第2話 始動、ハニカム計画③

 一階の洗面所で顔を洗った後、俺はなるべく音を立てないようにキッチンへ向かった。

 この時間の下宿はさすがに静かだった。

 騒がしい人間がいないだけで、同じ空間でもこんなに印象が違うものかと謎の感動を覚えた。

 共用の冷蔵庫から飲みかけの炭酸飲料を取り出し、気つけ代わりにそれを一気に喉に流し込む。寝起きの身体に染みる刺激だった。

 ペットボトルの蓋を閉めながら、何気なくキッチンからLDKの全体を眺めると、ふいに懐かしい気持ちになった。

 大きく目立つのは八人がけのダイニングテーブルと、居間にあるテレビと二脚のソファ。その間にあるテーブルの上にはファッション雑誌と旅行雑誌の最新号が置かれており、そこに掃き出し窓のカーテンから漏れる日差しが当たっていた。子供の頃にはよくそこで幼馴染みたちとゲームをしたり、当時の下宿生の人たちと遊んだりしてもらっていたものだ。

 

「……ん?」

 

 視界の隅に違和感を覚えて目を凝らすと、食堂のテーブルの上に何かが散乱していた。

 規則正しく並べられたレシートの束、飲みかけのコーヒーが入ったままのマグカップ、筆記用具に電卓……そして、開きっぱなしにしてある家計簿らしきノートだった。この位置から見てわかるほど、書き損じの黒塗りや二重線だらけだ。


「みずほ姉ちゃん……」

 

 綺麗好きのあの人が、面倒くさいという理由でこれらを散らかしたままにしておくはずがない。

 みずほ姉ちゃんがいつも座っている椅子が、引かれっぱなしで斜めにずれたままだった。


「……何時まで起きてたんだよ」


 伊藤下宿は、無償の奉仕で成り立っているわけじゃない。

 人数の割に広い下宿の掃除も、みんなが食べる毎日の献立を考えてそれを作るのも、下宿の運営や万が一の責任の所在も。

 そのすべてを担っているのは全部、まだ年端もいかない高校生……つまり、みずほ姉ちゃんだ。

 遊びたいことも、したいこともたくさんあるだろうに。

 それでも、みずほ姉ちゃんは最愛の母が遺したこの場所を守りたい一心で、人並みの女の子としての生活のすべてを犠牲にしてきた。

 ここがあるのは、みずほ姉ちゃんのおかげだ。


「…………」


 俺はペットボトルを冷蔵庫にしまい、忍び足でテーブルへと向かう。その途中、テーブルの下にレシートが一枚落ちていたことに気付いたので、それを拾ってそっとレシートの束の横に一枚だけ置いておいた。開きっぱなしのノートには、丸みを帯びた字で食費やら光熱費やらのメモがびっしりと書かれている。


「全部、一人でやってるんだよな」


 何か、力になりたかった。

 だが、みずほ姉ちゃんに直接それを言っても、『ありがとう。大丈夫』としか言わないだろう。

 本来下宿生の生活を支えなければならない立場からくる負い目以上に、自分の力でこの下宿を守りたいというみずほ姉ちゃんなりの責任感があるからだ。戸籍上の親族はみずほ姉ちゃんに対して何もしてくれないし、みずほ姉ちゃんもまた助けを求めたりはしない。

そんなみずほ姉ちゃんの覚悟に対して、俺にできることなんてたかが知れている。

 だが、それでも……


「簿記……勉強、するか」

 

 それでも、何かをせずにはいられなかった。

 俺は後ろ髪を引かれる思いのまま広間をあとにした。

おそらく、そう時間が経たないうちにみずほ姉ちゃんが起きてくる。

 そうしたらいつも通りの笑顔で、なんてことのない素振りでこの雑多な仕事の山を片付けるだろう。

 俺がどんなに問いただしても、決して弱みを見せようとしない。

今まで、ずっとそうだった。

 それを知っていながら、いまだにかける言葉が見つからない自分が情けなくてしょうがなかった。


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