ママ」


 お兄さんの背中が見えなくなってから、ようやく家に入ってきた私をママが出迎える。

 ママは、どうしてかくすりと笑う。


「おかえりなさい、有栖。……今の男の子、もしかして有栖のいい人?」


「! ち、ちがうもんっ」


「でもあなた、顔が真っ赤よ?」


「~~~~っ、もう知らない! 私、部屋に行く!」


 突然とんでもないことを言われて頭が真っ白になった私は、逃げるように部屋に向かう。

 その後ろから、「あらあら」というママののんびりとした声が聞こえてきた。

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