月華散る

胡姫

月華散る

桜が咲いている。


成都の桜は許都とは種類が違うのか、色が濃い。許都の桜は、白に近い薄い桃色だった。こちらの桜は桃色が濃く、花弁も重たげである。


――許都の桜、か…。


劉備は桜を見上げ、月を見上げた。皓々とした月明かりの下、桜は妖しいほどの美しさで花を揺らしていた。


「どうなさいましたか、我が君?」


諸葛亮が声をかけた。欄干にもたれ、庭園の花を見ている劉備の様子が、いつもと少し違う気がしたのだ。


「…何でもない。花が綺麗だな。」


劉備は笑った。しかしその目は諸葛亮を通し、諸葛亮ではない人物を見ている気がした。諸葛亮の胸に、ひとつの名が浮かんだ。劉備がこんな目をする時に、思い浮かべているのはいつも…。


――曹操。


「ここではない、どこか遠くを見ておられましたね。どこですか。」


劉備は目を見開いた。


「許都…ですか。」


一陣の風が吹き、花吹雪が欄干に吹き込んできた。劉備の袖が翻ひるがえり、表情を隠した。




劉備が許都で曹操の庇護を受けていたのは、もう十数年も前のことである。


――あの日も、桜が満開だった。


「左将軍、少しよいか。」


花見の宴たけなわの頃、盃を置いた劉備の袖を引く者があった。周りに聞こえぬほどの小さな囁きは、劉備のよく知る人物のものであった。


劉備が黒目がちの瞳を上げると、曹操の切れ長の瞳が、悪戯いたずらな光をたたえて劉備を見つめていた。


「何のご用ですか。」


曹操に手を引かれて、回廊から人気のない庭に出る。二人が抜け出したことに家臣たちは気づいていないようだった。もし気づいたとして見て見ぬふりをするだろう。劉備が曹操のお気に入りであることは周知の事実である。愛妾同様という噂も立っている。許都での劉備の立場は、曹操個人の寵愛に支えられた危ういものであった。


宴の喧騒もここまでは届いてこない。劉備は曹操に握られた手を振りほどこうと試みたがうまくいかなかった。軽く握っているようで曹操の手は劉備を決して離そうとしない。


「丞相?」


「君と花見がしたい。」


「今、していたではありませんか。」


粋を凝らした曹操自慢の大庭園は春の花であふれていた。諸国から集められた絢爛たる花々が今まさに旬を迎え、人々の目を楽しませていた。近隣の諸侯や家臣一同、帝とその近臣まで招いた盛大な宴のさなかであったのだ。


「そうではない。」


曹操は足を止めずどんどん先を行く。人気ひとけがなくなっていく。庭を抜け、厩うまやの方角に向かっている。


劉備は曹操の横顔を盗み見た。少し酒が入って上気した頬に、少年のような笑みが浮かんでいた。どきりとした。余人にはあまり見せない表情だった。


厩に着くと曹操は迷わず二頭の馬を引き出し、一頭を劉備に勧めた。


「さあ、乗れ。」


「…はい?」


「君を取っておきの場所に連れて行ってやる。」


戸惑う劉備に手綱を押しつけ、曹操はひらりと馬上の人となった。馬上から見せた笑顔は、劉備が今まで見た中で一番のものだった。




馬を走らせること数刻、鄙ひなびた山中に二人の姿はあった。


眼下に小さな川が流れている。闇の中、両岸に黄色い花が咲いているのがおぼろに見えた。先を行く曹操は馬の歩みを止めない。どこまで行くのだろうと訝りながら劉備も続いた。


突如薄雲が晴れ、月光が差した。皓々とした光が湖面に満ち、碧い水を照らした。


目の前に、小さな碧色の湖が豊かな水を湛えていた。


「見ろ、満開だ。」


「桜…ですか。」


湖の周囲は、山桜が満開であった。暗く沈んだ色彩の中、そこだけが華やかな春の衣をまとったように輝いて見えた。職人が丹精込めたものではない自然の花は素朴だが生命力にあふれ、宴で見たどの花よりも美しいと劉備は思った。


馬から下りると霧が立ち込めてきた。霧がかかると湖はいっそう幻想的な雰囲気を見せる。曹操が何気ない風で手を握ってきた。曹操に手を引かれ、劉備は水際まで近づいた。


「これを君に見せたかった。君の他は誰も知らぬ、秘密の場所だ。」


碧い水がさざ波を立てて足元を洗う。曹操の声はいつになく優しげで、劉備は戸惑いつつも握られた手を離せないでいた。


「何故、私に?」


「さあ…何故かな。」


桜のしなやかな美しさはどこか劉備を思わせる。不意に曹操は後ろから劉備を抱きしめた。


「…この花は、君に似ている。」


曹操の呟きはかすかだったが、劉備の耳にはっきりと聞こえた。


「どこへも行くな。」


風が湖面をかすかに揺らした。白い花弁がさっと湖面に散った。


「行くところなどありません。」


曹操の熱が感じられた。春先の冷えが足元から昇ってきたが、劉備は動くことができなかった。




何かに驚いたのか、背後で馬が嘶いなないた。劉備ははっと我に返った。


曹操の腕の中は熱かった。ずっとこのままでいたいと思ってしまう。しかし。


――それはできない。


「…もう戻らないと。皆が不審に思います。」


劉備は曹操の腕を解いた。曹操が不満げな顔をする。甘く切ない思いが劉備の胸を刺した。覚えてはならない感情だった。


「来年も見に来ましょう、二人で。」


「来年もあると?」


曹操は劉備の袖を掴んだ。劉備が振り返る。驚くほど真剣な目とぶつかった。


「花は毎年咲きます。」


「人は同じではないかもしれぬ。」


「そうでしょうか。」


「手を緩めたら、君がすり抜けて行くような気がしてならない。」


曹操は疑っている。劉備が本当にずっと自分のもとにいるのか。離反の意思はないのか。劉備は曹操をまっすぐに見返した。


「でも…約束ならできます。」


何度も約束を違えて来た劉備が、約束を口にする。約束という言葉の何と軽いものか。しかし曹操は言った。


「では…約束だ。」


返事の代わりに顎を持ちあげられ、唇が重ねられた。約束の証のように。


――その約束は嘘。嘘は、恋の証。


曹操も分かっている。この嘘の正体を。劉備は黙って曹操の口づけを受けた。嘘の味は甘かった。




「何をお考えですか。」


花吹雪の中で、諸葛亮が問うた。答える間もなく、劉備は後ろから諸葛亮に抱きしめられた。


諸葛亮の体温が背中越しに伝わってくる。怜悧な外見に反して彼の体温は熱い。この年若い軍師は曹操と同じことを言う。曹操と同じことをする。だから忘れられない。花が咲くたびに思い出す。


「泣いておられるのですか。」


「…泣いているのは、お前だろう。」


劉備は反対に問い返した。前に回された諸葛亮の手がわずかに震えている。吐息に湿り気がある。


「私が?」


劉備は顔だけを諸葛亮に向け、瞳の奥を覗き込んだ。


「お前はもう少し泣いた方がいいな。心を抑え過ぎだ。」


「私のことなど…今は我が君の話を…」


「花を見ていただけだ。」


劉備は頭ひとつ分高い諸葛亮の頬に手を伸ばした。


「花は、ただの花だ。」


少し背のびをして諸葛亮の唇に唇を合わせた。あの時と同じ、甘い味がした。


同じ花をあの人も見ているだろうか。許都の桜は、成都の桜とは違うだろうか。


――我が君は、嘘が上手だ。


諸葛亮は劉備の瞳の中に、消えない熾火おきびのようなものを見た。気づかなければよかった。


それで桜を植えたのですか。花が咲くたびに、毎年彼を想うのですか。


問いが渦巻いたが口には出さず、諸葛亮は劉備の顔を引き寄せ、口づけをした。


劉備の嘘は甘い。甘くて毒がある。嘘と知れれば尚更、その味は甘かった。目を瞑つむればいい、耳を塞ふさげばいい。気づかなければ、ないのと同じだ。


――気づかないふりをしてあげますよ。


口づけが深くなり、互いの衣を乱した。




許都の庭園は春の花があふれていた。


劉備が去ってから、一度も宴を開いていない。曹操は見事な庭園を前に、ふと立ち止まった。


「花は…毎年咲く呪いのようなものだな。」


「は?」


従っていた文官が聞き咎めて顔を上げた。


「あの者、余に呪いをかけおった。」


――花が咲くたびに、思い出してしまうではないか。


「いつか全土を手に入れたら、また花見の宴を開こう。」


――その時は、君も一緒だ。


曹操は足早に歩き出した。文官が慌ててついていく。庭園に植えられた山桜が、白い花を揺らしていた。




           (了)




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