ママだって泣いたことがあるよ

九月ソナタ

ママは頑張ってます。でも・・・・


 感謝祭に近い十一月末のことである。

 私はいつものように、仕事の帰り、ニューヨーク郊外のプリスクール(幼稚園)で五歳の娘をピックアップした。


「いい日だった?」

 いつものようにママの私は訊き、

「イエス」

 といつものように、娘のナミ―が答えた。


 車の後部席からナミ―が後ろを振り返って、

「ママ、早く早く」

 と言ったのだけが、いつもと違っていた。


 ドライブウェイで車を下りて、家の中にはいった時、ナミ―が突然泣き始めた。それも、大声で、肩を震わせて泣きじゃくっている。


「どうしたの? 何かあった? どこか痛いの?」

 私は驚いて、矢継ぎ早に質問を投げた。


「なんでもない」

 ナミ―はそう言いながら、赤くなった小さな鼻をひくひくさせている。

 

 私は熱がないか額に手を当て、怪我はないのか身体を調べた。

「なんでもない」


 ナミ―はピンクのダウンジャケットを私にわたして、二階に上がって行った。

 私はキッチンで夕食の支度をしながら、階段の下に行って、上の物音に耳を澄ませた。もう泣いている様子はないようだ。


 パパが東京に出張なので、ふたりだけの夕食である。ナミ―の好きなミートボール入りのスパゲッティを作った。


 ナミ―には、いつもはミートボールがふたつだが、今夜はひとつ増やした。

 私はプレスクールで何があったのか知りたくてたまらないのだが、うるさく訊くことはしないつもりだ。自分もしつこくされるのが嫌いなタイプだから、娘もそうだろうと思うから。


 ナミ―はサラダはブロッコリーもちゃんと食べたが、ミートボールはひとつ、スパゲッティは三分の一くらい残した。


「デザート、いきますかね。プリンがあるけど」

 うん、とナミ―が頷いた。

 よし。このくらいの元気なら、いいことにしようと私は思う。でも、やはり気になる。


「今夜、ママはクッキーをたくさん焼かなければならないのよ。明日、オフィスのメギーのベビーシャワーをするの。クッキーの上にピンクのハートをのせてみようと思うけれど、どう?」

「いい」

「ナミ―は手伝ってくれる?」

「いいよ」

「じゃ、お願いね」


               *


 クッキー作りは順調に進んだ。でも、ナミ―の口数は少なく、最小限度のことしか言わない。


「ちょっと話したいことがあるの」

 なぁに、と娘が私を見た。


「ママのママにも言ってないことを教えちゃおうかな」

「ひみつのこと?」

「聞きたい?」

「聞きたい」


「それはママが幼稚園の時のこと」、

 と私は話し始める。


 その頃、ママはニューヨークの郊外のアーモンクというところに住んでいてね、「子羊プリスクール」という幼稚園に通っていて、そこではメグと呼ばれていたのよ。


 担任の先生はミセス・ホワイトと言って、大きくて、金髪のちょっとこわい先生。

 その幼稚園ではおやつの時間があってね、まるいテーブルのところに行って、先生からカップにミルクを注いでもらい、クッキーを二枚取って、自分の席にもどって食べることになっていたの。


 ミルクのピッチャーは重いので、子供はさわってはいけませんと言われていたのよ。

 

 ところが、その日、ママの番になった時、ミセス・ホワイトが「Wait a little bit」、ちょっと待っていなさいと言って、消えてしまったの。

 

 だから、ママは待っていたの。ずーっと待っていたの。

でも、いくら待っても、ミセス・ホワイトは戻って来ません。

 だから、ママはおやつの時間が終わってしまうのではないかと心配になったのよ。


 それでママはテーブの上の大きなピッチャーに手を伸ばして、自分でカップにミルクを注ぐことにしたの。


 すると、ミルクがどぽっと出て、プラスチックのカップをたおれて、ミルクがテーブルの上に流れてしまったの。テーブルの下にも、ぽたぽたと落ちて、床に広がっていったわ。


 ママはこわくなって、クッキーだけを取り、自分の椅子にいそいで戻りました。

 

 しばらくすると、ミセス・ホワイトが戻ってきて、ピッチャーが倒れているのを見て、「オーマイガッド」と言ってものすごく怒りはじめたのよ。


「だれがやったの?ピッチャーにはさわるなって言ってあったでしょ」

 とかんかん。


「言いつけを守らなかっただけではなくて、ミルクがこんなに無駄になってしまったんですよ。こんなことをしたのは、だれですか」


 ママはますますこわくなって、となりの椅子の子に、「だれがやったんだろうね」なんて言ってしまったのよ。

 

 ミセス・ホワイトは何度も言うのよ、「だれが犯人か、かならずつきとめますからね」って。

 こわかったわ。


 午後のクラスの時間がどう過ぎていったのか、覚えてはいないわ。

 いつミセス・ホワイトにつかまるのか、そればかり心配していたから。

 でも、犯人が見つからないまま、帰る時間になって、いつものように、ママのママが迎えに来ました。


 ママは急いで車に乗り、「はやく出して、はやく」と頼みました。


 車に乗った後も、心配で、何度もうしろを振り返りました。今にもミセス・ホワイトが「犯人はメグだ」と両手をあげながら追いかけてくる気がしたからよ。


 家に着いて、車をおりた時、ママはようやくほっとしました。

 もうミセス・ホワイトが追ってこないとわかったからです。


 とたんにママはなんだか悲しくなって、急にわっと泣き出したの。ママはその日の午後、プレスクールで、ずうっとずうっとこわかったのよ。

 

 自分でも驚くくらいの大声で、顔を真っ赤にしてわんわん泣いたの。

 ママのママが「どうしたの? 誰かにいじめられたの?」ときいたけれど、ママは答えずに、ただ泣いていたの。

 自分の部屋に戻ってからも、今日のことを思い出して、まだこわさが残っていたわ。

         

               *


「今日、ナミ―が泣いた時、ママはそのことを思い出していたのよ」

 私は焼き上がったばかりのクッキーをかじった。

「おいしい。大成功」

 ナミ―もクッキーを手にした。


「大人になってみるとたいしたことではないとわかるけれど、子供だったママにとっては大事件で、でも、なぜだか今まで誰にも話したことがなかったわ。ナミ―がさいしょ」

「ママ、かわいそう」

 とナミ―が涙ぐんだ。



 その時、東京のパパからビデオ電話がはいった。

「元気かい」

 タブレットの中のパパが手を振った。


「こんな時間に、そちらはまだ朝、仕事中でしょう」

「会議がひとつ終わって、またすぐ会議なんだけど、ちょっと、時間ができたから。ナミ―、元気かい」


「元気だよ、パパは」

「元気だよ。サンクスギビングはだめだけど、クリスマスまでには、お土産たくさん買って帰るから」


「パパ、なんでもいいから、たくさんたくさん買ってきてね。日本のものはきれいだから」

「わかったよ。ナミ―、大きくなったんじゃないかい」

「うん、わたし、今日、プロポーズされたんだよ」


「ブロボーズ」

 と驚いたのは私のほうだった。


「すごいね。もてるねー。誰に似たんだろ」

 とパパ。

「どの子がプロボースしたの」

 と私があわてる。


「テオドア」

 とナミ―。


「テオドア、だれ?」

 と画面の中のパパが訊く。

「なんていう歌手だったかしら、そのアイドルに似たかわいい子よ」

 とここは夫婦の会話。


「それで、ナミ―はどうしたんだい」

「わたし、子どもはけっこんできないんだよって言った」


「ナミーはえらいね。よく知っているなぁ」

 とパパが大げさに感心している。


「そしたら、テオドアったら、けっこんしてくれなかったら、メリー・ジョージアにたのむからいいって言ったんだよ」


「ひどい子だね」

「うん」

 ナミ―がまた少し泣きそうになった。


「パパはうれしいよ。ナミ―がことわってくれて」

「パパ、わたしはいくつになったら、けっこんしてもいいの?」

「そうだな。三十だ」

「三十!」


「あっ、パパ、間違えた」

「いくつ」

「三十五だ」

「そんなの、いやだなぁ。わたし、おばあさんになっちゃう」

 

 ナミ―はそう言って、背の高いカウンターチェアからすとんと下りて、キッチンを出ていった。

 私は三十六歳だよ。ママはもうおばあさんなのかい。

 


「ナミ―はプレスクールの後、ずっと泣いていたのよ。でも、その理由はパパから電話がくるまで、」

 と私が説明し始めたら、会議からの呼び出しがきたらしく、彼が画面から消えた。


 これって何なの。

 私はハートのついたクッキーをかじった。

 なんかこれ、ばさばさしているね。

 めでたしめでたしで幸せは幸せなんだけど、なにか消化不良の気分。

 私はもっと愛がほしい、娘からも、夫からも。

 


               完


















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