第2話 始動、ハニカム計画⑥


 階段を下りて廊下まで出ると、リビングへと繋がるドアの向こうからいまだに賑やかな談笑が続いていた。

 ドアの前に立ち、ノブに手をかけようとしたところでまたわぁっと歓声が上がり、手が止まる。声からして、やはり俺以外の全員が集合しているようだ。

 ……やっぱやめよ。

 身内話が盛り上がっている空間に自分が紛れ込んだときに、急にしんと静まり返るあの恐怖。おわかりいただけるだろうか。あれは本当にある怖い話だ。まるで自分が悪霊になったかのような気持ちになるあの体験は、映像だけでは味わえないおぞましさがある。

 一旦作戦は中止しよう。さっさと引き上げて別の作戦を考えなくては──と踵を返したところで、

 ガチャ。

 おもむろにドアが開き、俺は飛び上がった。

 心臓を押さえながら俺は恐る恐る振り返ると、入口から顔だけ出してこちらを見つめる潤花の姿があった。


「…………」


 真顔。感情の読めない、真顔。


「……先ほどはどうも」

 

「何で引き返したの?」

 

 ギクッとした。ドアガラス越しに動きを見られていたのか、潤花は表情を崩さないまま断定的に問いかけてきた。今朝に続いて二度目だ。やましいことはないはずなのに、私服警官に職務質問されている気分になった。


「京都まで、沙羅双樹の花を見に行きたくなって……」

 

「そう」


「おう。それじゃ」


「待って。それ咲くの六月」


「……詳しいな」


「時間あるんでしょ? 今なら世界に二つだけの花見れるよ。ほんと、超かわいいから」


「いや、女子の言う『かわいい』は信用できないから」


「大丈夫。私、女子の着ぐるみ被ったゴリラだから」


「ゴリラの言う『かわいい』のどこが大丈夫なんだよ」


そう言い捨てて俺は再び踵を返すが、潤花にがしっと手首を掴まれ、慣性で身体が引き戻される。

振り返るとそこには、満面の笑みを浮かべたメスゴリラがいた。

いや怖いわ。

その魔の手から逃れようと掴まれた手を引っ込めようとするが、ビクとも動かない。すげぇ握力だ。何度力を込め引っ張っても、ビクともしない。


「離せ! 俺は鴨川でイチャつくアベックたちを火炎放射器持って追いかけ回してやんだよぉ!」


「一名様ごあんなーーい‼」


 尋常じゃない握力で引っ張られた俺は、勢いよく引き込まれたせいで前のめりによろけながら部屋に入った。


「あー! 古賀くんだー! いらっしゃーーい‼」


 ここは何の店だよと思いつつ顔を上げると、


「おはよう、衣彦くん」


「おう、小早カッッヮ……ッ!」


 俺は咄嗟に自分の口を手で覆った。

 危なかった……! 軽々しく『可愛い』って言うところだった……!

 心臓がドキドキと早鐘を打つ。

 長袖の白いシャツにニットのビスチェと花柄のスカート。

 普段は目を覆っている長い前髪は横に流してバレッタで留めており、白いおでこの下ではつぶらな瞳がきゅるんと音が聞こえそうなほど艶やかに輝いている。よく見ると潤った唇や頬はほんのりピンク色で血色が良く、いつもよりも表情が明るい印象のナチュラルメイクだ。

 驚いた。前髪で覆われた瓶底眼鏡に芋ジャージというガリ勉のコスプレみたいな出で立ちだった小早川真由が、まるで別人のようだ。


「かわいいでしょ⁉ 真由ちゃん、似合ってると思わない⁉」


「あ、はい、せんぱ──はい」


 ダメだ。今度は『先輩も似合ってますよ』と言いかけた。

 優希先輩はサスペンダー付きのショートパンツの上にカーディガンを羽織り、中にレースをあしらった白いシャツを着ていた。

 人懐っこい小動物のように愛嬌たっぷりの笑顔。目鼻立ちが整った美少女でありがなら、煌々と輝く大きな瞳には一切の陰りがなく、無垢で飾り気のない魅力があった。

 コーディネートの統一感を意識しているのか、先輩の服装は小早川とは対称的なパステルカラーで、二人とも手首に同系色のシュシュを付けている。こうして似たような格好して並んでいると、姉妹のようだ。


「ねぇ衣彦! 二人ともすごい可愛くない⁉ 目の保養だよ!」


「あ……そ、そう……だね……」


 他人事のように語るみずほ姉ちゃんだって決して見劣りしていない。

 二人に比べて初見で目を引くような出で立ちではないが、ガーゼ生地のワンピースにニットのベストは本人の親しみやすい雰囲気に馴染んでいてとてもよく似合っている。緩やかに波打つ亜麻色の髪に素朴で純粋な人柄を表したような薄いそばかす。そんな彼女のやや太い眉毛が優しく下がるたびにこちらも朗らかな気持ちになり、釣られて笑顔になってしまいそうだった。

 そんな俺の心境を知ってか知らずか、視線を感じてチラリと横を見ると、潤花が「どう?」とでも言いたげなドヤ顔でこちらを見ていた。悔しいが、グッジョブと言わざるを得ない。しかしそうして手放しに潤花を褒めるのは癪(しゃく)なので、俺はにやけ面になりそうな表情筋をぴくぴくと痙攣(けいれん)するほど抑えながらフンと鼻を鳴らし、視線を再び戻した。


「……にしても、随分にぎやかな部屋になったね。誰かの誕生日会かと思った」


「本当だよね。最初は優希が真由に着なくなった服一、二着あげようかって話してただけだったんだけど、着替えてるうちにみんなで盛り上がっちゃって、ファッションショーみたいになっちゃった」


みずほ姉ちゃんの言う通り、今朝見たときには生活感で満ちていた居間の空間が、今はカラフルな洋服たちが周囲を彩る隠れセレクトショップのような様相を呈(てい)していた。脱ぎ散らかされたままの服はどれも質の良さそうなものばかりで、ロゴを見る限りどれも有名なブランドだった。しかし中でも一番気になったのは、それらの中にさりげなく紛れ込んでいた『なめたけ』とプリントされた白いTシャツだった。俺はソファにかけてあったそのTシャツを拾い上げ、胸元の毛筆書体で書かれた文字が幻覚ではないかもう一度よく見た。


「これ、優希先輩のですか?」


「んん? それは私のじゃないなぁ」


「お姉ちゃんじゃないとしたら、衣彦のじゃないの?」


「何でこの場に俺のTシャツがあるんだよ。俺が持ってるのは『クマのPOO』って書いたやつだ」


「えぇ……違うのは持ってるんだ……」


「衣彦たち、一時期みんなで変なTシャツばっかり買ってたもんねぇ」


「俺たちの界隈じゃバカTシャツは男のたしなみだからね」


「その界隈、どうせいつもの四人だよね」


「あの……それ、私が着てたやつ……」


「へ? 小早川の?」


 意外なセンスに驚いた。

 大人しい性格のわりに攻めたTシャツを着るんだな……と思いハッと気付く。『着てたやつ』って……このTシャツはついさっきまで小早川の柔肌に密着していたものってことか? 通りでまだ温もりが──いや待て冷静になれ。このぬくもりは気のせいだ。甘い柔軟剤の香りもほのかに伝わる体温の名残りは俺の劣情が生み出した幻に決まっている……が、何か胸がぞわぞわする。


「む、昔からこういう変なTシャツ集めるのが好きなんだけど……でも、着る機会がないから……部屋着にしてて……」


 小早川自身も変なセンスというのは自覚的らしく、消え入りそうな声で顔を赤く染めていた。恥じらう姿が溜まらなくいじらしい。


「いや、わかるわかる。俺もこういうネタTシャツ集めてるけど、身内以外じゃだだ滑りするから、結局部屋着になるんだよな」


「衣彦くんも集めてたの?」


「そうだよ真由。衣彦ったらね、変なTシャツ多過ぎて全然着ないで私に押し付けてくるんだよ? タンスの中、変なTシャツばっかり溜まってるんだから」


「いいな~、私も変なTシャツ欲しい」


「ダーメ。お姉ちゃん変なTシャツならもういっぱい持ってるでしょ」


「変じゃないよ! ウデムシのTシャツとかかっこいいから!」


「そういえば優希が下宿に入ったばっかりのときもそう言ってたよね。ものすごくリアルなクモのTシャツ着てきて、お母さんも下宿のみんなもビックリしてたなぁ……懐かしい」


「そんなことないもん! 玲(あきら)は『すごいね』って褒めてくれたんだよ⁉」


「優希それ絶対Tシャツのことを褒めたんじゃないよ!」


 身振り手振り必死になって反論する先輩がおかしくて潤花とみずほ姉ちゃんは二人で笑っていた。

 その光景を眺めながら、俺は隣にいる小早川にぽつりと呟く。


「ちゃんとした服着てるの初めて見たけど、似合ってるな」


「ありがとう……でも、潤花ちゃんやみんながかわいくしてくれたから、みんなのおかげ」


「せっかくだし、普段もそういう格好してみたらどうだ?」


「ダメなの。お母さんに『実由の足を引っ張るな』って言われてるから、私なんかが実由みたいなオシャレしたら、実由の評判悪くなっちゃう」


「…………」


「あ! もうこんな時間だよ!」


 潤花がスマホの時計を確認して急に声を上げた。

 いまだに論争を続けていた姉ちゃんと優希先輩はそれを聞いてぴたりと会話を打ち切り、二人とも慌てて自分のスマホで時間を確認した。


「そうだよ! 始まっちゃう!」


「『レプリケーションズ・アクト』!」「『おいでよ節足動物の森』!」


『…………』


 しん……と水を打ったように静まり返る一同。

 真顔で見つめ合う先輩と他三人。

 みずほ姉ちゃんたちの言っている『レプリケーションズ・アクト』とは少し前に流行ったweb小説原作ドラマの再放送で、先輩の言う奇天烈なネーミングセンスの番組は、世界中の変わった生き物の生態を紹介しているドキュメンタリー番組だ。


「えっと、じゃあ私……」


「待ってみーちゃん。ここで『私は管理人だから』っていう理由で引くのはナシにしよ? 今日はみーちゃんも休みで、プライベートなんだから。真由も、ドラマの方見たいんだよね?」


「う、うん……」


「ってことでお姉ちゃん、これでドラマ派が三票……それ以前にお姉ちゃん。その配信、予約録画してるんだから見る必要ないよね?」


「推しの配信はリアタイと録画の両方を見るっていうのは全世界共通の常識だよね? それに少数派を数の暴力で弾圧するのはお姉ちゃん違うと思うな……こっちの二票のこと、無下にしないで欲しい」


 俺も数に入ってんの⁉

 俺は目が飛び出る勢いで先輩の顔を見るが、先輩は口をへの字に曲げたまま俺をガン無視した。


「あの……」


 俺は先輩の圧に負けずそっと手を上げる。こんなクソみたいなチャンネル争いに巻き込まれるなんて溜まったもんじゃない。


「俺もテレビで見たい動画あるんですけど」


『は?』


「何で俺だけみんなから睨まれてんの⁉」 


「古賀くんもでっかい画面で『おい森』見るんだよ? 今週はアブラムシ特集だからね」


「いや、俺は別に……」


「衣彦くん……ドラマ、苦手?」


 すがるような視線を向けてくる小早川。

 いや、そんな目で見んなよ……ドラマが見たいっていうより、得体の知らない毛むくじゃらの虫とか見たくないって気持ちはわかるけどさ。 


『みんなーー!』


 そのとき、部屋の隅で点けっぱなしだったテレビから聞き覚えのある声が聞こえた。


『ケンカは~……ばってん‼』


「っ……!」


 小早川がぴくりと顔を上げた。


『シュビドゥ屋の新発売! ア・アララ・らぁめん豚骨味! 出たよ☆』


 チャンネル争いの最中、テレビ画面の中で小早川と瓜二つの顔をした人気アイドル・小早川実由がエキストラの子供達とご機嫌な笑顔でカップラーメンの宣伝をしていた。

 絶妙なタイミングで流れたメッセージ性の強いCMに、俺は笑いを堪えるのを我慢した。

 さすがに恥ずかしいのか、小早川は顔を真っ赤にして肩を震わせている。

 みんなも小早川の様子に気付いてはいたが、それについては誰も触れようとはしない。

 そして一瞬静まり返った沈黙を破るように先輩が「ごほんっ」と咳払いをして、腕を組んだ。


「わかったよ……ここは公平に、『古今東西』で勝った方のチームがテレビ見れることにしよ? テーマは『タランチュラの学名』で」


「お姉ちゃん? 落ち着いて考えて? それ公平な要素どこ?」


「そうですよ先輩。俺はいつからチームにされてるんですか。非同意ですよ」


「ジャ、ジャンケンにしよ……? ジャンケン……!」


「ジャンケン! そうだね真由! そうしよ!」


 俺の話、全員聞く気なし。


「真由ちゃん、悪いけどじゃんけんこそ公平じゃないよ? 二百戦無敗のじゃんけん女王の優希ちゃん相手だと、みんなの方が不利と思うなー」


「二百戦も……⁉」


「いや、めちゃくちゃ嘘だろ」


「真由ちゃんがそこまで言うならしょうがないなぁ……ごめんねみんな、先に謝っておく」


「えっ、えっ……やるの、私……?」


「いいよ真由。私が代わりに勝負してあげる。みーちゃんも良い?」


 潤花の問いかけにみずほ姉ちゃんと小早川はこくこくと頷き、先輩は余裕たっぷりのしたり顔で嘆息しつつ拳を固めていた。


「潤花、お姉ちゃん手加減しないからね」


「いいよ。負けないし」


 バトル漫画みたいな展開になってきたが、みんなはひとつ大事なことを忘れている。

 俺は? 


「あのさ……さっき、俺も見たいのあるって言ったんだけど──」


「最初はグー!」


「待って! ねぇ⁉ 俺は⁉」


『ジャーンケーン────!』


 姉妹の声が揃い、二人が拳を振り上げる。


 ────俺という孤高の狼を置き去りにして。

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