誘惑

 次の曲がり角、つまり垂直に降りていく道に侵入してからが、まさに別の世界に迷い込んだような空気に包まれていた。もちろんそれは幻想的な意味ではない。地獄というほどおどろおどろしい風景ではないが、彼等の四方を囲む壁という壁に、びっしりと先ほど見た木の根が張り付いているのだ。それはまるでカプテリオという一個の生命体の内臓壁を走る血管のようでもあり。


「こいつらがさっきのように攻撃してきたらたまったもんじゃないな。燃やしていくべきか?」


『燃料は温存しておくことをお勧めします。先は長いですからね』


 ラタトスクは先ほどの火炎放射器を出す気がないようだ。ナンディとシヴァにも同様の装備品はあるが、燃料を温存するべきというラタトスクの言葉に少なからず同意できたので、やめておいた。


「アルマに乗っていれば刺されることもないでしょう」


 タマを出し入れする時にはナンディとラタトスクが周囲をかため、それ以外はアルマに乗って移動する。意識してやるようにしただけで、これまでとやることは変わらない。プアリムを警戒するのも悪魔の樹木を警戒するのも同じことだ。違いがあるとすれば、こちらは常に敵が周りを取り囲んでいるということだ。精神的な負荷は比較にならない。


「確かにこれまでとは危険が段違いだけどさ、地獄とか罠とかって言うほどのもんかな?」


 タマが作った足場を降りていく途中、クリオが素朴な疑問を口にした。危機感が足りない、とはホワイトもミスティカも思わない。口にしなかっただけで、思いは同じだったからだ。


『心配しなくても、そろそろあいつらが現れますよ……正直、不安です。あなた達は未経験なようなので』


 ラタトスクが、今までとは一転して真剣な口調で危険を知らせてくる。つまり、この無数に絡み合っている木の根は戦うべき敵ですらない、ただの障害の一種ということだ。ホワイトがシヴァに刃を握らせ、強敵との戦いに備える。


 細い縦穴の底に到着し、タマを回収して横穴へと進む。一段と密度を増した木の根が、もはや壁を覆い尽くし光を遮って通路を薄暗くしている。ただ暗いだけで恐怖心は生まれるものだ。それが周り中敵意に満ち満ちた木の根に囲まれているのだから、なおさらだ。


 しばらく進むと、通路の先に異質な〝色〟が浮かんで見えた。暗い通路に白っぽいシルエット。それも、見慣れた形状のものが。


「……えっ、女の子?」


 人型。大きさは普通の人間と同じだ。そして白っぽく見えるのは、服を着ていないから。こんな場所に、裸の少女が立っていたのだ。それを目にした瞬間、ミスティカの脳裏におぞましい光景がフラッシュバックする。似ているのだ。教主に無体をされて泣き叫んでいた、そして遺族と共に処理機械へと送った、あの少女に。


『出ました。クリオさん、メルトクラッシュを使用します。あの人型を破壊する意志を示してください』


 ラタトスクが四つん這いになり、尻尾を頭上に伸ばした。あの下衆男を消し去った武器を目の前の少女に撃とうというのだ。クリオは動揺し、操縦桿を握る手が震える。


「えっ、だってあれ、人間の女の子じゃ……」


『馬鹿ですかあなたは! こんな場所に服も着ないで人間の女が歩いているわけないでしょう!』


 ラタトスクが罵声を浴びせる。その声からは強い焦りが感じ取れた。件の少女はただその場に立ってゆらゆらと身体を揺らしながら、こちらをじっと見つめている。周りは木の根がびっしりと壁に張り付いている。もしこの少女が人間であったなら、先ほどのミスティカと同じように攻撃を受けているだろう。無防備な裸の少女だ。一瞬で絶命し養分を吸い取られて骨と皮だけになるに違いない。そうならないということは、あれは人間ではない。理屈では分かっている。だがクリオにはとてもあれを強力な兵器で攻撃する意志を持てなかった。


「うっ……おぇ……」


 ナンディの操縦席で、ミスティカが嘔吐えずく。不快な記憶が脳をかき乱し、腹の底から煮えたぎるマグマのような憎悪の感情が湧き出てきた。許せない、許せない、許せない。年端も行かない少女を欲望のはけ口にした教主が許せない。それを黙って見過ごすことしかできなかった自分が許せない。そして何より、こんな姿で人前に現れる植物の意図が、手に取るように分かってしまって許せない。


「もういい。悪趣味な悪魔の樹木さんよ、消え失せな」


 シヴァが一足飛びに人型植物へ近づき、刃で水平に斬る。メルセナリア機兵団を一息に両断した斬撃だ。


 それが、少女の腹部に刃が少し斬り込んだ状態で止まる。


「なっ……」


 硬い。金属的な硬さではない。圧倒的な質量を感じさせる、言うなれば極めて密度の高い有機物。刃こぼれしなかったのは幸いだ。少女は無言のまま、腹に刃がめり込んでも痛みを感じた素振りも見せないまま、両手を伸ばしてシヴァに乗るホワイトのいる辺りを見上げる。子供が親に抱っこをねだるように、あるいはしとねで男を迎える女のように。


『燃やします』


 ラタトスクが勝手に動き、火炎放射器で少女を焼く。シヴァは刃を引き、両手を合わせて雷をぶつけた。それでも少女は動じない。相変わらずホワイトに向かって両手を伸ばし、じっと見つめる。


「このっ!!」


 ミスティカが憎悪のこもった叫び声と共にナンディで突進した。角の先端を電熱で赤く光らせ少女の腹部に突き刺すと、触れた部分が焼かれて炭化しながら角を迎え入れた。ようやく目に見えて大きなダメージを少女に与えることができたが、ミスティカにはそれで安堵する余裕もない。更に電気を放出しながら頭をめちゃくちゃに振って少女の身体を壁や床に打ち付ける。


 少しの間、狂乱した機獣の暴れる音が通路に響き、音が止んだ時には少女の姿をしていた植物は真っ黒な炭の欠片へと変わっていた。


『お二人がちゃんとあいつを敵とみなしてくれたおかげで助かりました。クリオさんも見習いましょう』


 ラタトスクに咎められたクリオだったが、あまりのことに頭が混乱して何も言えずにいた。とても攻撃する気になれない、可愛らしい少女の姿をした怪物。それがシヴァの必殺の一撃すらも耐えるほどの強さを持ち、恐らく木の根達と負けず劣らず人間を敵視しているのだろう。どう見てもあれは性的な誘惑であった。何の予備知識も無く出会っていたら、大半の男があれの餌食になるだろう。性的な誘惑に乗らなくても、親切心で近づき、やられる。男だけじゃない。女であってもこの罠にはなすすべもなくやられる。よりによって、なんというクリティカルな形状をしている植物なのか。


――あいつらも、一番効果的な姿を模索していたんだよ。人間を殺すために。


 嫌な言葉が、耳元から聞こえたような気がした。

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