エピローグ


 ケトルから湯が沸騰した音がして、暖炉の前で編み物をしながら寝てしまった沙羅は目を覚ました。

 病院へ行って、帰ってきたら疲れてうとうとしてしまったようだ。

キッチンへ行きティーカップにハーブティーを注いだ。

 辻村と共にフランスに来て2年目の冬。

 慣れない異国の地に最初は戸惑ったが、年に数か月は日本にも帰るのでどちらの国の良さも味わえた。

 

 キッチンの窓からは、広い庭が見渡せる。季節ごとに彩りを変える花たちで賑わう美しい庭だった。

 その中にあるガラスの温室で今は夫となった辻村が作業をしている。フランスでもペタルアトリエの支店は順調に増えている。

 

 二度目の結婚をしたのはつい最近で、しばらく事実婚のままだった。彼についてきて、沙羅の世界は広がった。

 忙しい時間の合間を縫って一緒に美しいものをたくさん見た。トスカーナの田園風景。フィレンツェのフレスコ画。ベネツィアのカナル・グランデ。


 あんなにも傷つき、前に進むのが怖かった日々も今はもう遠い昔のことのようだ。

 こんなに世界は美しいのに、見えもしない未来に怯えているのはもったいない。そう強く思うようになった。


 あまりにすごい光景を見すぎて、ばちが当たるような気すらした。

色々な感情をわかちあい、時には喧嘩もしながら、日々の幸せを享受している。


 トレイにお茶をのせて、日本とは種類の違う寒さにぶるりと震えながら、温室へと向かう。

 作業をしていた彼が沙羅に気づく。


「温かいお茶をどうぞ」

「ありがとう。ほら、見て。やっと咲いたよ」

「わぁ……なんてきれいなの」

 

 こちらに来てから新しい薔薇の品種改良をしていたが、それが今日初めて咲いたのだという。


花びらは深い紫色から淡い水色へとグラデーションを描き、まるで夕暮れ時の空のような絶妙な色だった。角度や光の加減によって、印象も変わる。薔薇の香りが温室の中にふんわり優しく広がる。

花びらにそっと触れると絹のような滑らかな手触りがした。


「一番に沙羅に見せられてよかった」

「本当に素敵。お店にも飾りましょう」

「いや、しばらくは沙羅だけに見せたい。それにこの薔薇の名前は沙羅に決めてほしい」

「私でいいの?」

「もちろん」


 この色合いを出すのに、どれだけ夫が苦労したか知っているだけに嬉しさもひとしおだ。それに、今日はもうひとつ喜ばしい報告があった。


「あのね……私たちにはもうひとつ考えないといけない名前があるの」

「なに?」

「新しい家族が増えることになったの」


 ガラス越しに降り注ぐ太陽の光を浴びながら、沙羅は新しい命を宿したお腹にそっと手を触れた。



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

Re:活 前略旦那様 私今から不倫します 香月律葉 @ritsuyokaduki

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ