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 その後先生は、僕を深夜営業のファミレスに連れて行った。縮こまって喋らなくなった僕にさすがに罪悪感を覚えたのか、ご機嫌取りにパフェを奢ってくれたのである。


「ははは。あんなに荒ぶると思わなかった。素晴らしい収穫だった」


 先生はさほど悪びれない様子で言いながら、ドリンクバーからコーヒーを持ってきた。パフェを前にむくれる僕は、先生には拗ねている子供みたいに見えるのだろう。

 ファミレスの温かな明かりと夜中も働く人々、お客さん、きれいに盛り付けられたチョコレートパフェ。現実的な光景が、僕を優しく宥めてくれるようだった。


「先生は、なにも見ませんでしたか?」


「なにっ! 小鳩くん、なんか見えたのか?」


 驚いたことに、僕が見た奇妙なものは、先生には見えていなかったようだ。今度は先生のほうが、子供みたいにふくれっ面になった。


「ずるいぞ! 私も幽霊、見たかった! やっぱり脅かしがいがある人しか、幽霊との謁見は許されないのか」


「いやいやいや、見た人軒並み不可解な死を遂げたんでしょ!? 見ちゃだめでしょ」


 しかし僕しか見ていないというのなら、やはりあれは幻覚だったのだろうか。終始平常心だった先生とは違って、僕は場の雰囲気だけで震えていた。

 恐怖による思い込みで、脳が錯覚を起こしたのだ。


「やっぱり見間違えかもしれないです。……でないと怖いので、見間違えであってほしいです」


「そうか。まあ、とりあえず明日、写真を現像してみよう。なにか写っていればいいな」


 よほど僕が羨ましいのか、先生は寂しそうにテーブルに頬杖をついた。



 そして約束どおり、先生は僕を自宅アパートの前まで送ってくれた。見慣れた白いアパート、ここの三階に僕の部屋はある。ひとりになる頃にはだいぶ気持ちが落ち着いて、見慣れた自室の景色にほっとした。


 時刻は一時を回っている。常識的な時間には帰すと言った先生だったが、ファミレスに寄り道したおかげで遅くなった。疲労困憊の僕は、早々にシャワーを浴びて布団に潜った。

 目を閉じると、吊り橋のある風景が目に浮かぶ。疲れているのに、変に目が冴えて眠れない。


 本でも読んで気を紛らわそうかと、僕は布団から起き出そうとした。

 そのとき、体にぴしっと、電流が走る感覚があった。全身に力が入らない。指がぴくりともしないのだ。


「なに、これ」と、呟いたつもりだった。しかし喉も、舌先すらも動かず、声が出せない。

 頭は確実に覚醒しているのに、体だけ切り離されているみたいだ。

 暗い部屋の天井が僕を見下ろしている。息が、上手くできない。

 ずる、と、なにかを引きずる音がした。ずる、ずる、と、少しずつ近づいてくる感覚がある。頭を動かせなくて、周りを確認できない。僕は目を見開いたまま、固まっていた。


 固定された視界に、ぬうっと、女の顔が現れた。

 肌が青白くて目が真っ赤で、口をぽっかり開けている――車の窓に貼り付いていた、あの顔だ。


 僕は声にならない悲鳴を上げた。

 なんでここに? ついてきた? そもそも、見間違えではなかったのか?

 女は大きく開いた目で僕を見つめて、やがて骨ばった指をこちらに伸ばしてきた。


 冷たい感触が僕の首を伝う。怖い。それなのに、体が固まっていて動けない。女の手が、僕の喉に巻きついた。

 僕の呼吸は荒くなった。女の手が喉を締め上げてくる。どんどん息苦しくなるのに、逃げられない。女の充血した目が、僕の顔に近づいてくる。


「許さない……許さない……」


 意識が揺らいできた。酸素の足りない脳がくらくらしはじめ、視界に星が回りはじめる。

 脳裏にパチパチと浮かぶのは、かつての記憶……これが走馬灯というやつか。



 山の中を裸足で走る。正面には、丸坊主の男性の後ろ姿がある。彼に手首を握られて、後ろをついていく。すでに息が上がっていたが、男が走り続ける以上、自分も足を止められず、半ば引きずられるように足を動かしていた。


「私たち、どこまで逃げたらいいの?」


 ああ、違う。これは僕の記憶ではない。これは、目の前の女の記憶だ。


 彼女は花街の娼婦だった。ある日田舎から出てきた男が客につき、恋に落ちた。彼は彼女を妻として迎えると約束したが、彼の出身の村には厳しい掟があり、彼女が村に嫁ぐことも、男が村を出て暮らすことも叶わなかった。

 男は村の掟に背いて、女と駆け落ちする。夜な夜な抜け出した彼らに村の者たちは目敏く気づき、追手を寄越したのだった。


 ふたりは切り立った谷に架かった吊り橋を前に、息を整えた。


「さあ、この橋を渡ろう」


 男が誘うも、女は谷の深さを前に尻込みした。


「怖いわ」


「行かなくてはいけないよ。向こう岸に渡って、追手が来る前に橋を落としてしまおう。そうすればもう追いかけてこられない」


 彼の提案を、女はしぶしぶ呑んだ。吊り橋は恐ろしいが、ふたりで安寧の暮らしを手に入れるためだと腹を括る。

 男に手を引かれ、彼女は吊り橋へと恐る恐る足を踏み出した。彼がいれば大丈夫だ。どこへでも行ける。そう、信じていた。


 しかし、橋の中腹まで来た頃、男は足を止めた。


「はあ、はあ。やっとここまで来た……」


 彼は女の手首を離すと、彼女の両肩にその手を置いた。そのままぐっと、彼女の背中を、吊り橋の手摺の綱に押しつける。


「頼む。ここで一緒に死んでくれ」


 女は絶句した。なにを言われているのか、理解できない。

 ギシッと、綱が軋む。足が板の隙間にずり落ちかけた。女はようやく、か細い声を絞り出す。


「どうして? 一緒に幸せになるんじゃなかったの?」


「本当は分かっていたんだ。俺はあの村から抜け出せない。お前と一緒になるためには、こうするしかない」


 男の憔悴しきった顔が、彼女に押し迫る。覚悟など決まらないうちに、体重で綱が撓んだ。女の体は背面から奈落へ投げ出された。

 体が宙に浮く。愛した男の情けない泣き顔が、みるみる遠くなっていく。谷底へと落ちていく女は、絶望の中で思う。


 彼は初めから、私と死ぬつもりで村を出てきたのか。

 

 その数秒後には、彼女の体はくしゃっと散った。谷底の岩に頭蓋骨を割られ、肢体の骨は砕けた。飛び散った体の一部が、沢に流されていく。激痛とともに、女は絶命した。


 一瞬意識が途切れたのち、彼女の視界は再び開けた。谷底へと落ちたはずの女は、気がついたら、吊り橋の上に戻ってきていた。


 正面では、男が谷底を覗き込んでいる。女と諸共落ちるはずだった彼は、女だけを突き落として怖気づいたのか、綱にしがみついて凍りついている。

 ややもすると、男の村の追手が追いついてきた。


「お前。あの女はどこへやった?」


「あっ……そ、それは」


 男は青ざめた顔で村人たちを振り向いた。


「説得して、別れた。彼女は故郷へ帰った。彼女を手放したのだから、俺は掟を破っていない」


 女は目を瞠る。なんとこの男、心中を中止したのだ。女を殺した事実を隠し、自分だけ村に許しを請うて無事に帰ろうとしているではないか。

 男はたしかに、直前までは本気で心中を心に決めていたのだろう。しかし死を目前にして恐怖が決意を上回り、咄嗟に保身に走ったのだ。

 村人は彼を受け入れ、男は村人たちの中に紛れて吊り橋の袂へ歩いていった。吊り橋から動けない女は、小さくなっていく彼の背中を見つめて、打ち震えた。


 彼が私を裏切るはずがない。幸せになれるはずだったのに。どうして。


 女は橋に留まり続けた。谷底で彼女の死体が動物に食われ、沢の流れに削られて、日に日に小さくなっていっても。

 いつか男が、自分を迎えに来るのではないかと。彼女は淡い期待を抱いて待った。彼の手が離れたのと同じ山奥の暗闇で、ひとりぼっちで彼を待ち続けた。


 けれど待てど暮らせど、男は戻ってこなかった。

 代わりに、吊り橋に気障な男と気取った女が訪れた。裕福な家同士の男女の逢引だ。


「憎い。私になし得なかった幸せを、当然のように享受して」


 男を待ち続けた女は、届かない幸せに憎しみを募らせていった。

 何年も、何十年も、恨みと妬みと憎しみを増幅させた。


「いいねえ、次の作品はこういう背景で描くか。帰ったらプロット練るぞ」


「やっぱり危ないですし、この辺までにしましょうよ。暗いから足滑らせて、沢に落ちちゃいそうです」


 幸せになるな。私以外、幸せになるな。

 次はお前だ。



 ピリリリリ、と、枕元でスマホが鳴った。

 目の前の女が、びくんと怯んだ。首を締めつける冷たい感触が和らぎ、僕は喉を鳴らして息を吸い直した。

 感覚が自分の体に引き戻される。頭を傾けると、スマホの画面に『麗華先生』の文字が浮かんでいるのが見えた。

 女の姿はいつの間にか消えている。スマホはしばらく鳴り続け、やがて静かになった。

 女が消えたからなのか、僕の体は自然に動けるようになっていた。僕はしばし、寝転がったままぜいぜいと息を荒くしていた。助かった、のだろうか。背中が汗で濡れている。


 着信が止んだスマホを呆然と見つめ、それから僕はハッとした。僕のところに幽霊がついてきたのなら、先生のところにも出たのではないか。

 しかもあれは間違いなく、僕を殺そうとしていた。まさか先生の身にもなにか起こって、僕に助けを求めて電話をかけてきたのか。


 僕は慌てて、スマホを手に取った。先生の番号に電話にリダイヤルし、息を整えながら応答を待つ。

 先生は、すぐに出てくれた。


「ああ小鳩くん、ごめんごめん、さっきのは間違い電話!」


 けろっとした声に安堵して、僕は全身から空気が抜けるようなため息をついた。先生は酔っ払っているのか、呂律の怪しい喋り方で声を弾ませている。


「いやあ、酔って間違えてかけちゃった。わざわざかけ直してくれたのにごめんね。起こしちゃった?」


「よかった……無事だった」


「ん? どうかしたのか?」


「先生。幽霊、本当だったみたいです……」


 僕は話しながら、語尾を震わせた。情けないと笑われるかもしれないが、夜に起こった出来事を素直に話す。

 先生は酔っているくせに、相槌を打ちながら聞いていた。


 幻覚なんかじゃない。本当にいたのだ。僕らが面白半分に吊り橋を見に行ったから、ついてきてしまったのだ。

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