妻に読む三国志

胡姫

妻に読む三国志

あなたに秘密があるように私にも秘密があります。そう言って妻は私と祝言を上げた。すべてを見通すような不思議な目をした女性の名は黄月英といった。


とても小柄で知的な女性だった。二人で住み始めた草蘆で私たちは夜通し語り合った。畑のこと、工作機械のこと、天下万民のことに至るまで、彼女は森羅万象に精通し、あふれる知識を披露して私を驚かせた。夜になるのが待ち遠しいくらいだった。


「あなたの書いた物語、とても面白かったですわ」


ある夜、月英は知的な瞳を輝かせて言った。


「三顧の礼。天下三分の計。わくわくしました。あなたのお話は夢と奇想にあふれていて好きです」


「読んだのですか」


「お友達の士元さんに見せてもらいましたの。夢中になってしまいました」


「あいつめ」


水鏡塾時代、私はある物語を書いていた。私が蜀の皇帝、劉備玄徳どのの軍師として活躍する物語だ。実は劉備どのには少年の頃一度だけ会ったことがある。徐州にいた頃、焼き討ちに遭った村で危ういところを助けてもらった。その日からずっと私は彼を想っている。ずっと彼のための物語を書いている。誰にも見せることのない、墓まで持って行く、私だけの秘密。


この物語は劉備殿への恋文だ。


「ぜひ続きを書いて下さい。気になって眠れないわ」


月英に続きをせがまれ、私は恋文の続きを書き始めた。彼女は私のただ一人の読者だった。彼女が読んでくれることが私の喜び。私は物語を紡ぎ続けた。




「それは夢だ。孔明」


一人の男が私の前に立った。戸口に彼の影が長く差した。まるで黄泉から来た使者のように。


「月英は死んだ。もう書かなくていい」


夜明けの光を背に、男は私を見下ろした。姉の親戚で、旧知の友である龐統だった。


龐統は冥婚の期間が終わったことを告げに来たのだった。


黄家の娘、黄月英は、新婚時に既に死亡していた。これが彼女の秘密だった。私は亡霊と夜通し語り合っていたのである。


私は自分の書いた三国志という物語の登場人物になり切っていた。願望の産んだ長編小説。この私、諸葛孔明が劉備殿の天才的な軍師として縦横無尽に活躍する夢物語。物語の中で私は生きていた。冥婚の相手である妻と私は、物語を読む夜の間だけは本当に夫婦だった。


「お前はもうここから出なくては」


龐統は草蘆に火をつけた。


全てが跡形もなくなるまで私はじっと見守っていた。三顧の礼、天下三分の計、東南の風、荊州争奪戦、成都攻め、私の書いた物語が灰になっていった。龐統は私の物語を読んだだろうか。落鳳坡で自分が死んだ場面も見ただろうか。肝の太い彼は気にしないだろうが。


私は龐統を見た。劉備殿の軍師となった彼は、堂々たる蜀の丞相となっていた。


三国志という壮大な世界。それすらも夢だった。

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