第2話

『あんたはぼけっとしたところがあるからねえ』


 母は、呆れ混じりによくそう言った。父も苦笑いしていた。


 舞子自身にはそんな自覚はなかったが、自分はあまり活発でも機敏なほうでもないらしいというのは薄々気づいていた。両親はごく平凡な夫婦で、母はどちらかというと手際と要領がいいほうだったが、自分はどうやら父のほうに似たらしかった。よく言えば思慮深いということかもしれないが、選択肢がいくつもあれば悩んで疲れるほうだし、選ぶのにとても時間がかかるほうだ。これ、と決めても、本当にそれでいいのかとためらって決定ボタンを押すまでが長い。


『――でも突拍子のないところあるのよね。変なところで行動力あるんだから』


 母の笑い声。

 舞子は片眉を上げ、変なところって何、とたびたび聞き返した。

 それに返ってきた答えは――。




 舞子はふうっと瞼を持ち上げた。

 曖昧な意識にとたんに鈍い頭痛が訪れ、顔をしかめる。それで一気に意識が戻ってきた。

 かたく、針のようなものが頬を刺している感触に目を見開いた。慌てて体を起こし、頬に手を触れる。座り込んだような姿勢をとると、視覚が瞬時に情報を拾った。


「……え?」


 喉からそんな間抜けな声が出た。

 周囲――一瞬、夜の荒野かと思うほど暗い風景だった。

 だが、何もないのではない。周りに茂る背の低い草も、林立する木々も、すべてが影絵のように黒く染まって浮かび上がっている。世界がまるで黒と灰色だけで構成されているかのようだった。


 灰色の夜に、夜というにはなお重く暗い木々や草葉が満ちている。


 座りこんだ足が痛くて、ふらふらと立ちあがった。靴の裏で、じゃり、と音がする。足元は、無数の砂礫とまばらな短い草に覆われた地面だった。まったく舗装されていない。


「どこ、ここ……」


 あまりのことに意識がついていけず、そんな声をこぼした。

 まったく見覚えのない風景だった。


 黒と灰色の世界。ビルはおろか建物らしきものも見えず、空はどの時間ともわからぬ灰色だった。そのせいか、古い火に焼き尽くされた灰が地を覆い尽くしている――そんな錯覚を抱かせる。


 影絵を思わせる木々や草、岩石以外には何もなく、人工物が一つも見当たらない。


(……夢?)


 過去にこんな風景を見たことはないし、行ったこともない。

 自分にそう言い聞かせるのに、舞子の体は勝手に震え出す。ひどい寒気を感じ、両腕で体をかき抱いた。


(夢……、夢だってば、こんなの。早く目が覚めて)


 自分以外に生き物の気配はなかった。木々の影はまるで異形のようで、まともな明るさも色彩もない世界はこんなにもおそろしく感じられる。

 夢にしろ、あまりに不気味な光景だった。抽象的な絵画、あるいは精神世界のようで、ただ目にするだけで神経を苛み、不安と恐怖をかきたてる。

 ふいに、視界の端で動くものがあった。弾かれたように目を向ける。


 ゆら――と、黒い木の影が


 舞子は目を見開いて硬直した。

 暑さで地平線の影が揺らめく現象などではなかった。いくつにも分かれた枝は虫の足のごとくうごめき、根は土をふるい落とすかのように衝き上げ、地表に出て動く。

 そうして、舞子に向かって歩き始めた。


「ひ、っ……!」


 喉で悲鳴が詰まり、舞子は後ずさりした。

 右隣の影も、左隣の影も、奥の影も、すべて眠りからさめたといわんばかりに身震いして動き出す。

 ――それは群れをなして、舞子という獲物を狙っているようだった。


 舞子の膝が震えた。


(これは夢、これは幻覚なんだから……っ!!)


 頭の隅で必死に理性が叫ぶ。だが抗いがたい恐怖は体中をほとばしり、冷静さを塗り潰した。

 震えながら後退する足元で、地面が波打つ。反射的に目を向けると、砂礫しかなかった色濃い大地に、もっと黒い影のようなものが滲み出た。


「ひ……っ!!」


 悲鳴をひきつらせ、舞子は更に後じさった。

 一つではなかった。左にも右にも、地中から次々と黒い液体のようなものが吸い上げられて地上に現れ出る。

 それはたちまち四肢持つ獣の姿となった。


 大型の犬を思わせる形。だが長い尾は三本に分かれて独立したもののように躍り、その四肢は――手足は、蜘蛛に似て三対あった。その先についた鉤爪はあまりに大きかった。犬とも蜘蛛とも判別がつかぬその生き物は、光沢のない漆黒の絵の具で描いた架空の生き物のようだった。


 グルルルル、と低いうなり声がもれる。


 その非現実的な姿の中で、二つの目だけが光っていた。灰色の炎のように光る目。

 それが、舞子を捉えた。

 とたん、生物としての本能が、舞子に激しい恐怖を抱かせた。原始的な、おそろしい肉食獣を前にした生き物としての恐怖。

舞子はよろめき、身を翻して走った。


(何なの!! 何なのこれ……っ!!)


 グォオオオオ、と暴風のうなりを思わせる遠吠えが響いた。いくつもそれが重なり、おそろしい嵐のように響く。

 内臓が引きつる。恐怖が毒のように全身を巡った。一瞬でも振り向くのがおそろしかった。走っている足が重く、もどかしいほどに遅い。


(怖い怖い怖い……!! 早く覚めて!!)


 それ以外の言葉を失ったように、覚めろと胸に繰り返し続けた。

 獣たちが地を蹴る音が後ろから追ってくる。瞬く間に、忙しない呼吸まで聞こえてくる。

 ――迫られる。


 全力で走る。なのにこの足はこんなにも遅い。

 絶望的な速さで獣たちが迫ってくる。耳を疑うような速さの足音、荒い呼吸音。

 振り向かず、赤黒い地平だけを見ていた舞子の視界に、素早く横切る漆黒の影があった。


「ひっ……!」


 舞子の喉は悲鳴をあげ、力任せに走って勢いのついた足を無理矢理止めた。

 グルルルル――という唸りとともに、一対の白い火のような目が正面から舞子を睨んでいた。

 前に回り込まれた。左右に体を転換させようとしたとたん、灰色の炎の目の獣たちに囲まれた。複数の尻尾を揺らし、黒い獣たちがゆっくりと舞子のまわりを回る。


 巨大な鉤爪が地面とかすかな音をたてる。

 逃げ場はなかった。

 舞子の膝はがくがくと震えた。血の気が引いていく。


 獲物を見定め、なぶろうとするかのごとく獣たちは周りながら次第にその範囲を狭めていく。

 舞子の足が無意識に一歩下がる。背中からうなり声が聞こえ、怯えた足が今度は左に逃げようとし、更に右へ逃げようとして叶わなかった。全方位から獣の吐息が、うなりが聞こえる。どこにも隙間のない、獣の檻に閉じ込められる。


 凍てつく絶望が、舞子の全身から力を奪った。

 視界に、ざっ、と音をたてて跳躍する黒い影が見えた。


「あ――」


 舞子の世界は一瞬停止した。飛びかかってくる犬型の怪物たち。逃れ得ぬ死の予感。体が動かない。

 何もかもが現実とは思えない――。


「《伏せろ!!》」


 鋭く凛とした叫びが、停止した世界を引き裂いた。

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