3  寮生となる

 亜紀は廊下を駆け抜け、靴箱の靴を履き替え、あかつきほし学院の東門を出たところで、ようやく一息ついた。

(うぅ、さっきの出来事、消し去りたい)


 絶対、高校生活では同じてつを踏まないと誓ったのに。

(変な子だって、ウワサになるかな)


 坂道を、うなだれて上る。

 学院の塀に沿った坂道の先には、鉄筋コンクリートの洋館があった。ふるい建物だ。扉は最新オートロックにリフォームしてある。

 玄関のひさしには寮の名前が、かかげられていた。

 それは、くすんだ真鍮しんちゅうのアルファベットで、〈 A U R O R A オーロラ 〉と綴られている。 

 

「帰りました」

 玄関を入ってすぐの舎監室に亜紀は、まず声をかけた。


 受付を兼ねた室内窓の向こうにいた女が、顔を上げた。

「おかえりなさい」


 長身の女はストレートの薄い色の髪を後ろで束ねて、細い縁メガネに白のブラウス、灰色のガーディガン、紺のフレアスカートが似合っていた。

 舎監の一人である桐野きりの先生だ。

 中等部の英語教師で、寮の住み込みの舎監を引き受けている。

(すごくきれいな人だなぁ)というのが、亜紀の第一印象だ。


 そして3階まであるこの建物は、さすが昔の建物。エレベーターはなかった。亜紀に割り当てられた部屋は3階の端。往復となれば、けっこう消耗した。

(これ3年間やったら、足腰強くなるやつ)


 ♪~。 

 そして個室に入ったとたん、さっき舎監室で渡された携帯が鳴った。


 すのこベッドに腰かけて亜紀は、携帯の受話器ボタンをタップする。

『何してたの。出ないんだから』

 母の声が耳に響いた。受話音量を上げた覚えはない。


「携帯、登校する前に舎監室に預けて、寝る前も舎監室に預けるから。通学生も登校から下校まで担任の先生に預けるし、使う時間も限られてる」


 毎日、大体、母から電話がある。

 めんどうくさい日課になりつつある。


(時間割はコピーして渡したし、学校サイトに『寮生の毎日』というページがあるよ。そこ見れば、よくない?)

 亜紀は喉元まで出かけた言葉を飲み込む。言えば、母は不機嫌になる。

 

『学校はどう? 勉強はついていけてる?』

「数学、むずかしい」

『やっぱり』

 母は、わかっていたと言いたげだ。


「寮生は夕食後、先生に教えてもらえる時間があるから質問する」

『そうしなさい。それから部活はどうするの?』

「まだ決めてない。今週、部活動紹介オリエンテーションがあるから」

 たしか、明後日あさってだ。


 あかつきほし学院は文化部が少なかった。

 亜紀の中に運動部は選択肢にない。


『亜紀、運動は、からきしダメだものね。学校案内、見るから、ちょっと待って——』

 向こうで、パラパラとページをめくる音がした。

『科学部。理系ね。ん~、吹奏楽部は、楽器代がかかるって聞いたのよね。その前に亜紀、弾ける楽器ないし。ピアノ、挫折ざせつしちゃったものねぇ。茶道部もねぇ。左ききの亜紀には、お点前てまえムリでしょ。美術部は——。賞はもらったけど本格的に習ったわけじゃないから、心配よね?』


「考えてる」

 小2でやめたピアノのことを思い出して、亜紀は、どんよりとした。


 ピアノは好きだった。

 父の転勤による引っ越しの狭間で、早めにピアノ教室をやめたとき、お隣の奥さんが「教えてあげる」って言い出して御好意を受けた。

「ほら、こーんなふうに手を振って」

 お隣りの奥さんは、ぶわんぶわんとひじから手首を振る弾き方を亜紀に教えた。

 そして、引っ越した先ののピアノの先生に、「亜紀さん、手を振る変なクセがついていますね」と注意された。 


 あとで母がこぼしていた。

 あの奥さんは音楽学校に行った人でも何でもなくて、プロのピアノ奏者が情感豊かに弾きこなす映像を参考に、亜紀に、そういうことを教えたのだと。

 弾くたびにピアノの先生に手の振れを注意されて、亜紀はピアノが楽しくなくなった。そして、やめた。

 

 まちがったことを教え込まれたとはいえ、軌道修正できなかったのは自分の力不足だ。

(わかってる)

 左ききで、伴奏の左手の音が右手の主旋律より大きく響いてしまうのも直せなかった。どのみち、限界を感じてピアノはやめてしまっただろう。


「入るとしたら美術部かな」


 亜紀の描く絵は幼稚園の頃から、ほめられてはいる。

 子供心に夢中になれるものだとわかった。

 描きはじめると、頭の中でお話が渦巻く。連動する。没頭する。

 すると人の言葉が耳に入らないし、自分の名前すら一瞬わからなくなるような瞬間が、亜紀にはあった。

 それはアブない人だと我ながら思ったので、誰にも言わなかった。

 だけど、中学の時には、まわりに漏れ出ていたようだ。


「えぇと。もう夕飯の時間だし。洗たくもしなきゃ」

 まだ続きそうな母の電話を、亜紀は遮ってみた。


『そう。早くしなさいよ。あなた、のろいから』

「ん。それじゃ。早いけど、おやすみなさい」

『返事は〈はい〉でしょ』

「はいっ」

 やっと、終わった。



「よし! 洗たく」

 亜紀は脱いだ衣類を入れたランドリーバスケットを抱えて、個室を出た。


 ランドリー室は1階の風呂場の側にある他に、各階の洗面所にスペースを取って1台、洗たく機が設置してあった。

 年季の入った縦型洗たく機が、今しも脱水音をたてている。 

 洗たく物のあるじは、いない。


 しばらく待っていると、「どうかした?」、長めストレートボブの女子が、通りがかりに声をかけてくれた。

 入寮式の時、紹介しあった。同級生だ。名前は出てこない。

「これは、どうしたら」

 亜紀は、とりあえず洗たく機の件を優先した。


 洗たく機の閉じたふたの上には、ランドリーバスケットが置いてあった。

 そのプラスチックの側面に、マジックペンで名前が書いてある。アルファベットで、〈FURUTAふるた〉とあった。

千景ちかげだ。あ、基本、他の人の洗濯物はさわらない決まり。言ってくるから待っててね」

 女子は、ぱたぱたと廊下を早足に去った。

 見送った後で、彼女はAクラスの佐久間涼子さくまりょうこだと、亜紀は思い出した。


「ごめーん」

 入れ替わりに、ショートカットの女子が、あわてた様子でやってきた。

 この女子は、たしかBクラス。

(古田さん、古田さん)

 亜紀は忘れないように、頭の中でくり返しておいた。


「白井さん、どうして暁の星に来たん?」

 古田は洗たく槽から洗いあがった洗たく物を、ランドリーバスケットに、ぽんぽん放り込みながら聞いてきた。


「え、と。いちばんの理由は、憧れている先生の母校だったからです」

「そっかー。うちも小4の時、ワンピースの制服に憧れてー」

 古田は遠い目をした。

「なのに、うちらの代で共学になったらさ。制服も変わっちゃったんだよ」

「それは残念でしたね」

 今度は亜紀が洗たく物を、洗たく槽に入れる番だ。


「共学になったのは、まぁ、よかったのかな。あ、洗った後は乾燥室に干すよ。下着は自分の部屋で干す人が多いけど」

「はい」

「でさ。白井さんも反抗期、激しすぎて、寮に入れられちゃったクチ?」

「えっ、と?」

 亜紀は知り合ったばかりの古田のフレンドリーさに、ちょっとドギマギしてしまった。

「うちは、きょうだいバトルに親が疲れちゃってさ~。寮があるなら寮に入ってって」

「ひとりっこです。わたしは」

「あ、そうなんだ。自主的に来たクチか」

「家から通学するには遠くて」

 ごく納得できる理由を言う。本当のところは気軽には話せない。

 

「でさ。白井さん、もう、クラブ、決めたん?」

「まだです」

「陸上って興味ある?」

「う、運動は……」


(苦手ですぅ)


 古田は陸上部だったのか。たしかに、切れのよい話し方。素早い話題転換。短距離走者を彷彿ほうふつとさせる。


「中学は何部だったん?」

「美術部です」

「ああー、そんな感じー」


 古田も、彷彿ほうふつとしたらしい。

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