過去と今

 仕事初日。すでに働いているオープニングスタッフたちより1か月遅れて、沙羅は働くことになった。

 辻村にとって、この店舗はいくつかある店の一つでしかなく、他にも仕事をたくさん抱えているから、最初に聞いたとおり、顔を出すことはあまりないようだった。


 昔のことを思い出してしまうから、顔を合わせないほうが気楽だった。


 ──本当に素敵なお店。


 店舗は複数あるが、ひとつひとつの店舗に個性を出して、街の一部になるようにしているのだという。

 辻村のしていることが、商売として簡単なことではないのは沙羅にもわかる。

 あちこちのイベントをアーティスティックに花で飾ることがメインで、フラワーショップは彼の事業の一部に過ぎない。

 最近では雑誌やTVの取材も増えたという。

 

 切り花を買う行為は大抵の人にとって非日常であって、毎日買うようなものではないからだ。

 だからこそ、その非日常を思う存分夢見る空間にしているのだろう。

 ガーデニングなどは日常の中にあるものだし、花に興味がないカフェだけくるお客さんも多い。要するに辻村は経営者として優秀なことが店を見ただけでもすぐにわかる。


カフェには小さなライブラリーがあり、ガーデニングの本やフラワーアレンジメントの専門書が並ぶ。客はここで一息つきながら、次に庭をどうするか楽しく悩むのだ。

 慣れた店員は客の相談にもうまく答えて、提案までするからリピーターも多い。

 植物には人を癒す力がある。効率的であろうとする現代人は、少し疲れすぎいているのだろう。


「あら、素敵。ここディスプレイもセンスがよくて、つい記念日でもないのに花を買っちゃうのよね」

「育児で疲れてくたくたの誕生日に、夫がここのお花を買ってきてくれたの。花なんてガラじゃないのに」


 お客さんの会話に、なんだかここで働けることが誇らしくなってしまう。

 力仕事も多く、きついこともあるが、店内は魔法をかけられたようにキラキラしている。この魔法の粉の正体を知りたい。自分にもできるようになりたい。


 ──ああ、そうだ。このお店には夢がある。だから何度も来たくなるんだ。


 庭で育てることができるハーブの苗なども販売しているし、ガーデニングが趣味のお客さんは頻繁に通ってくれるようだった。


 ひとしきり店内を回ったあと、併設のカフェで美味しいコーヒーやハーブティーを味わうこともできる。


店の隅には、季節の花を使用したアロマオイルや手作りのソープなど、全国から取り寄せた商品が並んでいる。好きな香りにはやはり癒されるものだ。

ペタルアトリエは日常から逃れることができる静かなオアシスのような場所だった。


 仕事を終え、スマートフォンでペタルアトリエのことを調べてみる。すでに口コミも多く、 やはり評判がいいようだった。

 すっかり雰囲気が気に入り、あのお店でできる限り頑張りたいと思えた。


[お疲れさま。仕事はどうでしたか? 泉さんに頼みたい仕事があります]


 辻村からのメッセージだった。前は沙羅と呼び捨てだったが、今は泉さんと呼ぶ。それは人妻となった沙羅への礼儀だろう。


[なんでしょう。私にできることなら]

[写真得意だったでしょ。だから店内の様子を写真に撮ってSNSに上げてほしい]

[でもそんなにうまく撮れる自信がありません]


 大学で写真サークルに入ったのは、仲のよい真帆がいたからで、技術も知識もない。


 サークルのOBだった辻村と沙羅は、学生時代に出会った。沙羅は単に好きなものを好きなように撮るだけの趣味だったが、辻村は沙羅の写真が面白いと言った。


 十数年前にした会話を思い出す。おそらく他の人にもしているのだろうが辻村は沙羅をよく褒めた。天然の人たらしとは彼のような人を言うのだろう。


『なんていうのかな。今ってカメラの性能もいいしさ、加工だって個人でも簡単にできちゃうでしょ。だからプロみたいな写真ってネットを見たらたくさんあるんだよ』

『普通のデジタルカメラでも十分きれいですしね』

『でもさ、沙羅の写真ってなんか重いんだよ』

『重い? それって褒めてるんですか?』


 沙羅が尋ねると、辻村はさも愉快そうに笑う。


『うん。誉めてるよ。なんか滲み出る個性があるんだよ。写真って実在の景色なりをそのまま写し取るだけなのに不思議だよな』


 辻村に言われると、自分の撮ったなんてことない写真にも少しは価値があるのだろうかと当時は思ったものだ。


[大丈夫だよ。気楽に撮って]

[不安だから念入りにチェックお願いします]

[撮れたらpcに送ってくれたら見るから]

「了解しました」


 今やSNSでの宣伝は企業のプロモーションで重要なものだ。沙羅の撮った写真でお店のイメージダウンになったりしたら責任重大だ。

 でも正直とてもわくわくした。あの素敵な店内を自分の感性で写真を撮り、広める。長い間感じたことのないやりがいとときめきがあった。


 真っ暗な迷路を一人彷徨うような日々に、新しく始めた仕事は、沙羅の心に小さな希望を芽吹かせた。 

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る