第45話 母と子

 老婦人はメルテムさんといった。トルコ語で海風という意味らしい。ふくよかで笑顔の優しい人だった。


 メルテムさんと住居に向かいながら、私は声を失った経緯とお金を盗まれたことを手短に話した。彼女は「大変だったわね、すごく困っているみたいだったから、声をかけてみてよかったわ」と微笑んだ。


 メルテムさんは小さなアパートの2階の部屋に1匹の年取ったヨークシャーテリアと住んでいた。植物が好きなのかベランダには多肉植物や薔薇、シクラメンなどの花のプランターが置かれている。


「今お風呂を沸かすから、それまで寛いでいてね」


 老婦人は私にタオルを渡し、リビングのエアコンをつけて部屋を出て行った。


 間もなく部屋が暖気を帯びた風で満たされていく。タオルで濡れた頭を拭いた。


 熱いシャワーを浴びたあと、沸かしてくれたお風呂に浸かる。全身が心地よい熱に包まれて、天国に来たかのような至福のときを味わう。


 壁のタイルを落ちていく水滴を眺め、現実に引き戻される。


 私は騙された。今まで味方だと何の疑いもなく思っていた相手に知らない国に置き去りにされた挙句リュックごと盗まれた。大切なものばかり入っていたというのに万が一のことを考えず、車に置いてきてしまった私も私だが。


 旅仲間に裏切られ一文なしになり、びしょ濡れで街を彷徨った私は正に道化だ。道化を地で行くなんてかえって潔いじゃないかと自分を奮い立たせようとしたが、無様な状況から無理に立ち直ろうとしていること自体が情けなくなって落ち込んだ。


 現実が受け入れられない。受け入れたらどうにかなってしまいそうだ。こんな残酷なやり方で最後の最後に私を傷つけるのならば、これまで家族のように一緒に過ごした日々と交わした会話の数々、彼から教えてもらった多くの技術は一体何だったのか。


 もしかしたら私は彼に父親に対するのと同じような愛着を感じていたのかもしれない。だからこそ彼の仕打ちにこれほどまでに激しく打ちのめされているのだ。


 暗い気持ちのまま風呂から上がり、用意されていた夕飯をご馳走になった。


 メルテムさんはよく喋る人だった。私に昨日の夕飯の残りだというサーモンと野菜のシチューを出している間も、自分の家族のことについてひっきりなしに喋り続けていた。だがそれがかえって有難かった。彼女は去年夫を亡くし一人暮らしなのだそうだ。娘は3人とも外国人と結婚し異国に行ってしまったという。


「一番末の娘はメキシコに嫁いだの。一番目の子どもは女の子で、3歳でね。あまり治安のいい国じゃないと聞いていたから心配だったんだけど……。でも何度か行ってみると印象が変わるわね。メキシコはいい国よ、特に娘が住んでる田舎町は平和で人も親切で。もちろんトルコもいい国だけどね。アイスクリームも美味しいし……あの伸びるやつとか。前に娘が帰省したとき孫と一緒にかれこれ違う味のを5回くらいは食べたわね。孫がアイスの食べ過ぎでお腹を壊さないか心配だったわ。それにしても、何でトルコのアイスってあんなにゴムみたいににゅ〜んって伸びるのかしらね?」


 しばらくの間メルテムさんはアイスクリームの話をしていた。確かにあの伸びるアイスに関してはどんな成分が入っているのか謎だ。


 温かい料理をスプーンで掬って口に運ぶうち、母親のシチューの味を懐かしく思い出した。


 母は料理は得意じゃないけれどシチューを作るのだけは得意だった。たまに焦がすし、オクラとかインゲンなど絶対スープと相性の悪いような野菜を入れたりするのが玉に瑕だったが。美味しいと褒められると母はすごく喜んだ。母が私にしてくれた数えきれないことを当たり前だと思い込んでいたけれど、今思えばもっと母に感謝を伝え沢山褒めてあげればよかった。いつも母は家事や自分の身の回りのことが上手くできない自分に苛立っているみたいだった。もっと私や父や周りの人が彼女の良い部分を認めてあげていたら、あんなに卑屈になることもなかったかもしれない。


 そのことを打ち明けたら、老婦人は目を細め頷いた。


「母親っていうのは自分の食べる分はどうでも、子どもたちには美味しいものを食べさせたい、幸せになってほしいと願ってるものなの。自分が家族にしていることに対して見返りが欲しいと思っているわけではないけれど、ありがとうとか美味しいとか、その言葉ひとつで全て報われる気がするのよ。愛する娘から褒めてもらえるのは特に嬉しいことね」


『今考えると、ママともっといろんなことを話しておけばよかったと思うの。お互いに本音でぶつかれればよかったって。ずっとモヤモヤしてて……だけど言えなかった。ママは私を産んで幸せだったのかとか、本当は後悔してるんじゃないかって』


「お母さんはそんなふうには思っていないはずよ。私も最初は未婚の母でね。子どもを産む前は仕事を辞めなければいけないことに悩んだり、将来のことお金のこといろんな心配ごとがあった。でも娘を産んで彼女を初めて抱いた時全ての迷いはどこかに消え去って、ただこの子を守らないとって思ったわ。母親っていうのはそういうものよ。あなたのお母さんだってきっと誰よりもあなたを大切に思ってるわ」


 ふと壁にかけられたカレンダーを見てハッとした。今日は1月23日ーー母の誕生日だ。目の前のことにかかりきりで忘れていたことが恥ずかしかった。


 母に電話でおめでとうと伝えたかった。今まで公衆電話から何度も話そうと試みたけれど、留守電につながりかからなかった。しかも幾度となく送った手紙の返事がないのを鑑みると、オーロラの手紙と一緒にピアジェに捨てられたようだし。またあの男に対する憎しみが再燃しそうになり奴の下卑た顔を頭から追い払う。


 だが電話をかけたところで私は喋れないのだ。心の中に伝えたい想いがひしめいているのに、伝えられないもどかしさが頂点に達した。パントマイムはこんなとき全く役に立たない。ルーファスと練習したスキットで演じた宇宙人みたいにテレパシーが使えたらよかった。


 私の代わりに母親に伝えて欲しい言葉をノートに書き、メルテムさんに渡した。イスラエルで怪我をしたこと、声が出なくなったこと、手持ちのお金がないことは言わないでほしいと伝えた。母に余計な心配をかけたくなかったからだ。


 受話器を取りブエノス・アイレスの自宅に電話をかける。


 呼び出し音が6回ほど鳴り、諦めかけたところで電話がつながった。数秒間の沈黙ののち、息を呑む音と『……アヴリル?』という懐かしい声が耳に流れ込んでくる。


『アヴリルなの?! 無事なのね!! 良かった……』


 母が泣き崩れる様子が受話器越しに伝わってきて胸が苦しくなる。一人でに涙が溢れ出す。まるで失くした言葉の分の涙が余計に流れ出ているかのように。


 母の声を久しぶりに聴いて切なさや懐かしさ、愛おしさ、心配をかけ続けたことへの後ろめたさといういろんな感情が一気に込み上げてきて胸が詰まった。


 例え声が出たとして、こんなに泣いていてはまともに言葉にならなかっただろう。


『あなたとケニーがいなくなって、警察も町の人も総出で探したの。スラムであなたのスマートフォンを拾ったっていうラウルって人が、警察に届けてくれたらしいわ。画面が割れて、故障してもう使えなくなっていたけれど……。


 そのラウルって人があなたのケニーが銃撃戦に巻き込まれて、それから行方が分からないって言ったらしくて……。毎晩眠れなくて、あなたたちが生きていることだけを神様に祈ってた。だけどあなたから手紙が来て安心したわ。酷い団長に捨てられたそうだけど……。


 ケニーから聞いたわ、あなたがサーカスを頑張ってることを。それと、イスラエルで皆とはぐれたことも。ケニーの仲間から連絡が来たのよ。


 ずっと留守電でごめんね。あなたから電話が来るときにかぎって出かけていたりして、出られなくて……。


 あなたがはぐれたと聞いて生きた心地がしなかったわ。だけど連絡が来て安心した。今どこにいるの? 風邪をひいてない? ご飯はちゃんと食べれてる?』


 母の声が震えていて余計に泣けた。沢山心配をかけたことが申し訳なくて苦しかった。母を散々苦しめたうえ、ありがとうもごめんねも自分の口から伝えられない私はやはり酷い親不孝者だ。


 私は涙を拭いながらメルテムさんに受話器を渡した。老婦人はゆっくりと頷いてそれを受け取り耳に当てた。


「もしもし。今あなたの娘さんは感激のあまり泣いていて話せる状態じゃないみたいだから、私が代わりにお伝えしますね。ちなみに私は怪しいものじゃございません、彼女を泊めているメルテムという年寄りです。


 今日はあなたの誕生日だから、娘さんはお祝いを伝えたかったみたい。それと、あなたに伝えたいことがあるみたいなの。ノートに書いてくれたから今から読みますね」


 メルテムさんはゆっくりと私の綴った想いの丈を読み上げた。


「ママ、誕生日おめでとう。


 色んなことがあったけど、生まれてから大人になるまでの間にママが私のためにしてくれたこと、今はすごく感謝してる。朝よく作ってくれた少し焦げたトーストも、甘い卵焼きも、マヨネーズがかかりすぎたかぼちゃと豆のサラダも、美味しいシチューも……今は何もかもが懐かしくて、出来ることならもう一度食べたいと思う。


 ママ、私はずっとママに聞けなかった。ママは私を産んで幸せだったのか、後悔してるんじゃないかって。せっかく必死に働いてお金をかけて入れてくれた大学も途中で辞めて、フラフラ生きて迷惑ばかりかけてた。本当にごめんね。


 ずっとママのお荷物なんじゃないかって思ってたの。ママは私を産まない方が良かったんじゃないかって……」


 老婦人はそこで一度言葉を区切り、私に受話器を差し出した。受け取り耳に当てる。母の声が再び意識の深いところへ流れ込んでくる。


『アヴリル、私はあなたを産まなきゃよかったなんて一度も思ったことはないわ』


 母がキッパリと言った。迷いのない声だった。


『あなたを産んだことは、私の人生で一番の幸せだった。アヴリルっていう名前も、大好きなアヴリル・ラヴィーンのような才能に溢れる子に育てばいいと思ってつけたの。あなたは勉強も嫌いで習い事もすぐ辞めてしまって、男の子と遊んでばかりでずっと心配してたんだけど……。本当に好きなものを見つけたと知って嬉しかった。


 公演を観に行く予定だったんだけど、ちょうどそのタイミングでお祖母ちゃんが階段から落ちて腰を怪我して入院してしまって、看病をしなくちゃならなくなって行けなかったのよ。本当にごめんなさい。


 アヴリル、あなたは私の希望よ。これまでも今もずっとね、好きなことを気が済むまで続けなさい。そして極めなさい、自分の道を』


 今まで私は母の私に対する気持ちを、勝手にこうに違いないと決めつけていた。思えば全然母の気持ちなんか分かっていなかった。母は想像以上に私を愛してくれていたし大切に思ってくれていたのに、私は自分が邪魔者なんだって決めつけてちゃんと向き合おうとしなかった。離れてみて母の温かさや有り難さが分かった。こうして話すと余計に分かる。どれほど母の想いが強かったか、そして今も私を遠くから応援してくれているのかということが。


『困ったことがあればいつでも連絡しなさい、あなたは優しすぎるところがあるから、助けを求められないんじゃないかって心配してたの』


 私は急いでノートに返事を書き綴って老婦人に渡した。メルテムさんはまたそれを読み上げた。


「ありがとう、ママ。私は元気にやってるから心配しないで。お祖母ちゃんにお大事にって伝えて。元気になったら公演を観に来てね。それじゃあ」


 メルテムさんがまた差し出した受話器を受け取り、母の声に耳を澄ませる。


『ありがとう、アヴィー。愛してるわ。絶対に無事に帰ってきなさい。じゃあ、またね』


 母の声を聴けたこと、本音を言い合えたことでしこりのように胸につっかえていた感情が綺麗に取り去られ、心地よく温かな感覚だけがある。もっと早く向き合えいたらーー。いや、後悔なんてしていても仕方ない。今このタイミングで話せたことがよかったのだ。今度は自分の言葉で、声で母にありがとうとおめでとうを伝えたい。


 案内されて入った客間のキャビネットには、オペラやクラシックのCDがぎっしり並んでいた。メルテムさんの趣味なのだろう。


 温かいベッドに横たわりながらケニーのことを考えた。今度はケニーに電話をかけよう。そしてシンディとのその後について問いただそう。


 そうしているうちに明日からどう生きていこうかという切実な不安が首をもたげ始めた。お金は一銭もない。タネルに何もかも盗られて一文なしで異国を彷徨う羽目になるなんて思ってもみなかった。こんなことになるなら老婦人伝てに母にお金を送ってほしいと頼めばよかった。理由なんて言わなくたって、お金に困っていると知れば母は送金してくれたに違いない。でも母の声を聴いたら、これ以上迷惑をかけるのが申し訳なくなってしまって伝えられなかった。


 こうなったら自分の手で少しずつでもお金を稼ぐしかない。ジャグリングの道具がないためまだ未完成の下手くそなパントマイムくらいしかできないけれど、やるしかない。今の私にはその道しかーー道化として生きていく道しかないのだから。

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