遠来の友

胡姫

遠来の友

ひとつ願いが叶うなら、あの頃に戻りたい。


官を退いた後に隠棲場所として選んだ地は荊州だった。魏の領土となって数十年、襄陽もずいぶん変わった。あそこは水鏡塾があったあたり、川の向こうは龐徳公の住居があった、と目をつぶればまざまざとその光景を蘇らせることができるのに、私は一度もその地を訪れていない。


簡素な屋敷の庭には桑の大樹が青々とした葉を茂らせている。この樹が気に入って住み着いたようなものだ。穏やかだが死んだような時間が流れていた。


結局この年まで妻帯しなかった。自分が死ねば家は絶える。このまま一人で生き、一人で死ぬのだろう。


ふと庭先に人の気配がした。常にはないことだ。引退した独居の身を訪ねてくる者などいない。


逆光で顔がよく見えない。白髪交じりの髪をかき上げ、私は目を細めた。


「懐かしい場所ですね」


ざわ、と風が動いた気がした。


どこから現れたのか、背の高い人物が目の前に立っていた。まるで白昼夢のようだった。


穏やかな微笑みを浮かべたその人物を私が見誤るはずがない。


「孔明…」


年月を経ても変わらぬ怜悧な瞳が私を見つめていた。




使用人はいない独居の身なので手ずから茶を淹れる。客人をもてなすことなど久しくなかった。まして孔明がここに来るなど思いもよらぬことで、覚えず手が震えた。


「北の方で戦っていると聞いていたが」


「ええ、戦続きです。このところずっと」


おかげで休む間もありません、と言いながら孔明は私の淹れた茶を啜った。若い頃から細身の体付きであったが今はもっと痩せている。涼しい目元にも疲れが見える。激務なのだろう。それでもその目には、若い頃と同じ炎があった。かつての自分もそうであったのか、とふと思い、私は胸に重い塊を感じた。


「活躍は聞いているよ。魏軍をよく苦しめているそうだな」


「貴方は魏の人でしょう。他人事のような口ぶりですね」


「他人事だよ。もう引退したし、それに……」


自分はもうじき死ぬだろう、という言葉を私は飲み込んだ。このところめっきり体が弱り、咳き込むことも増えた。冬を越せるか分からないと思っているが、孔明に告げても詮無いことだ。


開け放した窓から涼しい風が入ってくる。桑の葉の青い香りがした。


「ここは敵地だ。どうして、どうやってここに来た?」


「懐かしくなったものですから」


孔明の横顔に深い疲労の色を見て、私は目をそらした。劉備殿亡き後の蜀は彼が一人で支えているのだ。私が見ることのできなかった国。あの人の国。


庭に曼殊沙華が咲いている。燃えるようなその花を見るともなしに見ていると、孔明が言った。


「曼殊沙華…あの人を思い出しますね。乱世を炎のように駆け抜けた……」


さっきから私も同じことを考えていた。


劉備殿が亡くなって十年になる。


劉備殿が創った国がどんなものか、私もこの目で見たかった。


「私に恨み言があるでしょう、元直」


「何のことだ」


「貴方を魏に行かせたこと」


私が劉備殿のもとを去ったのは母が曹操に捕えられたからだ。母の居所を漏らしたのは孔明ではないかと疑っていたが、やはりそうだったのか。


「魏では献策をしなかったそうですね」


「機会がなかっただけだ。魏では四品官まで上った。満足している」


「本当に?」


すぐに答えられなかった私に、孔明は携えてきた酒を差し出した。


「昔はよく皆で、酒を酌み交わしたものですね」


盃に酒が満たされる。青い桑の香りと酒の香りが混じり、陶然とした香気が漂った。


「官位ではありません。貴方はあれから戦に出ることはなかった。軍師として戦場で采配を振るう機会は二度と巡ってこなかった」


「……」


「ここからは、新野も近い」


心を見透かされている気がした。


新野で初陣を果たした時のことを忘れたことはなかった。あの高揚、緊張と不安、魏軍を破った時の突き抜けるような歓喜。あんなに生きているという手応えを感じたことはなかった。魏に行ってからは二度と味わうことができなかった。警戒されていたのかもしれない。捕虜になれば蜀に帰れるから。


「私は貴方を魏に追いやった。士元を死に追いやった。法正どのを死に追いやった。まるで死神のようだと自分でも思います、でも私は……」


孔明の頬に何かが光った。泣いているのか。


突然、孔明は立ち上がった。


「もう行かないと。貴方の顔が見られてよかった」


そのまま孔明はするりと出ていった。見送ろうと外に出たが、既に白い後ろ姿は視界のどこにもなかった。日は傾きかけ、茜色の空がなだらかな丘陵の向こうに見えているばかりだった。




その夜、夥しい流星が夜空を彩った。


私は戸外に出て夜空を見上げた。風が冷たい。満天の星空に流星が降り注ぐ。幾つも幾つも。まるで彼の涙のように。


室内には酒を酌み交わした席がそのまま残っている。


孔明は何を言いたかったのだろう。


だがそんなことはどうでもいい気がした。わからなくていいのだろう。


不意に涙があふれた。何故かは分からない。同時に臓腑の奥から込み上げてくるものがあり、私は激しく咳き込んだ。冷たい夜風に当たったせいだろう。肺病が既に回復不能なほど深く体を蝕んでいることを私は知っていた。




――ひとつ願いが叶うなら、あの頃に戻りたい。


彼もそう思っていたのだろうか。


同時刻、五丈原にて孔明が没していたことを知ったのはしばらく後のことだった。




          (了)

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