第三章・ハネキリ

1

 夏休みを迎えた学生が、街中を賑わせている。都心のカフェでのバイトを終えた僕は、その足で先生に頼まれていたお使いに向かった。

 辿り着いたビルを前に、ごくりと唾を飲む。高く聳え立つきれいな建物。選ばれし優秀な人間たちの職場。そして僕にとっては、胃が痛くなる場所。

『株式会社ツキトジ出版』――国内トップクラスの出版社である。専属契約で麗華先生の本を世に送り出している、この世になくてはならない会社だ。

 麗華先生の作品を扱う会社であるということは、つまり。


「小鳩先生! お待ちしていました」


 エントランスから出てきた、眼鏡にスーツの男性。ここは先生の担当編集者、椋田さんの勤め先だ。


「お、お久しぶりです、椋田さん」


 緊張で吃る僕に、椋田さんは爽やかに微笑む。


「鴉川でのサイン会以来ですね。またお会いできて光栄です」


「こちらこそです」


 椋田さんは、先生と二人三脚で作品を作り上げる、偉大な人である。先生の作品が本となって僕の手に届くために、必要不可欠な人だ。


「驚きましたよ。先生を呼んだら、『小鳩くんを向かわせるよー』ってさらっと言うんですもん。いつから仲良しだったんですか?」


 椋田さんは、先生から事情を聞いていないらしい。僕は端を折って簡潔に説明する。


「サイン会のあとに先生と再会して、それをきっかけに。アシスタントという体裁で、僕が先生に勉強させてもらう代わりに、雑用係を買って出ているんです。お小遣いが発生しているわけではありません」


「なるほど……なんだか面白いことになってますね」


 椋田さんは僕を建物の中に誘った。


「さ、小鳩先生。こちらへどうぞ」


「えっ? 僕、荷物を預かってくるように言われただけなんですが……」


「まあまあ! それともこれからご予定でも?」


 このあとはその荷物を持って、先生のアパートへ届けに行くだけだ。それも特に急ぎではない。椋田さんは、眼鏡の奥の目をにこりと細めた。


「折角見えていただいたんです。お茶くらいご馳走させてください」



 椋田さんの案内で、僕は文芸編集部の打ち合わせテーブルについた。テーブルを挟んで向かいに座る椋田さんは、にこにこと苦笑する。


「緊張してます?」


「はい……」


 僕はここに座っただけでガチガチだった。

 出版社という場所が、僕の胃を痛めるのは理由がある。かつて編集担当さんとこうして向かい合って打ち合わせをしていた……僕が小説家であった頃を思い出してしまうのだ。


 持ち込んだプロットに難色を示され、企画が進んだと思ったら企画倒れ。僕のためにと真剣に考えてくれる編集さんが、僕を傷つけないように慎重に言葉を選ぶ。見放されていると薄々勘づいているのに、気づかないふりをしてしがみつこうとしてしまう、自分のみっともなさ。


 当時の僕が座っていたのは、この席ではない。別の出版社の打ち合わせテーブルだし、もちろん担当者だって違う。だがこうして似たような環境で真正面に椋田さんがいると、あの頃の気まずさが蘇ってきて、胃がしくしくする。


 そんな僕を朗らかに見守り、椋田さんは話しはじめた。


「さて小鳩先生。月日星先生のアシスタントをしてくださっているとのことでしたが、詳しく教えていただけますか?」


 彼が僕を中まで案内したのは、多分、この辺りの事情を把握しておきたかったからだろう。僕も椋田さんには、今の状況をしっかり伝えておこうと思った。


「報告してなくてすみません。先生の提案で、僕が弟子入りさせてもらってるんです。やってることは、こうやってお使いとか、買い出しとか……」


 心霊検証のお手伝い要員です、というのは、言いかけたがやめておいた。まだ一度しかやっていないし、それに担当作のために僕が怖い思いをしたと知って、椋田さんが責任を感じてしまってもいけない。


「うーん……私が知らないうちにそんな関係ができていたとは」


 椋田さんは腕を組んで呟いて、それから少し前のめりになった。


「心霊検証に使われたりは、されてませんか?」


 僕なりに気遣ったつもりだったが、鋭い彼は訝しげだった。

 今のところは吊り橋の女の件だけだが、先生はそのつもりで僕をアシスタントにしたのだし、ここで嘘を言うのも忍びない。


「その要員でもあります……けど、僕も嫌なときはちゃんと断るつもりでいるので、ご心配なく」


 心霊検証なんて嫌に決まっているが、それを差し引いても、僕はあの月日星麗華のアシスタントという絶好のポジションを失いたくない。ここで勉強して、苦難に耐えて、もう一度小説家になりたい。

 僕の気持ちを察してくれたのだろう。椋田さんは数秒僕を見つめたのち、ため息をついた。


「気をつけてくださいね。現実は、小説のように本を閉じれば終わるものではありませんから」


 眼鏡の奥の瞳は、真剣な色を差している。


「私は先生と出会うまで、オカルトなんて、百パーセント信じてなかった。物語として楽しむことはできても、現実にはありえない、全て錯覚や脳科学で証明できるものと思っていました。しかし、先生と仕事をしているうちに、『ある』と知りました」


 ぞわっと、背すじが寒くなった。

 そうだ。僕も経験した。殺された女の生々しい感情。部屋に佇む姿。本で読むフィクションの世界ではない、現実世界のそれを。


 血の気が引いていく。このまま先生についていっていいのか……ずっと抱えていたけれど見ないふりをしていた不安が、立体になって僕を包むようだ。

 椋田さんは僕を眺め、そしてふっと頬を緩めた。


「でも内心、小鳩先生が月日星先生の面倒を見てくれていると知って、安心しました。あの人、ものすごい過集中型で集中しはじめると何時間も原稿に向かいっぱなしになってしまうんですよ」


「そうなんですか? じゃあ、喫茶店で執筆したりは……」


「絶対無理ですね。コーヒー一杯で閉店まで居座る迷惑客になってしまう」


 作家は、自室で集中するタイプもいれば、外の程よい雑音の中のほうが描けるタイプなど個人によって様々である。先生は出先では描かず、自宅で深く集中して描き上げるタイプらしい。それも、椋田さんが心配してしまうほどの集中力で。

 僕はどちらかといえば、雑音があったほうが落ち着く性分である。

 椋田さんは苦笑いした。


「放っておくと食事も忘れるし、健康に悪いし。様子を見てくれる小鳩先生がいてくれれば安心です」


 そう言われ、僕も苦笑する。


「健康は心配ですね。お酒ばっか飲んでるし」


「そうなんですよねえ。あの飲酒量は、やめさせたいけどやめさせられない事情もあって」


 椋田さんは神妙な顔で、指を組んで肘をついた。


「『文学界の酔拳使い』なんです」


「酔拳使い……!?」


「アイディア出しもプロットも本文も、どのフェーズに置いても、お酒が入れば入るほど良いもの描いてくるんです」


 そうだったのか。先生の健康を考えたら禁酒させたいくらいだが、出版社の椋田さんとしても、僕ら読者としても、今後の作品に期待している以上先生から酒を奪えないのだ。

 僕は数秒考えて、項垂れた。


「体を壊さないように、注意深く見ておきます」


「助かります……。私にはそこまで先生を管理できるわけではないので、小鳩先生、何卒よろしくお願いします」


 椋田さんも頭を下げる。

 事務員のスタッフらしき人が、僕らに冷たいコーヒーを持ってきてくれた。僕らはそちらに会釈してから、会話に戻る。

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