第2話 始動、ハニカム計画②
重い瞼(まぶた)を開くと、柔らかい光が視界に入った。
枕元のスマホを手に取り、目をこする。時刻は朝の六時前だった。入学式は明日からなので、まだゆっくり眠れる。このまま二度寝してしまおうかと一瞬迷ったが、朝のうちにやらなければならないことを思い出し、渋々起きることにした。
かかっていた毛布をよけ、上半身だけ外の世界への脱出を図る。
カーテンの隙間から漏れる陽の光の中でチラチラと舞う埃がどこか幻想的だった。
「起きるか……」
上体を起こし、ぐっと身体を伸ばす。先日転倒して負ったあちこちのすり傷がまだヒリヒリ痛むが、体調は悪くない。
ふとベッドの脇に、大量の本が積まれていることに気付く。
そうだ、昨夜は荷物の整理を中途半端にしたまま寝てしまったんだ。
クローゼットとベッドを含めた六畳一間の和室。
その足場のそこかしこに、大小さまざまな段ボールが転がっていた。
確か、昨夜の最後の作業は本棚の片付けだった。
まだおぼろげな意識のまま、開封済みの段ボールの中から何気なく一冊の本を取り出すと、そこからはらりと一枚の栞(しおり)が落ちた。
「……っと」
拾ってみると、その栞にはボールペンで文字が書かれていた。
なんだ? 栞に何か書いた覚えなんかないぞ。
訝(いぶか)しく思いその文字を読んでみると、
『本ばっかり読んでたらカワイイ彼女が寂しがるぞー♡』
元カノの落書きだった。
「クソ女……!」
俺は栞をビリビリ破いて叩きつけるようにゴミ箱に捨てた。
怒りによって眠気が吹っ飛んだ。
よく見ると、俺が手に取ったのは高校受験の合間に読んでいた小説だった。塾でいつも隣の席だったあいつに、いつのまにか落書きをされていたらしい。
「裏でコソコソ男に会いに行ってたくせに、何がカワイイ彼女だ……」
うららかな陽気とは対照的に、予期せぬ地雷を踏んで朝から血圧が急上昇した。
まったくイライラする……入学してからは女なんかにうつつを抜かさないで、何か新しい趣味やバイトでも見つけて忌々しい記憶を頭から消し去ってやろうと心に誓う。
「そうだ、それどころじゃない」
新しい趣味といえば、この新生活で出会った新たな友人のことを思い出す。
部屋のカラーボックスの上に置かれた二つのプラスチックケース。
床材と紙製の卵トレーが詰め込まれた一方のケースには、小指ほどの長さの細長い虫がいたるところでうねうねと蠢(うごめ)いている。これらの虫を譲ってくれた奇虫マニアの優希(ゆうき)先輩によると、この虫はゴミムシの幼虫のミルワームといって、さまざまな愛玩動物の餌として重宝されているらしい。
そしてもう一方のケースには、世界三大奇虫の一匹、ヒヨケムシのキタロー(命名・美珠優希(みたまゆうき))がいる。
「よう、朝ごはんの時間だぞ」
当然、語りかけても反応はない。
ヒヨケムシは扁平の身体から伸びたかぎ爪のように長い節足と大きな顎が特徴の虫で、クモのような見た目をしながらそれとは異なる固有の生態を持つ謎が多い虫だそうだ。
先輩の話によると、キタローはイエロージャイアントヒヨケムシという比較的ポピュラー(?)な種類のヒヨケムシで、曰(いわ)く、未だに飼育体系が確立していないため、一年も持たず死んでしまうことも珍しくない虫だとか。
俺は先輩の指導のもと、ほとんど意地と成り行きでヒヨケムシの育成に挑戦した次第だったが……出だしから心が折れそうになったことがある。
給餌(きゅうじ)だ。
「やるか……」
俺は棚の上のプラスチックケースから餌のミルワームを一匹ピンセットでつまみ、隣にあるヒヨケムシの入ったケースを開けた。木のような土のような、独特の臭いが漂う。
ヒヨケムシは動くものにしか反応しない習性があるので、生餌を直接与えないとちゃんと食べてくれない。つまり、生きた虫を直接食べさせないとならないのだ。
自然の摂理とはいえ、愛玩動物を生かすためにこの手で生き物を殺すのも、その光景を目の当たりにするのも、罪悪感がとてつもない。先輩に泣き言を言いまくって餌を推奨されていたゴキブリやピンクマウス(冷凍した生まれたてのネズミ)ではなくミルワームにしたものの、今もうねうねと動くミルワームをつまむピンセットが緊張と抵抗感で震えている。
「……恨まないでくれよ」
勢いで決意したとはいえ、キタローを養っていく覚悟を決めたからには、この小さな命の犠牲は避けられない。
俺は心の中でミルワームの冥福を祈りながら深呼吸をする。そして、体をよじらせてピンセットから逃れようするミルワームをヒヨケムシのケースの真ん中に突っ込んでから数秒──弾丸のような勢いでヒヨケムシが砂の中から飛び出した。
「おぉ……」
ヒヨケムシはガサガサッと一瞬でミルワームに掴みかかり、前顎のハサミで器用にその身体を刻み出した。
眠気など一発で吹き飛ぶような、強烈な光景だ。
すげぇ。むしゃむしゃ食べる。超食べる。
「なんつーか……生きてんだな、必死に」
グロテスクな絵面とは裏腹に、その旺盛な食欲は見る者の興味を惹きつけてやまない謎の魅力があった。
俺は何かに取り憑かれるようにスマホを構え、ミルワームを貪(むさぼ)るヒヨケムシの様子を録画する。目の前で行われる弱肉強食の現実。俺たち人間にとっての食事は日常の一コマに過ぎなくても、やはりこういう小さな生き物たちにとっては生きる術(すべ)そのものなのだろう。
「……弱肉強食、か」
恋愛においても、強者と弱者が存在する。
あの女と俺のように。
本来お互いの好意の上で平等に成り立っているはずの男女関係が、いつのまにか搾取する側とされる側の関係に変容するという現象は往々にしてあることだ。
俺に落ち度があるならまだいい。
だが、あいつは俺を餌にして、俺の幼馴染みに取り入ろうとした。
別れた今でも、それが許せない。
──ピコン。
録画停止のボタンを押すと、停止音が鳴った。キタローが貪(むさぼ)っていた餌のミルワームはもうほとんど食い尽くされていた。
「……よし」
一仕事終えて、ため息を吐く。
無慈悲に捕食されていくミルワームには同情を禁じ得ないが、これは生き物が生き物たらんとするために必要不可欠な儀式だ。この給餌を怠(おこた)ると、キタローを生かすことはできない。
できなければ、待っているのは『死』だ。
先ほど本を取り出した段ボールの中身に視線を移す。
そこには、元カノから借りた本や、今では負の遺産と成り果てた思い出の手紙等が数々入っている。
良心の呵責(かしゃく)で捨てるには忍びなかったそれらの荷物を眺めながら、俺も腹を据える。
もう振り返るのはやめだ。
忌まわしい過去と決別して、あの最悪の出来事を糧にトラウマを乗り越えてやる。
そうと決まれば、誰にも見られないうちにさっさとこの特級呪物を処分しに行かねば。
これも、生きるために必要な儀式だ。
そう意を決した俺は、まず部屋を換気しようと勢いよくカーテンを開けた。
ブチブチブチッ!
勢いよく開け過ぎたせいで、カーテンレールからプラスチック製のランナーが弾け飛んだ。
「…………」
俺は力なく垂れ下がったカーテンの端を握り締めながら、遠くの空を眺めた。
……もう、振り返るのはやめだ。
朝日が眩しかった。
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