世界で一番美しい鯨《甲》

堕なの。

世界で一番美しい鯨《甲》

 海辺のログハウス。幼い頃旅行で行ったそこで見た鯨は今でも俺の瞼の裏に焼きついている。

 それは月の綺麗な夜だった。あの頃はただ連れられるままに行った旅行、日本海側の星も月も綺麗に見える、都会からは隔離されたその空間で、この世のものとは思えないほど美しいものを見た。

 大きな鯨。幼かった自分には尚更大きく見えた鯨が顔を出して、水面に身体を叩きつけるように倒れた。ブリーチングだ。様々な説はあれど、まだ原因は解明されていない。

 優しく冷たい月光と鯨の黒い影が、まるでお互いの為だけに存在するかのように自分の目の前を埋めつくした。勝手に外に出ていた自分は親に連れ戻された。クジラを見ていた時間はおよそ数十秒、それが自分が将来を選ぶきっかけだった。

 その光景に魅せられて、選んだ学部は海洋学部海洋生物科。あの光景をもう一度見たいと思った。

 手提げ鞄につけた鯨のキーホルダーが揺れる。イルカのキーホルダーとぶつかって、硬い音がした。コツンと、青と青は混ざり合わずに離れて、またぶつかって。

 可愛らしい二つのキーホルダーは幼さが覗く顔をしていて、いつも友だちにいじられる。お気に入りなのだ。クジラを見た翌日、親に買ってもらったこの二つのキーホルダーは言わば自分のオリジンだった。

 大学の教室の端っこら辺に座る。自分の友だちは前に座るタイプではない。別に自分も前に座りたいとは思っていないため、友だちに合わせるようにしている。

 スマホの上にバナーが現れた。どうやら友だちは風邪で休みらしい。それなら、と席を少し前の方に移動した。

 窓の外を見てみれば、都会とは隔離された大自然。木々のざわめきとどこかで水が流れる音がする。綺麗だと、思った。だがどうしたって、あの幼い頃に覚えた感動を上回るものはない。

 もう記憶もあやふやな頃の話。それでも、あの日はまるで動画に撮っているかのように鮮明に覚えている。月の綺麗な夜、冬で風は冷たくて、月明かりに照らされた鯨の影が大きく動く。高まる鼓動と、ただただ魅入られる自分。

 ふと、あの頃見た光景は魔境だったのではないかと思った。現世では見られない、何か禁忌に触れたのかもしれないと。唐突な話だ。だがどうもしっくりきた。

 分かっていた。あんな美しい光景、出会えたことが奇跡なのだと。それでも良いと思った。記憶の中で鮮やかに舞う鯨は、ずっと色褪せず美しいままで、自分をここまで連れてきてくれたのだから。

 鞄から一眼レフカメラを出して、撮った写真を眺める。九割以上を占める鯨の写真をあの記憶より美しいとは思わない。それでも、あの記憶と同じくらい愛しいと思う。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

世界で一番美しい鯨《甲》 堕なの。 @danano

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

同じコレクションの次の小説