3

「ごめんて。でもほら、アシスタントの仕事はこれだよ。私は君の悲鳴が聞きたいんだ」


 ホー、ホー、と、フクロウの声が聞こえてくる。暗闇の山を、先生は登山道をサクサク登った。僕は先生の肩掛けのカメラバッグのベルトを握り、震えながらついていく。

 真っ暗な中で、先生の明るい声は一層明るく聞こえる。


「しがみつかなくたって、置いていったりしないよ」


「はぐれないように掴んでるだけです。足元がよく見えないんです」


 車は車道の脇に停めて、徒歩でしか入れない細い道を進む。幽霊の噂がある吊り橋まで、あと数分だそうだ。

 行き先も目的も告げられずにこんなところへ連れてこられた。今すぐ帰りたいが、車のキーは先生が持っている。「幽霊なんて噂に過ぎない」と頭の中で唱えて、腹をくくって今に至る。


「夜の山道なんて歩くものじゃないですよ」


「幽霊ってのは日光が苦手らしくてな。夜でないとお目見えできないんだよ」


 ぶつくさ文句を垂れる僕を、先生はニヤニヤ顔で一瞥した。


「そんなに怖いなら、車に戻って待ってる?」


「いえ。先生だけ行かせるのは情けないので」


「ははは。いい根性だ」


 強がって見せたが、ひとりで残されるのもそれはそれで怖かったというのが本音だ。なにせ、先生が「呪われている車を買った」と話していたのを思い出したからだ。事の真相はさておき、そんな車に取り残されたくない。もはや後戻りはできないのだ。


「件の女の幽霊は、恋仲の男に橋から突き落とされた女だそうだ」


 先生は先に進む足を緩めず語った。


「時は昭和の初め頃。無理心中を図った男が女を殺したが、女の死体を見てビビッて、自分だけ逃げた。女はこの男へ復讐するために、日が暮れると橋に現れ、彼が戻ってくるのを待っている」


「こ、怖……」


 僕は直球な反応しか出せなかった。

 風で枝の揺れた。その音だけで、僕はびくっと肩を弾ませる。ちょっとした物音にまで敏感になってしまう。

 一方先生は、歩き方にも声色にも、普段と変わりがない。


「その女の幽霊を見た者は、軒並み不可解な死を遂げた。不自然な事故、突然の自殺。はたまた、何者かに縊り殺された死体が見つかる、などなど。全員夜中に死んでいて、翌朝、遺体で見つかっている。元はと言えば恋仲の男を道連れにするのが当初の目的のはずなのに、理不尽な話だ」


「それ、見に行かないほうがいいんじゃ……」


 暗闇の中で不気味な話を聞かされて、僕はいつにもまして臆病になっていた。先生は変わらない声色で続ける。


「時に小鳩くん。幽霊の噂は決まって、子供か老人かか弱い女だと、不自然に思ったことはないか?」


「え。そういえばそうですね」


「屈強な力士だって同じ人間であり、同じように死んでるはずなのに、怪談には滅多に登場しない。どうしてだと思う?」


 問いかけられて、僕は首を捻った。仮に、吊り橋に現れる幽霊が屈強な力士だったら……なんとなく、話の雰囲気が変わってくる。縊り殺されるとしたら力の弱い女性より力士に締められるほうが勝ち目がないはずなのに、なぜだろう、なんか違う。

 それをどう言葉で表現しようか考えているうちに、先生が答えを言った。


「理由は単純。怪談の定石だからだ」


「へっ? そんな回答でいいんですか?」


 考えすぎてしまった僕が変な声を出すと、先生はそうだよと頷いた。


「『そんな回答』だけど、これはホラー作家にとっては大事なことだよ。人は本能的に、守らねばならない弱いものの無惨な姿にストレスを感じる。それが恐怖に直結するから、気の毒な弱者の気の毒なエピソードが、人の心をざわつかせるんだ」


「なるほど!」


 僕は妙に感心した。この吊り橋の話も、か弱い女が主人公だ。人が本能的に恐れるものを題材にしている。

 先生の楽しそうな声と冷静な分析のおかげで、だんだん怖さが和らいできた。ついでに闇に目が慣れてきて、先程までより周りが見える。


「てことは、これ、作り話なんですね?」


「おいおい、落ち着かないでくれよ。君には怖がってもらわないと困るんだけど」


 先生は半笑いで言いながら、僕を導いた。怪談の仕掛けを知った僕は、だいぶ余裕が出てきていた。


「作り話ですね。まず、無理心中を図ったのは、この男女本人たちでしか知り得ないはず。どこからどう漏れてこうも具体的に噂が広まったのか、辻褄が合わない」


 本当に幽霊がいたとしても、無関係の人から見れば、無理心中のストーリーまでは知らないはずである。

 僕を怖がらせたい先生は、つまらなそうに反論してくる。


「逃げた男自身が誰かに話したかもしれないだろ?」


「恋人を殺して逃げただなんて、自分から言わないでしょう」


 その男だって、その後どうなったのか曖昧である。女だけ見捨ててのうのうと暮らしたのだろうか。

 いずれにせよ、生き残った男が言わなかったとしたら、事実を知り得るのは死んだ女のみとなる。


 三十分ほど歩いただろうか。僕と先生の前に、深い谷が現れた。下には沢が流れているようで、微かな水音が聞こえる。

 そしてその谷には、古びた吊り橋が架かっていた。

 連続的に並ぶ腐りかけた木板が、毛羽立った綱で等間隔に繋ぎ止められている。風に煽られてギイ、と音を立て、不安定に揺れている。作り話ならば怖くない、などと高を括っていた僕だったが、この吊り橋から漂う不気味な雰囲気に、背すじが寒くなってきた。


「ほほーう。雰囲気あるう」


 先生の声が一段と弾む。


「いいねえ、次の作品はこういう背景で描くか。帰ったらプロット練るぞ」


 そうだ、これもホラーの定石だ。古くて不安定で、夜の闇の中で静かに構えている吊り橋。「怖い」と感じさせる要素があるから怖いだけだ。怖いと思うから怖いのだ。

 そう念じているのに、僕は冷や汗が止まらなくなっていた。


「やっぱり危ないですし、この辺までにしましょうよ。暗いから足滑らせて、沢に落ちちゃいそうです」


 言語化できない嫌な感じがする。だというのに、先生はうきうきと橋に向かっていく。


「女が死んだ吊り橋だぞ? 実際に落ちた高さや不安定な足元を体感してみないと、取材にならないじゃないか」


「それ以前に危険です」


 と、ぐいぐい進む先生に引っ張られながら、橋に近づいたときだ。


 橋の上に、人らしき影を見つけた。


「ん?」


 どきんと、心臓が跳ねた。

 誰かいる。吊り橋の真ん中から少しずれた中途半端な位置で、佇んでいる人。白っぽい服を着ていて、髪が長い。多分、女の人だ。


「えっ?」


 しかし次の瞬間には、もうそれらしき影はなくなっていた。見間違えだろうか。たしかになにか見えた気がするが――。


「せ、先生」


 僕は掴んでいた先生のカメラバッグを、きゅっと握り直した。

 そんな僕の横では、先生が橋の手前で立ち止まった。


「あっ、『立入禁止』だって」


 見れば、吊り橋の入り口に通行止めの看板がくくりつけられていた。

 今にも橋に足を踏み出しそうな先生だったが、さすがにこれを見て足を止めている。


「お作法は破れないな。ここまでだ」


 橋に踏み込むのは諦めた先生だったが、ご機嫌で辺りを観察しはじめる。


「肝心の女の幽霊はいないな」


「えっ。さっきあそこに……」


「怪談の噂が立つような、見間違えそうなものも見当たらない。あんな噂が立つくらいには、実際に落ちた人がいたってところか? それか単純に気味が悪いから、怪談の舞台にされたか?」


 先生には、女らしき人影は見えなかったようだ。 

 では、あれは僕の気のせいだったのだろうか。不気味な怪談とロケーションで昂ぶって、幻を見てしまっただけだろうか。

 立ち尽くす僕の腕を、先生が引っ張った。


「小鳩くん、カメラカメラ。吊り橋を撮ってみてくれ」


「なんで僕に撮らせるんですか!」


「君のほうがビビりだからだ。私が撮るより面白い」


 この人、物語を面白い展開に持っていくような感覚で、現実も面白おかしく運んでいる。先生は僕の背に腕を回し、カメラを支える僕の手に自身の手を重ねた。


「カメラは初めてか? 使い方を教えてあげよう。ここを覗き込んで、ここを押す」


 先生が体を密着させてきて、耳元で囁いてくる。これが恋愛小説ならドキドキのイベントだが、今の僕には別の意味でドキドキである。

 恐怖で体を強張らせ、僕はファインダーを覗き込んだ。暗くてどのあたりが写っているのか、ろくに見えない。

 さっさと終わらせてさっさと帰るに尽きる。僕は自棄っぱちで数回シャッターを切り、即座に踵を返した。


「はい終わり! 帰ります!」


「怖がっちゃって。かわいいな、君」


 先生は僕をからかい、笑いながらついてくる。

 落ち葉を踏み抜きながら、僕は先生に文句を垂れた。


「全くもう、行き先も告げずに夜の山へ連れてくるわ、怖いのは嫌いだと言っているのにそれを面白がるわ。最低ですよ、先生」


「分かってる分かってる。小鳩くんがアシスタントじゃなかったら、こんなことさせないって」


「アシスタントの内容がこれだって分かってたら、僕だって断りましたよ」


 早く帰りたくて急いだぶん、車が見えてくるまでが行きよりも近く感じた。先生の黄色い車がぽってり停まっている。ドアミラーには、駆け寄ってくる僕と車の後ろ側に広がる林が映っている。

 今時珍しい差し込み式の鍵で、先生が車を開ける。僕はすぐに助手席に滑り込み、ドアを閉めた。


 シートベルトを引いたとき、ドアミラーが僕の視界の端にとまった。

 背後に広がる、暗闇を携えた林。それを背負って立つ、白っぽい影。


「えっ?」


 僕は後ろを振り向いた。リアガラスの向こうに不自然な人影はなく、林だけが佇んでいる。気のせいだ、と僕は自分に言い聞かせた。先生が映り込んだだけかもしれない。

 運転席側のドアが開いて、先生がのんびり乗り込んできた。


「せっかちだな、小鳩くんは。はい、カメラ返して。カメラバッグに入れておこう」


「そんなのあとでいいですから……」


 僕は先生が差し出してくるカメラバッグにカメラを突っ込み、それを抱えた。車が発進する。なぜだか妙に落ち着かない。漠然とした嫌な予感がする。


 先生はご機嫌でハンドルを切っている。僕はまだ気分が晴れない。吊り橋を前にした辺りからだ。あのとき感じたぞわっと寒くなる感覚が、今もずるずると続いている。

 先生の間延びした声がする。


「吊り橋、渡りたかったな。けど手入れされてないまま放置されてたみたいだし、人の体重で壊れそうだよな」


 僕の背中の汗は一層増した。橋は渡れなくなっている。入り口から閉ざされているのだ。

 橋の上に人がいるはずない。僕らのようにやってきた先客でもない。

 気のせいだ。僕は今日何度目かのそれを、口の中で呟いた。気のせい。先生は見えてなかったみたいだし、あれは怯えた僕が思い込みで見た幻覚だ。


 外の景色でも見よう。暗くてさほどよくは見えないだろうが、多少は気が紛れる。

 窓の方に、顔を向けたときだった。


 青白い顔の女が、びたりと窓に貼り付いていた。


「ひっ!」


 僕は運転席側へと勢いよく身を捩った。急に飛び退いてきた僕に、先生が怪訝な顔をする。


「おっと、危ないな。どうした?」


「い、今、窓に……!」


 僕は先生に報告しながら、先生の腕にしがみついた。しかし改めて見ると、窓に貼り付いていた白い顔がなくなっている。


「あれ?」


「危うく急ハンドル切るところだった。事故らせないでくれよ」


 見間違えだろうか。いや、しかし僕の頭にははっきりと、女の苦悶の顔が焼きついている。

 血の気が抜けきって青白くなった肌と、それに反して充血した目。乱れて絡んだ長い髪。大きく開けた口の割れた唇と、そこから剥き出しになったぼろぼろの歯……一瞬しか見ていないはずなのに、鮮明に脳裏に浮かぶ。


 僕は恐る恐る、窓を観察した。暗闇の林が通り過ぎていくだけの、代わり映えしない景色が続く。

 よく見ると、窓が黒く汚れている。五本の指を広げて叩きつけたような、黒い汚れ……そこまで考えて、僕は見るのをやめた。考えたくない。跳ねた泥だと思い込むことにした。


「ねえ先生。吊り橋の女の怪談……あれ、作り話なんですよね?」


 ばくばく飛び跳ねる心臓を押さえて、僕は先生に訊ねた。先生はちらっとだけ僕に横目を向ける。


「作り話だなんて、私はひと言も言ってないよ」


 ガガガと、タイヤが小石を蹴る。

 バックミラーに目が行った。リアガラスが映って見える。そこにべたべたと、真っ赤な手形が無数に貼りついていた。 


「うわあああ!」


「小鳩くん、うるさいぞ」


「先生、先生! 後ろになんかいます!」


 パニックを起こした僕は、女がまた現れやしないかと辺りを見回す。

 足首にひやりと、濡れた感触があった。

 びくんと下を見ると、シートの下から痩せて骨ばった手が伸びて、僕の足首を掴んでいた。


「きゃあああ!」


 これはなんだ。なにが起きているんだ。僕はどうなるんだ。もうなにも分からない。恐怖だけが僕を支配する。


『その女の幽霊を見た者は、軒並み不可解な死を遂げた』


 その言葉が脳裏をよぎる。

 隣からは、先生の悠長な声がした。


「いい悲鳴だ。けど事故っちゃうから、大人しくしてくれー」


 やっぱり、見るんじゃなかった。先生の車になんか乗るんじゃなかった。

 僕は腰から体を折り曲げて、膝に顔を伏せて耐えた。

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