7

 雨の中辿り着いた総合病院は、薄明の中で白い巨人のように聳え立っていた。私はチラリと建物を見上げると、煌々と光を零すエントランスに入って、周囲をぐるりと見渡す。

 入り口から入ってすぐ、二重扉を抜けたエントランスは、夕刻の今も人で満ち満ちている。淡いクリーム色のリノリウムの床は濡れてツルツルと滑り、何列も並んだベンチの全てが人で埋まっていた。ひっきりなしに電子音を響かせているのは、会計を知らせる電光掲示板だろうか。合間には患者を呼ぶ看護師の大きな声と、てんでにさざめく人々の声もこだましており、院内はなかなかの喧騒ぶりだった。


 私は邪魔にならないように壁際に下がると、総合受付と院内地図を遠目に見ながら、さてどうしたものかと思考を巡らせる。この中から一人の女の子を見つけるのは至難の業だが、しかし、と私は僅かに苦笑を浮かべた。


 ――受付で聞いても、教えてはくれないだろうな。


 それくらいは簡単に考えが及んだ。何せ私は彼女の親族でもなければ、彼女に呼ばれたわけでもないのだ。尋ねたところで門前払いが関の山、悪ければ警備員を呼ばれてしまうかもしれないわけで、出来ればそれは避けたいところだった。


 ――であれば、後はもう広い院内を見て回るしかない。


 ふぅと息を吐くと、私は壁際から体を起こして院内地図に近寄った。総合病院らしく複雑に入り組んだ地図を見ながら、彼女がいるとしたら、と水族館での様子を思い浮かべる。唐突に咳き込んだ彼女。顔を上げた時には開きかけていた白百合の“花”。考えられるのは肺、ないしはその他の呼吸器系だ。


 まずはそこから探してみよう、と、私はそれぞれの階数を指で追う。内科は三階に、呼吸器科は四階に、それぞれ入院病棟があるようだった。私は足をエレベーターホールに向けると、他の人達と混ざって列に並んだ。夕刻とはいえじきに夜になる時間だからか、見舞客よりも入院患者の方が割合は高い。何気なく並ぶ人を目で追った私は、先頭に並ぶ青年の横顔を見た瞬間、息を呑んで顔を伏せた。


 瘦せこけた青白い顔をして、手には売店のビニール袋を提げた青年。彼の左耳元には、が、その桃色を鮮やかに咲かせていた。


 勿論、ただの飾りではない。私にしか見えない、私にだけは分かる、死を告げる”花”だ。


 ――あれでは多分、一日も保たない。


 私はグッと拳を握りしめる。どうしようもないことだとは分かっていても、やはりあの”花”はどうしたって悍ましくて、恐ろしい。彩羽と出会って薄れかけていたその感情を思い出しながら、私は青年を飲み込んだエレベーターを見送ると、黙って階段へと向かう。ほとんど人のいない階段は、足を乗せるたびに濡れたスニーカーがキュッキュッと甲高い音を立てた。足早に階段を上がりながら、私は彼女に咲いていた白百合の”花”を、また脳裏に思い浮かべる。


 出会ったときには蕾だった小さな白百合。そして、”花”を付けていても全くの健康体に見えた、彩羽いろはという名の少女。

 

 彼女が実は病人であったなら。では、どうして”花”はあの日まで咲くことがなかったのだろうか。そもそもどうして、彼女に宿ったのは白百合だったのだろうか。


 考えたところで、どのみち答えは分からない。”花”の理屈は分からないことだらけで、分からないと言えば、彩羽が私に向けてくれた好意も、私にとってはよく分からないものだった。出会って間もない女をお茶に誘った挙句、やはりよく分からない理屈を付けて会う約束をして、挙句には水族館のチケットまで用意していた彼女。


 ――一目惚れだ、なんて。冗談を言う様子でもなく、至極真面目な顔で言うものだから。私は彼女の本心が全く分からなくなってしまったのだ。私自身の心ですらも。


 踊り場でふと足を止めると、私は緩く一度頭を振る。……本当はきっと、ここまでするべきではないのだろう。


 彩羽は、私に自分が病人であることを告げなかった。連絡先の交換だって求めることはなく、ただ、あの店で会えた時には心から嬉しそうな顔をした。……きっとそれが、彼女が私に求める全てだったのだと、私だってちゃんと理解している。


 そう、それは『旅烏』の青年に言われるまでもないことで。それでもここに来てしまった理由は何だろう、と私は考える。きっと深い傷になると、分かっていてここまで来てしまった理由は。


 頭上でぱたり、とスリッパの鳴る音がする。鋭く息を呑む音がして、私が顔を上げるよりも早く、聞き覚えのある澄んだ声が、私の耳を打った。


「……留里るり?」

「……こんにちは、彩羽」


 応えながら、私はゆっくりと顔を上げる。丁度踊り場から数段上、私を見下ろすような立ち位置で、彼女が……彩羽が、目を丸くしてこちらを真っ直ぐに見つめていた。

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