第1章 空想少女4 忌まわしい記憶1

 もう日が暮れたというのに、彼女は一人でパジャマ姿のまま人気のない散歩コースを車椅子で移動している。人気のない展望デッキに来たところで、彼女は車椅子を止め、手すりのすぐそばまで来るとよろよろと立ち上がり、うつろな目で眼下に広がる暗闇を見つめた。海からの風が吹くと、彼女のパジャマの裾がひらひらと揺れた。急に、デッキが明るくなったり暗くなったりし始めた。彼女が驚いて振り返ると、元々頼りなかった外灯が、チカチカと点滅し始めていた。途端に少女はブルブルと震え始め、辺りを見回した。


「はあ、はあ」と呼吸が乱れ、完全に怯えきった様子で、手すりに足をかけた。

 早く! 早く逃げなければ。あいつが来る!


 彼女は錯乱状態に陥いり、逃げるためにデッキの外側の空に向って一歩踏み出した。と、いきなり誰かに後ろから腕を捕まれた。

 捕まった! 振り返ると、頭からフードを被った誰かが立っていた。


 あいつだ! 殺される! 驚きのあまりバランスを崩して落下しそうになった彼女だったが、力強く影の方に引き寄せられた。しかし彼女は完全に錯乱し、悲鳴を上げながら相手の手を振りほどこうと、もの凄い力でその場で暴れた。それは哀しいくらい強い力で、彼女が正常ではないことを示していた。「大丈夫だ」と影はいった。男の声だ。それから「落ち着いて」と静かに彼女を抱きしめた。


 彼女が見上げると、風が吹いてフードが膨らみ一瞬顔が見えた。瞳は吸い込まれそうなほど美しく、邪悪な光はどこにもない。長い間何も映さなかった彼女の瞳にも、ハッキリと男の顔が映り、落ち着きを取り戻し、呼吸も穏やかになった。


「何もいないから、安心して。怖くないから」

 彼女は安心して、黙って小さく頷いた。

「ここは危ない。戻ろう。おいで」

 男がそういうと彼女は大人しく手すりを離した。もとの場所に戻ると彼女はまだ不安なのか、辺りを見回した。

「何もいない。さあ、戻った方がいい」


 男は車椅子の手すりを持って彼女の方へ向けると、彼女は黙って車椅子に座った。すると遠くから彼女の名前を呼ぶ女性の声が聞こえた。母親はデッキの下まで来ると、外灯がチカチカしているのを見て心臓が止まるほど驚き慌てて走ってきたのだ。何しろ娘は明かりの点滅を異常なほど怖がる。デッキの上にいる娘の姿を見つけると、母親は必至で駆け寄った。


遠子とおこ! よかった無事で」

 母親はそばまで来ると、姫野ひめの遠子とおこの頭を抱きしめ大きく息を吐いた。自殺でも図ったのではないかと心配して大慌てで探していたのだ。

「どうしたの? こんなところで」


 母親が姫野の顔を覗き込んで聞いた。姫野は外灯を指差すと母親にしがみついてきた。母親はチラッと外灯を振り返ったが、すぐ姫野の方に向き直った。


「大丈夫よ、電球が切れかかっているだけだから。怖かったね? 大丈夫よ。何でもないのよ」


 姫野は非常に落ち着いていて黙って頷いている。いつもならもっと取り乱して暴れるのに、今日は穏やかだ。一人でいたならなおさら怖がって一層暴れているはずである。母親は不思議に思った。


「遠子、今日は随分落ち着いているわね。随分平気になったのかしら?」

「……誰かいた」姫野はうつろな表情で呟いた。

「え? 遠子! 話せるようになったの? 遠子!」


 母親は驚いてまた姫野の顔を覗き込んだ。悲鳴と喚き声以外の、久し振りに聞く娘の話し声だった。嬉しさの余り涙が込み上げてきた。


「誰がいたの?」

「男の人」

 姫野はまた、ポツリと答えた。

「男の人?」

 母親は辺りを見回した。月明かりでかなり遠くまで見渡せたが周りには誰もいなかった。

「誰もいないわよ」


 母親がそういっても姫野は小さく首を左右に振った。これも久し振りに見る明確な意思表示だった。


「その人がどうしたの?」

「助けてくれた」姫野は小さな声で答えた。

「助けてくれた? 良かったねぇ。助けてくれた人がいたんだねえ。みんな助けてくれるから大丈夫よ。誰かしらね? 御礼をいわなくちゃね」


 幻覚を見ているのか、本当に誰かいたのか判別が尽きかねたが、普通の声を聞けただけでも母親は十分嬉しかった。


「ここにいたなら、病院の人かも知れないから、病棟に戻ったら会えるかも知れないわ。先生に聞いてみましょう。戻ろうか」

 母親は姫野の車椅子をゆっくり押してデッキの緩やかな傾斜を下り始めた。

 一体誰が娘を助けてくれたのだろう。しかも娘が他人に心を開くなんて。先生に報告しなければ。

 母親は車椅子を押しながらそう考えていた。何しろ、どんな些細なことでも報告してほしいと、病院側からは言われているのだから。

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