第4話 お仕事は整理整頓から

 翌日、まだ真っ暗な早朝とも言えない時間。私は予定通りに目を覚ますと、手早く身支度を済ませてゆきと交換した持ち場に向かった。今日に限らず下女の朝はとにかく早い。王城に勤める官吏たちは前の世界でいうと朝の八時過ぎには仕事をはじめるからだ。私たちはそれまでに一通りの掃除を済ませておかなくてはならない。

 ちなみにこちらの世界には時計がない。定時に鳴らされる鐘の音と太陽の傾き具合で大体の時間を知るだけだ。デジタル時計の分刻み生活に慣れていた私には当初その大雑把さが驚きだったのだが、これが慣れると意外に快適なのだった。きっと人間の体内時計に則した生活なのだろう。それでも王城の生活はいつも時間に追われて慌ただしいと、農村出身の娘はよく嘆いているのだが。

 

 天虹国てんこうこくの王城は大きく二つの領域から構成されている。王城の構成を説明するには、まずこの国の統治制度についての説明が必要だ。

 この国、天虹国は『至王五師十院制しおうごしじゅういんせい』という独自の制度で統治されている。これは王の元に五人の老師ろうしという宰相や大臣格のとても偉い人が集まり、王と五老師の対話によって大まかな方針が決められという仕組みだ。そうして決められた方針を、各機能ごとに十個に分けられた『いん』という省庁のような部署が引き継ぎ遂行する。

 王城はこの各院が執務を行う前宮まえのみやと、王族の住まう奥宮おくのみやの大きく二つに分かれている。故に、基本的に各院の院長室は前宮に置かれていた。

 しかし件の白蓮はくれん様が院長を務める医薬院いやくいんは、前宮と奥宮の境目に院を構えている。恐らく厚生労働省や病院的な機能を持つ院のため、王城中のどこで怪我人や急病人が発生しても駆けつけやすいように、王城全体の中心に近い位置に置かれているのだろう。もちろん王族の住まう奥宮にも一番近い。その代わりといってはなんだが、前宮の最末端に位置する私たちの下女寮からは、移動するだけでも大変な距離があった。


 その上、王城は王族の生活圏である奥宮に近づくほど警備が厳しくなる。私は医薬院にたどり着くまでに三回警備兵の誰何すいかを受けた。一回目の時は持ち場の交代がバレるのではないかと緊張したが、私が医薬院長室の掃除に向かうと知ると、どの兵士も途端に親身になって暖かく励ましてくれる。三度目ともなると堂々としたものだ。私は最後の誰何を終えると、見送る兵士たちの励ましの視線を受けながら、一人とぼどぼと前宮と奥宮の間にある中庭を歩く。色々な意味で早めに寮を出発してきてよかったと胸を撫でおろす。


 実は、昨夜に雪とシュミレーションしたよりもずっと大回りで医薬院に向かったのだ。もちろん最初は私も、昨夜シュミレーションした通りに下女寮から茂みのような外郭庭を突っ切って最短距離で医薬院まで行こうと思っていたのだ。

 しかし実際に外に出てみると、深夜と早朝の間のような時間帯の王城は想像以上に静まり返っていて不気味だった。奥まった下女寮の周辺は特に闇が深く、どうしても足がすくんでしまって外郭庭を横切る勇気がでない。それで仕方なく、私は少々予定を変更して前宮をぐるりと半周迂回するルートを選んだ。

 そうすると距離は長くなるが、南側にある大正門の前を通ることになる。王城の正面に位置する南門周辺は必ず複数の不寝番が待機している。天虹国の威容を見せつけるように篝火も終夜煌々と焚かれているのだ。お陰で余計な誰何をされる羽目にはなったが、この時間にしては十分に明るく比較的人通りの多い道順を辿って医薬院まで行くことができたのである。

 そうして真っ暗だった空に少しだけ朝日の気配を感じはじめたころ、私はようやくいかにも病院らしい白い建物群の前に辿りついた。事前に雪に聞いていた通りに建物の裏側に回り、通用口を探して入り口に立っていた警備兵に用件を告げる。


「……院長室の担当ははじめてか?」


 警備兵はなんとも言えない眼差しで、私を上から下までじろじろと見た。


「はい」

「他の部屋の係は一緒じゃないのか?」

「え? えっと……皆んなもすぐに来ると思うのですが、医薬院長室は早めに行った方がいいと言われて……」


 少しヒヤッとしたが予め用意していた言い訳を告げる。警備兵はすんなり納得すると、小さな溜息を一つつきくるりときびすを返した。


「ついて来い」


 大股の彼の後を追いかける。建物内をぐるぐると回るように登って辿り着いたのは、三階にある大きな扉の前だった。飾り気のない分厚い扉はいかにも院長室という感じで、前に立つだけで気後れするような威厳を漂わせている。警備兵は閉ざしたままの扉の前に立ち淡々と説明をはじめた。


「この扉を開けた先にある大きな部屋が医薬院長室だ。部屋の中にはさらに三つ扉がある。向かって右側の手前にある扉はくりやに、奥の扉は資料室につながっている。左側の扉の先にはさらに二つ扉があって、小さい方の扉は侍従の控室、その奥の大きな扉は院長の私室だ。掃除するのは院長の私室以外全て。資料室は院長の指示に従え」


 私はこくりと無言で頷いた。


「いいか、院長の私室は絶対に立ち入り禁止だ。約束を破ればどうなるか……一切保証はできない」


 警備兵は何を思い出したのか、肩を抱いてブルリと身震いする。


「それと部屋の中では何を見ても驚くなよ。いいか、俺たちに相談されても困るからな!」


 最後はやけくそのように言い切ると、私の返事を待たずに身を翻して風のように去って行った。一人ぽつんと暗い院内に取り残された私は、呆然と警備兵の消えて行った方角を見つめる。そしてゆっくりと扉を振り返りごくりと唾を飲み込んだ。

 警護兵の去り際に、何かとんでもない警告を聞いたような気がする。しかしここまで来たら引き返せない。腹を括るしかないのだ。私は考える前に手を伸ばした。少し高い位置にある取手に手をかけ、えいと力を込めて手前に引く。扉は思ったよりも軽く、よく手入れされた蝶番は小さな軋みも立てずに大きな扉を動かした。中には誰もいないと知りつつ、私は用心深く頭を下げて朝の挨拶を告げる。


「……おはようございます。朝の清掃に参りました」


 そして顔を上げ、一歩踏み出そうとしたところで固まる。そのままの体勢で数秒間。私は廊下に飛び出すと、急いで今入ってきたばかりの扉を閉めた。

 な、なんだこれっーー!!? と叫びたいのを必死で堪え、二、三度深呼吸して息を整える。それでも跳ね上がった心拍はばくばくとしてなかなか落ちつかない。しばらくの逡巡の後、しかし意を決した私は再び慎重に扉を開けた。そして細い隙間から中を覗いて唖然とする。


「な、なんだこれ……」


 思っていたことがそのまま口からでる。

 だって、医薬院長室だと聞いていた扉の向こうの部屋は、紙!

 紙、紙、紙っ!! の紙の山っ!!? なのだ。

 覚書、報告書、手紙、巻物、木簡、竹簡、地図、何かの表、あらゆる種類の資料が雪でも降ったかのように部屋中に積もっている。ある部分は地層のように重なり、ある部分は失敗したジェンガのように崩れ、執務机と思しき小山の周辺が特に酷いことになっている。


 この惨状は……まさか泥棒? いや、間諜スパイ!!?

 私みたいな何処の馬の骨とも分からないような小娘を、あんな簡単な誰何すいかでホイホイ通すような警備、ヤバイと思ってたわっ!!


 私は咄嗟にさっきの警護兵を呼びに戻ろうと身を翻す。が、あることに気がついて足を踏ん張り、逃げ出したい自分を思い留まらせた。


 待て待て待てーーー! ストーーーップ!!!

 止まれ、自分!!!

 もしかして……これって……あれなんじゃ?


 恐る恐る振り返り、改めて部屋の中を見回す。

 息を整え、落ち着いてよく見直せば、応接セットの端にようやく人一人が座れるほどの空間ができている。さらに見回せば、床にはギリギリ机にたどり着ける程度の細い獣道の様な隙間もあった。


 ──なるほど。


 私は腕を組むと目を閉じ、何やら一人でうんうんと納得する。

 そして今度は扉の前で靴を脱ぎ慎重に部屋に滑り込んだ。散らばった書類を万が一踏んでしまっても汚さないためだ。持ってきた道具を壁際にそっと置くと、散らかった書類の隙間を縫って部屋の中をぐるぐると見て回る。


「なるほど、これは厄介な……」


 再び心の声が口からもれる。近くに落ちていた書類を幾つか拾い上げ、ざっと内容を確認した私はさらに確信を深めた。この部屋の書類は単にぶちまけられているのではない、と。

 実はこれらの書類は、この部屋のあるじの独自の法則に乗っ取ってきちんと整理されているのだ。ただし整理の手法と法則が独特で、さらにこの部屋の主人の場合は桁違いに書類の量が多いため、結果、ぶちまけられているようにしか見えないというだけだ。まあこの感じだと、手が回りきらなくてただ積み上げられただけの書類も多そうだが──。


 私にそれがわかったのは、こういう惨状に遭遇するのがはじめてではないからだ。前の世界でお世話になった、昔の上司がこういう整理をするタイプの人だった。

 サラリーマンなのに学者肌で少し頑固なこだわりの強いタイプの人だった。机は汚いを通り越して物置と化していたのに、誰がいつ質問しても打てば響くような答えの返ってくる切れ者として有名だった。机の上と反比例するように頭の中の情報はものすごく整理されていた。この部屋の主もきっとそんな人なのだろうと、私は会ったこともないこの部屋の主の姿をぼんやりと想像する。


 私は急いで掃除する他の部屋も見回った。しかし書類がここまで散乱しているのは最初の部屋だけだ。奥の資料室も覗いたが、そちらは意外にも綺麗に整理整頓されていた。部屋の主のルールを把握した別の管理者がいるのだろう。給湯室も侍従の控え室もむしろとても綺麗に使われている方だった。


 うーん、これは確かに下女泣かせだ──。


 執務机と思しき書類の小山を見つめて私は唸る。つまりこの部屋は掃除してもしなくても怒られるという地雷案件なのだ。部屋を片付けるためには、まずこの一見散らばっているとしか思えない書類をどかさなければならない。しかし適当に移動させると整理のルールが混乱し、部屋の主を激怒させることになる。だけど書類をどかさなければ部屋が掃除できず、それはそれで怒りを買う。つまりどちらにせよ怒られるというわけだ。


 あのまま雪を行かせなくて本当に良かったと、私はむしろほっとした。雪は優しくて働き者のとてもいい子だ。しかし読み書きの覚束ない彼女にには、これは酷過ぎる仕事だった。

 私はしばらく辺りを見回して全容を把握すると、意を決して書類の中に一歩を踏みだした。さきほど思ったことだが、ここまで来てしまったからにはいまさら足掻いてもどうしようもない。これはいくら面倒だったとしても腹を括り、真正面からこの部屋の整理に向きあうしかないだろう。私は鼻息も荒く袖を捲り、執務机の方にもう一歩踏みだした。と、その時だ。


「……今、何時だ」


 突然、斜め後ろから声をかけられて私は文字通り飛び上がった。早朝の薄闇の静寂しじまの中、低く響く少し掠れた声。反射的に振り返るが相手の姿は見えない。一瞬で恐怖と緊張が高まり、私の背中をたらりと冷や汗が流れ落ちた。

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