第22話 ひび

 今度もリョウガは現場へ行かなかった。

 映画スタジオのときと同じで、ネット上にアップリケされた動画を介し、見ただけだった。

 いつもの日々を消化していた。朝、電車にのって仕事へ向かい、夜、電車にのって自宅へ戻る。

 駅からは歩いて帰路につく。

 途中、発光する交番のまえに立つ、警察官の様子を凝視していた。だが、やがて視線を外し、歩き出す。

 髪は伸び、真新しかった靴は靴底の消耗とともに疲弊していた。鼻をすすり、その拍子でちいさく咳込む。静かな町のなかでは、ちいさな咳も響いてきこえた。

 不意にスマートフォンが振動した。ヒメからの着信だった。

 いつもとは違う。音声のみの着信だった。

 違和感を覚えたが、音声のみなら顏を観られない、それはそれで助かる気持ちがあった。いまの顔は、あまり見られなくない。そのため、外灯の下で立ち止まり、着信ボタンを押すこともさほど迷わなかった。

『まだやるの?』

 ヒメは挨拶もなくそう訊ねてきた。

 襲撃めいたその言葉に、リョウガは反応しきれず間をあけてしまった。

 だが、やがて立て直す。

「うん、彼女をもっていかれると、おれには何もなくなるから」

 ヒメは数秒ほど挟んで問いかける。

『何がなるくなるの』

 落ち着いて、相手を壊さないように、優しく、静かに問う。

「いまをだよ」

 そう答えた。

 ふたたび間が生まれた。

「やっぱり、きみとはもう連絡ができない」

 ひとときの静寂を経て『なにそれ』ヒメが問い返す。

「おれの呪いが、きみへうつるといけない」

 リョウガはそう告げた。反応はなかった。

 映像はない。どんな表情をしているかはわからなかった。

 真横を車が一台通り過ぎた。行ってしまうと、闇夜に向けた視界の限り、動くものはなにもなくなかった。 

『別れ話みたい』

 ぽん、とそういった。

『人と別れたことある?』そう訊いて、すぐに思い出し『いや、ごめん』と、あやまった。

 迷った。それから考えた。「どうかな」けっきょく、答えを、いったん、ひどくひらけた場所へ逃がした。

 話せそうなことは幾らでもある。だが、なにひとつ総括されてない。まだどれも生乾きだった。体温すら感じる、呼吸もしている、まだ生きている、かたまった過去になってない、脆い。そして、その過去が未来を強く消費し続けている。それは未来を喰い尽くさんばかりにある。制御できていない。

 だからつまり、ちがう。本当は話せそうなことはなにもない。

 考え、隠している苛立ちが露わになる。抑えきれなくなる。

 なにも話せる準備ができていない。まったく足りていない。

『わたしはあるよ』ヒメがはっきりと言い切った。だが、またすぐに『ごめん、これもいらない話か』あやまった。

 リョウガは外灯の下に立っていた。横を妙齢の女性が通り過ぎゆく。

 ここにいれば通る人の邪魔になる。そう判断して、明りから身を外し、そのままゆっくりと闇夜のなかを歩き出す。

 何度も歩いた道は身体が憶えていて自動的に進んでくれる。

『ねえ、どう終わるの』

 ヒメは漠然と訊ねた。そして答えるまえに、さらに口を開く。

『どうしても、ダメかね?』

 また漠然と問う。

 迷ったが、答えた。

「ああ、さよならだ」

『ばかみたい』

「これが最後の会話になる」

『雰囲気だし過ぎ。あとから恥ずかしくなるだけだよ、そういうの』

「いまわかったんだ、おれはきみの声が好きだ」

『…………どうしたの、急に』

「最後だから。最後にしか言えないことを言った」

『だから、そういうって………そういうのって………あとから………効いてくるんだよ……内臓に』

「きみは命綱だった」

 数秒ほど間があいた。

『ごめん、わかんない』

 後半は消え去りそうな声になっていた。

「わるかった、勝手に命綱にしてた」

 立ち止まり謝る。

 必要な沈黙を経て。

「じゃあな」

 手からその綱を離すようにそう告げ、遮断ボタンを押す。

 それからスマートフォンを操作した。通話に使っていたアプリのアカウントを削除した。続けて通話用のアプリも削除した。

 そして暗闇にひとり立たされる。

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