第3話

 

 柔道は楽しい。


 勿論、合う合わないはあるだろうが少なくとも佳樹との相性は抜群だった。


 ボクシングで言うジャブの応酬のような組み手争いから始まって、良い所を掴んだ瞬間に技を仕掛けたりや、どうにか取った襟や袖で相手の動きを抑制しながら徐々に自分優位の組み手に変化させていったりと佳樹は「流れ」を楽しむ事が出来ていた。


 また「柔能く剛を制す」とは言うが実際、柔道では筋力も非常に重要であった。


 佳樹などは、この高校に入学する直前から柔道部の練習に参加させてもらっていたが当時の三年生――現在では卒業していて大学の一年生となっている先輩方との乱取りで、接待だったのか冗談だったのか簡単に組み合わせてもらった次の瞬間からもう漫画のように「ぴくりとも動かねえ……!?」と絶望的な筋力の差を実感させられたりとしたものだった。


 理屈や理想で言うならば「柔道の上手さ」さえあれば筋骨隆々な先輩も投げられるはずなのに現実では本当に何も出来なかった。圧倒的な筋力に負けて柔道の「じ」の字も出させてもらえなかった。


 中学生時代の笹野佳樹は幾つもの大会で優勝している「県下最強」の一人だった。最重量級の選手でこそないが体も決して小さい方ではなかった。


 それでも。たった3つ年上の先輩にあの時の佳樹は手も足も出なかった。


 その事実がまた佳樹には面白かった。


   


「上手さ」よりもまずは「強さ」だ。


 その「強さ」が拮抗したときに初めて「上手さ」が物を言う。


「柔道」とは「奥の手」なのだ。


 力比べで膠着した時、或いは負けそうな時、奥の手として「柔道」を出せば相手に勝てる。


 力比べの段階でボロ負けをしているようでは奥の手を出す余地が無い。


 まずは力だ。


 それが佳樹の感じたリアルだった。


 そしてこの高校の柔道部で教わった事がもう一つある。それは、


「技を狙うな。隙を突け」


 という考え方だ。


 佳樹の得意技は大外刈りや払い腰だったが「大外刈り、大外刈り、大外刈り」と、そればかりを狙っていては「体落としなら決まったかもしれない」場面や「背負投げなら入れた」チャンスを不意にしてしまう。


「一つの鍵を手に持って、それに合う穴を探すんじゃねえ。とにかく穴を見付けろ。見付けた穴に合った鍵を差し込め。幾つの鍵を用意出来るか、穴を見付けると同時に合っている鍵を懐から素早く取り出せるようになるかは練習の積み重ねだ」


 反復練習だ。この組み手からはこの技を出せる。相手がこの体勢になればこの技が決まる。練習を繰り返せば体が覚える。どの技を掛けようなんて頭で考える間も無く勝手に体が動いてくれる。


 柔道は楽しい。


 他の事は全て忘れて。佳樹は熱中する事が出来ていた。


   


 まだまだ明るい夏の夕方。


 部活が終わり――終わってしまって佳樹は武道場を出た。


「どうすっかなあ……」


 ついさっきまではあんなに楽しかったのに。道着を脱いだ瞬間から佳樹の気分は、どんどんと盛り下がっていっていた。現在はもうどん底に近い。気がする。


 原因は勿論、ただの友人であったはずの牛尾理央からの告白だ。


 その返事を先延ばしすればした分だけ、相手に気を持たせてしまったりや、周囲に話が広まってしまったりと面倒な事になるとは予想が出来ていた佳樹は、少なくとも今日中には断らねばとは思っていたのだが、


「……何て言えば良いんだ」


 適当な口実が見付からないまま現実逃避をするが如く部活に参加してしまった。


 結果、何も答えなど出せずに時間だけが過ぎてもう夕方だ。


「牛尾は何部にも入ってなかった気がするなあ。流石にもう帰ってるだろうし」


 明日に持ち越しか。今夜、佳樹は眠れるだろうか。


 確かに。牛尾理央は良い奴だ。嫌いじゃない。でも。理央は男だ。


 異性愛者である佳樹にとっては恋愛対象外だった。しかし。


 この御時世でそんな「本音」を口に出す事は出来ない。


 何故ならば。それは「差別」だからだ。


   


 だらだらと着替えたりしていたせいもあって、武道場を後にした時にはもう佳樹は一人だった。普段なら同じ柔道部の連中とくっちゃべりながら帰っていたが。


 しばらく歩いて校門の前、


「おっす。笹野。おつかれ」


 不意に声を掛けられた佳樹は、


「おおうッ!?」


 目をまんまるにして驚いてしまった。


 頭の中で色々と考えながら歩いていた佳樹はその人影に気が付いていなかった。


「ど、どうした。牛尾」


「待ってた」


「何で? あ。返事か? 悪い」


「違う」


「違うのか。じゃあ何だ?」


「一緒に帰りたかっただけ」


 佳樹も理央も電車通学だ。だが路線が違う。


 一緒に帰ると言ってもその道程は高校から駅までの2Km程度だ。


 徒歩ならば25分くらいか。


「そ、そうか」


 佳樹は頑張って笑顔を作ろうとして、失敗していた。理央は、


「はははははっ」


 大きく口を開けて笑った。


「そんなに警戒しなくても。好きだからって別に襲ったりとかしないし」


「そ、そうか」と佳樹はさっきと同じ台詞をもう一度、口にした。


「てか。俺が襲ってみたところで笹野には返り討ちにされそうだけどな」


 確かに。佳樹と理央では佳樹得意の「柔道」を出すまでもなく筋力の段階で佳樹の圧勝だろう。ガリガリというほどではないが理央は細かった。


   


「一緒に帰る」くらいなら今迄だってしていた。


 同性の友達同士でも普通にする事の一つだ。


 何も緊張するような事はない。


 ただ並んで駅までの道を歩くだけだ。それだけだ。


「笹野」


「な、何だ?」


「大丈夫かよ?」


「何が?」


「顔色が悪いぞ」


 頭では分かっていても。佳樹の体は正直だった。


「……夕陽のせいだな」


「なるほど。夕陽に照らされて笹野の顔が青く見えてたのか……て、異世界かよッ。地球の夕陽は赤いんですけど」


 理央らしからぬノリツッコミだった。


 佳樹は思わず、


「…………」


 無言でじっと理央の顔を見詰めてしまった。


 見る見るうちに理央の顔が赤く染まっていく。……夕陽のせいかもしれない。


「――ぷッ」


 佳樹は吹き出してしまった。「ははは」と声を上げて笑う。気が抜けた。


「意外とムズいんだな。上村みたいに上手くは出来なかった」


 照れ隠しだろうか理央は軽く唇を尖らせていた。


「いや。上村も上手くはないと思うし。そもアレを真似するとか不毛過ぎるだろ」


 驚くほどすんなりと佳樹の口からは普通の言葉が出ていた。


「普通でいよう」「普通で良いんだ」「普通に。普通に」と考えていたさっきまでは全く出てこなかった「普通の言葉」だ。


「アレって。笹野は上村に厳しいよな。謎だ」


「正当な評価だろ。牛尾こそ上村を買い被ってんじゃねえのか」


「そーかあ? 俺の中では上村って面白キャラなんだけど」


「ああ。キャラとして見れば。一周回って面白い……のか? いや」


「否定が早い」


 気が付けば。理央が佳樹に告白をする前――昨日までと同じ会話が出来ていた。


   


 思いがけず昨日までのテンションを取り戻した佳樹は、


「なあ」


 勢い理央に尋ねてみた。


「牛尾はもし俺と付き合ったとしたら何がしたいんだ?」


 口に出してみてから気が付く。ちょっと最低な質問だった。


 佳樹は慌てて言葉を付け足す。


「いや。正直、ピンとこねえんだわ。相手が牛尾じゃなくても。分からん」


 完全に言い訳だった。それもテキトウな言い訳だ。


 何分くらい前か校門の所で理央は「好きだからって別に襲ったりとかしない」などと言っていたが。それはまだ佳樹が告白の返事をしていないからであって。もしも、佳樹と理央が恋人同士になったとすれば、即日ではないにしろ、いつの日か佳樹は理央に襲われるのだろうか。……いや。いや。いや。付き合わないけど。


 友達同士ではしないが恋人同士ではする事と言えば、やはり、どうしてもキスやらセックスやらが真っ先に頭に浮かんでしまう。


 笹野佳樹は十代半ばの健全な――多少、イマ現代の社会的な思想とは相容れない部分も持ち合わせてはいるが、それでも。十二分に健全な男子だった。


 しかし。異性愛者である佳樹は同性である理央とはキスもセックスも出来ない。


 少なくとも望まない。


 望めない。


   


 ……ああ。そうか。この線があったか。


 佳樹は、九死に一生、死中に活、窮鼠猫を噛むやらの一手をひらめいてしまった。


「恋人」に求める事として理央がキスやらセックスやらの性的な行為を口にしたなら「俺には想像も出来ない」とそれを理由に告白を断ろう。


 恋愛モノでありがちな「その相手とのキスを想像出来るなら恋愛対象よ」の逆だ。


 俺は牛尾とのキスが想像出来ない。これはきっと頭ではなくて本能的に牛尾理央を恋愛対象とは思えないのだ――とでも言えば、それっぽいんじゃないか?


 よし。


 そうと決まれば。さあ、来い。ほら、来い。どーんと来てみやがれ。


 牛尾理央は「恋人」と何がしたいんだ?


「俺は」


 理央が口を開いた。


「ラーメンが食いたいな」


「……は?」


 聞き間違いだろうか。


「ラーメン」


「ラーメン……?」


「そう。ラーメン」


 何を言っているのだろう。佳樹の胸中は顔にも出ていた。


「ははは」と理央が笑う。


「覚えてねえ? 入学してすぐ。上村と高橋と四人でラーメン屋に行ったの」


「……駅裏に在る店か?」


「そうそうそう」と理央の声が急に強くなった。


 そのラーメン屋ならば佳樹もよく覚えている。


 テキトウに話を合わせたわけではなかった。



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る