第5話 お仕事はティーブレイクから

「今、何時かと聞いている」


 振り返った体勢で私がフリーズしていると再び低い声に問われる。早朝の清廉な空気に沁みるように静かな声だ。しかし一度目よりも明らかに温度が下がっている。そして再び問われたことで、私も己の置かれた状況をようやく理解した。


 こ、これは……この状況はまずいーーー!!!


 どうやら姿の見えぬ声の主は、執務机の隣に置かれた衝立ついたての向こう側にいるらしい。そしてこんな早朝に院長室の執務机の隣の衝立の影にいる人物など、院長本人以外にはありえない。つまりこの声の主、イコール恐ろしいと噂の白蓮はくれん様ご本人なのだ。そう理解した途端、私の冷や汗は三倍になった。反射的にその場に跪くと衝立に向かって恐る恐る声をかける。


「あの……もう間もなく一の鐘が鳴る頃です」

「──そうか」


 短い返事と同時に、衝立の向こうで人の動く気配がする。私は頭をさらに深く下げて床についた自分の膝を見つめた。

 この世界は身分の差がとてもはっきりしている。私のような下女は、許可がなければ貴人の顔も見られないのが普通だ。当然、下女と院長など一生互いの後ろ姿を見かけることもない間柄だ。この部屋に入る際に一応挨拶はしたが、こんな時間に人などいるはずがないと承知の上の形式的なものだった。

 この世界に来た当初は、そういう身分差から生じる仕来たりや暗黙の了解、不文律にとても戸惑った。前の世界には身分や階級という意識がほとんど存在しなかったからだ。だから私は今だに感覚的には階級差というものをよく理解していないと思う。しかし半年も生活していると体の方が先に慣れ、自然とその場に相応しい動きをするようになる。私が心を無にして己の膝頭を必死に見つめていると、かたりと衝立の端が動き、伏せた視野の端を浅葱色の長衣の裾がひらりと横切った。


「少し仮眠をとる。二の刻に起こせ。今日の朝議は二の刻半からだ」

「はぁ……、って、え? ……は? あ、あの待……って、あれ、あれれ??」


 混乱した私があたふたと顔を上げた時にはすでに遅かった。扉の閉まる音とともに、白蓮様と思しき人影は執務室からすっかりと消えている。取り残された私は呆然と私室へつながる扉を見つめた。


 ……寝ぼけてた? 私、侍従だと勘違いされた?

 いや、それよりも何よりも、あの部屋に入って行ったってことは……やっぱり今のが白蓮様だった!?


 雪から恐ろしい医薬院長と聞いていたから、私の頭の中には何となく白髪白髯の仙人然としたお爺さんの姿があった。しかしもし今のが白蓮様だというのであれば、恐ろしい医薬院長は私が思っていたよりもずっと若々しい人物のようだ。足元しか見ていないが、滑らかな動作や張りのある声の雰囲気からしてまだ三十代ではないだろうか。もしかしたら前の世界の私よりもさらに若いかもしれない。


 急激に高まった緊張と混乱、驚きとその後の安堵という感情のジェットコースターの振り回された私は、カーンという鐘の音ではっと我に返った。一の刻を告げる鐘だ。この世界では約二時間ごとに一刻が過ぎて鐘が鳴る。なにはともあれまずは仕事だ。今のが白蓮様であってもなくても、下女の仕事はニの刻までには終わらせなければならない。

 白蓮様に頼まれたことを頭の中で復唱しながら私は立ち上がる。仕方ない、掃除をしながら様子を見て侍従や副官などがやってきたタイミングで今の内容を伝えよう。多少、下女の業務範囲を超えているがこの程度ならば問題ないだろう。

 とにかく今はなんとか二の刻までに、この書類に埋もれた部屋をどうにかする方法を考えなくてはならない。私は襷掛けをして袖をあげると、気合いを入れ直して書類の山に向き直った。

 

 集中していると時間はあっという間に過ぎる。すでに朝日が燦々と輝く二の刻前。執務室を見渡して大きく伸びをした私は額の汗を手の甲で拭った。お世辞にも綺麗に片付いているとはいえない状況だ。それでも最初にこの部屋に足を踏み入れた時の状況と比較すれば相当ましにはなった。なんせ打合せに人を招けるし、招かれた人の足の踏み場も座る場所も確保できているのだ。

 私が部屋中に散らばった書類の内容を片っぱしから確認し、恐らく部屋の主の整理方法と思われるものに則って邪魔にならないようにまとめ直したからだ。さらにただまとめ直すだけではなく、日付や内容、重要度や進捗状況などに合わせて追加整理している。まあ、それは完全に私の趣味だが──。


 久々に大量の文字に触れる書類仕事をした私は、大きな窓から差し込む爽やかな朝日の中、程よい疲労感と達成感に浸った。たまにはこういう頭脳労働も悪くない。時間はそろそろニの刻。完璧とは言えないが、二時間でやったにしては上出来だろう。これならば持ち場を交換した雪の顔も立つはずだ。開放感に大きく伸びをした時、私は重大なことを思いだした。白蓮様と思しき人物からの頼まれごとである。


 ええっ!? でもちょっと待って。まだ誰も来ないってどういうこと?


 普通は院長ともなれば、入れ代わり立ち代り誰かがやってきて甲斐がいしく朝のお世話を焼くはずなのだ。だから侍従でも副官でも、誰かが来たら託そうと思っていたのに託せないまま今に至る。

 一瞬、このまま忘れて帰ってしまおうかと考える。勘違いされたとはいえ、そもそも下女の領分から大きく外れた頼まれごとだ。しかし私は急いで首を振りその考えを吹き飛ばした。いやいやいや、たとえ領分違いの仕事であったとしても、自分が頼まれておきながら何もせずに立ち去るのは気持ちが悪すぎる。それにそもそも私は雪の代わりに掃除に来ているのだ。後々トラブルになる可能性のあることはできる限り避けておきたい。


 しばし黙考の後、私は掃除道具を部屋の隅に片付けると、白蓮様の私室に通じる扉をそっと開けた。恐る恐る廊下を進んで一番奥の扉の前に立つ。深呼吸して心拍数を整えると、しっと扉を叩いて控えめに声をかけた。


「おはようございます。あの……もうすぐ二の刻になります」

「……」


 扉の前で耳を澄ませていると、少しして衣擦れの音がする。それを確認して私はほっと胸を撫でおろした。これで役目は果たした。私が戻ろうと踵を返すと、突然扉の向こうから声がかかる。


「茶を頼む。着替えたらすぐに出かける」

「は、え……?」


 聞き返す間もなく、扉の向こうでさらに扉が閉まり、ばしゃばしゃと身支度する水音がたつ。


「ど、どうしよう……」


 何となく周囲を見回すが、私の他に誰かがいるはずもない。帰るタイミングを完全に逃した私は頭を抱える。戻るのが少しでも遅くなると次に控える仕事に差し支えるのだ。頭の片隅を雪の困った顔と下女頭の叱責が横切る。


 でも、まあ……お茶を入れるだけだから。


 私はちらりと白蓮様の私室の扉に目をやるとくりやに走った。迷うより淹れた方が早い。あの雰囲気だと白蓮様はすぐに身支度を終わらせて自室から出てくるだろう。それまでにお茶を入れなければまた別の問題が起る。そうしたら次の仕事に行くのがますます遅れてしまう。

 厨も掃除したから物の配置はすでに把握している。下女は掃除の他にも色々な雑用を頼まれるから、お茶の淹れ方も一通りは知っている。私は手早く湯を沸かしてお茶を淹れると、先程片付けてようやく表面の見えるようになった小卓の上に茶器一式をおいた。そのタイミングで私室側の扉が開いて白蓮様(多分)が姿を現す。

 私は小卓から数歩下がって床に膝をつき、胸の前で手を重ね頭を下げた姿勢をとる。この世界で最もスタンダードな礼である。私の視界は足元だけだだ。それでも大股ですたすたと歩いてきた白蓮様が小卓の前で立ち止まり、茶器を手にしたのが気配や微かな陶器の触れ合う音で分かる。


「お、おはようございます……」


 無言でいるのも気まずくて、しかし他に何を言えばいいのかも思いつかず、私は緊張で思ったよりも小さくなった声で挨拶を告げた。

 

 ううっ、勘違いされて仕方ないとは言え、お前は誰だとか何でここにいるとか、色々怒られるんでしょうね……。


 そもそも下女と院長が顔を合わせること自体が大変好ましくない状況だ。それが直接声までかけた上に、お茶も淹れている。しかしかといって頼みごとを無視して後から問題になれば、自分だけではなく交代を申し出た雪にまで迷惑をかけることになる。結局、こういう状況になった時点で逃げ場はないのだと私は悟りの境地で沙汰を待つ。


 「……」


 白蓮様はお茶を飲みながら私を見ているようだ。何だか物凄くじろじろ見られている気がする。私は背中にだらだらと冷や汗を流しながらも、俯いた態勢を崩さずにその視線に耐えた。


「なんだ、その衣装は?」

「……え?」

「すぐにでると言ったはずだ。そんな寝間着のような衣装で朝議に行けるはずがなかろう。今すぐ着替えよっ!」

「ひえぇっ、は、はひっ!!!」


 白蓮様の気迫に気圧された私は、咄嗟に返事をすると執務室を飛びだし、侍従の控室に駆け込んだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る