8
十日ぶりに顔を合わせた
――あぁ、彼女は、きっともう保たない。
先程エレベーターホールの青年に思ったのと同じことを、また思う。彩羽の右目に宿った白百合の”花”は完全に開き切り、彼女の小さな体からはむせ返るほどの百合の香気が漂っていた。彼女の呼吸に合わせてゆったりと揺れる白百合はどこか重たげで、見ている間にも落ちてしまいそうな程に儚く、恐ろしく見える。私は少しの間その白い花を見つめると、一度小さく息をついて、呆然とこちらを見下ろしている少女にいつも通りに笑いかけた。
「……約束、そっちが破るから。気になって、ここまで来ちゃったよ」
「……そう」
『旅烏』の人に、聞いたのね。呟くような声は、けれど静かな踊り場にはよく響いて聞こえた。頷く私をジッと見下ろした彩羽は、ややあってどこか困ったように笑うと、くるりと踵を返して肩越しにこちらを振り返る。
「病室で話しましょう。私、個室なの」
言って、彩羽はスタスタと階段を上がって行ってしまう。その小さな背中を慌てて追いながら、私はふと、そう言えば彼女といる時はいつもこうだな、と彼女との短い思い出を思い出していた。
――初めて会った時も、水族館でも。いつでも、彩羽は私の前を歩いていた。
だから、そう。私が彩羽のことを思い出す時、脳裏に浮かぶのはいつも楽しげに私の前を歩いている彼女の後ろ姿なのだ。私が興味があったのは、彼女の目に咲く“花”の行く末であったはずなのに。
ふ、と吐息のような笑みが零れる。彩羽はそれが聞こえていたわけでもないだろうが、チラリとこちらを振り向くと、「一番奥の部屋よ」とだけ言った。
そうして立ち入った彩羽の部屋は、病室とは思えない程に生活感で溢れていた。
大きなトランクが二つ壁際に寄せられ、カーテンレールにはロリータ服が数着かけられている。見慣れた日傘はベッド脇の小机に立てかけられ、直前に見舞客でもいたのだろうか、白とピンクの可愛らしいティーセットが机の上に置かれたままになっていた。ベッドサイドには水族館で買っていたイルカのぬいぐるみと、持ち込んだのだろうテディベアが置かれ、枕元には読みかけの本にしおりが挟まれている。
まるでただの彩羽の部屋のようだったが、ベッドの頭に取り付けられたナースコールや、小机に置かれた複数の薬の袋が、彼女が入院中の病人であることを示していた。
彩羽は軽やかな足取りでベッドまで行くと、そのまま横座りに腰かけて「
「わざわざ居場所を突き止めてまで、私に何の用だったの?」
「……用と言うほどの用は、ないかなぁ」
ふぅん、と彩羽は呟く。だったら何をしに来たのかと言いたげな眼差しを受けて、私は視線を彼女から外すと、ふぅと一つ息を吐いた。息を吸い込むと同時、流れ込んでくる濃密な百合の香りに、思わずそっと目を伏せる。
――彼女は、一体いつまで保つのだろうか。
もう長くないことは、経験則上よく分かっていた。”花”が満開になった人間は、大抵一両日中には命を落としてしまう。また、”花”が枯れかけていたり、むせ返るほどに匂いが強くなれば、それだけ死期が近くなるのもこれまでの常だった。彩羽の白百合は枯れそうにはなっていないが、その香りは狭い病室を一瞬で満たす程に強い。甘い香りは黄泉から漂う死臭を思わせて、
黙り込んでしまった私に、けれど彩羽は何を言うでもなく静かにこちらの言葉を待っている。私は真っ白い天井を見上げて少しの間黙り込むと、ノロノロと口を開いた。
――もしもこれが最後の問答になるのなら。聞いてみたかったことが、そう言えば、一つだけあったのだ。
「……私に一目惚れしたって、どういう意味だったの」
唐突な問いに、彩羽はひどく驚いたようだった。また目を丸くして私を見ると、私に倣うように天井を仰いで、「そう、ね」と呟く。細い手をゆっくりと天井に翳した彩羽は、ややあって「ねぇ、留里」と呟くように言った。
「……留里と初めて会った時、留里は何をしてた?」
「何って……」
問われ、私は思い出す。あの日は確か、急に暇になったからと桜を見に出かけていたのだ。風に舞う桜と青い空、それに桜が舞い散る川面の様子がとても綺麗で、私は足を止めてその景色に見惚れていた。そうして何となく落ちていた桜の花を拾って、そうして……
『そのまま散らせてしまえばいいのに、おかしな人』
――そう言った彩羽と、顔を合わせたのだ。
私が思い出すのを待つかのように黙ってこちらを見ていた彩羽は、私と目が合うとやんわりと微笑んで「あの時ね、」と言葉を紡ぐ。
「落ちそうになった花びらを受け止めた留里の顔が妙に必死だったから、おかしくなって声をかけちゃったの」
「……そんなに必死だったかな」
「えぇ、とっても。それでね、私を振り向いた留里が、
それが理由。それが始まり。歌うように言って恥ずかしげに笑った彩羽に、今度は私が目を丸くして彼女を見つめた。まさか、そんな微妙な視線の違いに気が付かれていたとは。
息を呑んだ私に、彩羽は楽しそうにクスクスと笑って「ねぇ、どうして?」と言葉を投げてくる。
「あの時も、喫茶店でも、水族館でも。……それに今も。留里は、私に何を見ているの?」
「それ、は……」
私は思わず言葉に詰まった。適当に誤魔化そうにも、笑みを引っ込めた彩羽はいたって真剣な顔で私を見据えて、逃げを許さない姿勢である。私ははくり、と口を無意味に動かすと、彩羽の顔を……正確にはその右目に宿る白百合を、ジッと見つめた。彩羽の呼吸に合わせて揺れる白百合は、こうして話している間にも絶えず強い香気を放っている。
人に宿る”花”。
死を告げる”花”。
私は僅かに頭を振って、絞り出すような声で言った。
「……聞いても、面白い話ではないよ。不愉快な気持ちにさせるだけだと思う」
「あら、ここまで押しかけてきた強気はどうしたのかしら。……大丈夫よ。不愉快かどうかは、私が決めるもの」
「……そう」
あくまでも譲らない彩羽に、私は深く深く溜息を吐くと、気持ちを落ち着かせるように大きく息を吸い込む。あまりの緊張に体が震えていた。
私は、自分の目のことを母以外の他人に伝えたことは、これまでただの一度もなかった。ましてや、”花”が咲いている本人に伝えるなどと。
息を吐いて、浅く吸い込む。「私が見ているものは」と小さな声で呟く。僅かに身を乗り出した彩羽の白百合が揺れるのを視界に収めながら、私は、ほんの僅かに苦笑を浮かべた。
――本当に、まさか、本人に言うことになるとは。
「……あなたの目に咲いた、”花”だよ。出会った時から、ずっと」
彩羽がキョトンと目を瞬く。その動きに合わせて今や落ちそうに見える白百合に、私はそっと目を細めた。
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