第五部

第五部

 冷蔵庫を開けると、観葉植物を育てているような気分になった。


 昨日、大量に買い溜めしたグリーンサラダとミネラルウォーター。


 このまま何日も放置したら、プラスチックの容器を突き破って芽が生えるかもしれない。

 やがて芽から蔦が伸び、水を欲してミネラルウォーターを握り潰すかもしれない。

 成長した蔦がこのアパートを侵略し、グリーンサラダの城を築くかもしれない。


 橙樺はくすりと笑った。


 グリーンサラダとミネラルウォーターさえあれば生きていける。

 部屋から出なくてもいいし、男に恐怖しなくてもいい。

 本当にグリーンサラダが城になってくれたらいいのに。


 リビングに戻ると、テーブルの上には昨日描いた絵がそのままになっていた。

 眼帯の少年の絵だ。


 彼とまた会えたのはよかったけど、まさかあんな怖い思いをすることになるなんて……ううん、あれは私が悪いのよ。

 いくら足を引っかけられたとはいえ、私がもっと注意していれば転ぶことはなかった。

 彼は私を助けてくれたのよね。

 それなのに、私は涙を流してばかりでお礼も言えなかった。

 私って、とことん駄目だな。


 グリーンサラダをつまみつつ、橙樺は新しい画用紙に鉛筆を滑らせた。


 三十分かけてまた例の少年の絵を描いた。

 が、昨日とは表情が違った。


 昨日は悲しみの表情を描き、今日は怒りの表情を描いた。

 彼の怒りの表情は人間的ではなかった。

 彼には全てを捨てた勇ましさと潔さが宿っていた。


 人間という生き物は、なんだかんだと言っては物事に拘泥する。

 人間はよほどのことがない限り全てを捨てたりしない。


 彼は旅をしていると言った。

 彼はどうして全てを捨てたのかしら?

 私は全てを失ったけれど、彼とは違う。


 でも、と橙樺は内心で付け加えた。


 彼には私と似ているところがある。

 それでいて、やっぱり私とは対極の場所にいる。

 彼には……そう、人間を憎悪している節がある。


 色のない左目からは何も読み取れない。

 未完成の絵から得られるものは何もない。

 橙樺には永遠に絵を完成させることができない。


 橙樺は画用紙の上に鉛筆を転がした。


 彼は男だから怖い。

 でも、彼にまた会いたがっている自分がいる。

 あのミステリアスな視線に射抜かれると、磔にされたように身動きが取れなくなる。

 恐怖とはまた違う、緊張が全神経を駆け巡る感じ。

 不思議な視線。

 不思議な人。


「明日も来てくれるといいな」


 橙樺はおかしな気持ちと共にシャツを脱いだ。

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