第38話 寄生するものと、されるものの関係





 二階ロビーの窓辺に張り付いたまま、十朗は身動きをとることができなかった。

 流れ続ける人の流れは途切れない。無尽蔵かと思われるほどに、ホール一階に吸い込まれていく。それはつまり、ホールの中に観客が次々と収容されているということを意味しているのだ。開演は間近。それは、本当に現実なのだ。


「あれ、十朗君?」


 ふと、窓ガラスの、自分の背後と思しき場所に、自分と同じ顔が映っていることに気付く。ゆっくりと振り返る。


「宮川、あんた」

「こんなところで何してるのさ?」


 十朗は、眉間に皺を寄せた。


「巡理はどうしたんだ。あんた、巡理と一緒にいたんじゃないのか?」

「ああ、さっきまでね。今はもう観客席側にいるんじゃないかな?」

「なに?」

「あー、もしかしたらまだ舞台袖にいるかも知れない。自分が本当は演奏側じゃなくって、観客側なんだって、まだ気付いてないかも知れないから」


 宮川は十朗の隣までくると、眼下を見下ろした。


「もう、ホールの中もほぼ満杯になってるよ。早くしないと、本当に開演になっちゃうな」


 宮川は、楽しげだ。「ねぇ、人の頭がうぞうぞ動いてるところを上から見下ろすって、本当にヘンな感じだよねぇ」と、暢気なことこの上ない発言をする。


「巡理を一人でおいてきたのか?」

「ん? うん。彼女だって子どもじゃないんだからさ、大丈夫だよ。それに、全くの一人ってわけでもないんだから」

「どういう意味だ」

「今頃は、彼が傍についてるはずだよ」

「彼?」

「あの、黒いマントの男前の白人の彼」


 十朗は一気に宮川から2mほども離れた。


「すごい。そんなに反射神経と運動神経良かったんだ、君」


 宮川は、喉の奥をくつくつと震わせて笑った。


「黒いマントって……」

「十朗君。君、知らなかったの? 巡理ちゃんには、ずうっとツバメ君が見えてたんだってこと」

「どうして、あんたが〈アゲハ〉のツバメのことを知ってるんだ!」


 宮川は「うーんと」と唸ってから、あっけらかんと肩をすくめて笑って見せた。


「それはやっぱり、僕にも見えてるからかな」

「おかしいだろ!?」


 ついにたまりかねた十朗が叫んだ。


「なんであんたに見えてんだよ! いや、そんなことより、なんで巡理にも見えてるんだ!? 〈姿、『!?」


 宮川 澄は、静かに――笑っていた。

 はじめて会った時のように、人懐っこそうに口許を笑ませて、何とはなしに犬を連想させるような顔で笑っていた。

 だから、あの瞬間のことを今更に思い出し、今更にその祖語に気付いた。

 あの時、巡理が宮川に対して名乗った時、こいつはなんと言っていた?



――仁名よしなです。私の名前は長くはないので、略していただかなくても結構ですから。


――僕の名前も短いですから、略する必要はないですよ、巡理さん。僕のことは、澄くんなり、澄ちゃんなり、好きなように呼んでくださいね。



 あの時、自分はどう考えていた? 胸中穏やかでなかったはずだ。仁名と苗字で名乗った巡理を、宮川は「巡理さん」と名で呼んだのだ。



 



 メンバーは、次々と舞台に出て行く。拍手が観客席から沸きあがる。開演が間近に迫っていることが肌で感じられる。どんどんと、メンバーは着席していく。


「――さあ、〈イーシァン〉の仁名 巡理。見てみなよ。あそこに、君が罪悪感情の開示を拒んだ荻窪嬢もいるよ」


 愕然とした巡理の隣に、いつの間に寄り添っていたのか、ツバメが、巡理の左耳元で小さくささやいた。そっと、右肩にツバメの手が添えられる。すっと冷える。肩を抱かれて、その方向を指し示された。

 ツバメが左手の指差す先に、ピッコロを構えた荻窪がいた。


「どうせなんだから覚えておきなよ。彼女はね、ステルのストーキングをしていたんだ。といっても、恋愛的な意味じゃないよ。仕事でだ。彼女の本職は新聞記者。どちらかと言えばゴシップ専門」


 荻窪の眼差しは静かだ。定位置の椅子に座り、静かに観客席を見つめている。


「ステルは、もともとは音楽業界にいた。クラシックだけじゃない。ロックもジャズも含めた現代音楽のアーティストだった。それがある日突然、表舞台から姿を消した。突然の引退宣言だったんだけど、荻窪だけが最後の彼女の姿に疑問を持った。ってね。その記者の目は正しかった。ステルはもうステージに立てる身体じゃなかった。折角の最後のステージすら、自分に酷似した人間に代役を頼むほどに壊れていた。わかるだろう? その代役が誰だったのか」


 巡理はこくりと息をのむ。


「宮川 澄の――妹」


 ツバメは静かに、大きく肯く。


「そうだ。そうして、ステルは表舞台から完全に姿を消した。だけど荻窪は諦めなかった。あの代役事件がステルの後を荻窪に追わせた。追って、追って、追い続けて、結果、ステルが姿を消した理由を知った。彼女は、ステルの容態が急変して隔離されていた処置室にまでもぐりこんだ。追いすぎたんだよ」

「追いすぎた……?」

「そう。生死の境にいる、完全除菌で隔離された部屋に、彼女はありふれてはいるけれど、決してその時のステルに近づけてはならない菌を持ち込んだ。結果、ステルは本当に死に掛けた。そして荻窪は見たんだ。醜く膨れ上がり、どう見ても肉体の腐りかけた、変わり果てたステルの姿をね。彼女はステルを殺しかけた」

「――そんな」


 絶句する巡理に、ツバメは溜息を吐く。


「そんなって、薄々はわかってたんじゃないのかい? だから荻窪の話を聞こうとしなかったんだよ、君は」

「私は……」

「――いずれにせよ、事が発覚し、荻窪は軟禁された。ここまで事情を知った以上、全てを話して内側に引き込むしかないと、関係者は判断したようだね。そして、荻窪は全てを知った。それが、強い強いはずの新聞記者に、恐怖と、計り知れない罪悪感情を引き起こした。――そして、彼女が支払った代償は、二度と記事が書けないということ」


 すっと、右肩から手が離れる。ツバメが、ふいと後ろを見やる。


「ねぇ、佐久間 洋平?」


 はっと息を飲んで巡理が振り返る。隣でツバメが酷薄な微笑みを浮かべている。

彼の視線の先には、佐久間がいた。

 チェロを抱えた、幾分地味な印象の男は、いつもの通り、きっちりと黒髪を整髪料でなでつけていた。普段と違うのは、そのがっしりとした体格を、スワローテイルで包んでいること。

 その隣では、ベースを持った男が、無邪気と言っても差し支えない表情で佐久間に何かを話しかけ続けている。脱色され、細かなパーマを当てた髪形。鋭い目付き。負けん気が強そうな唇。

 しかし、そんな彼の声が届いているのかいないのか、悲しげな、それでいてどこか儚い幸福を必死で護ろうとしているかのような眼差しをした佐久間は、ただじっと、ツバメを、そして巡理のほうを見ていた。

 巡理は背中に冷たいものが走るのを感じながらツバメを睨み付けた。


「どういうこと? 佐久間さんにもあんたが見えてるの?」


 ツバメは、にこやかに微笑みながら佐久間に手を振った。佐久間も軽く会釈をして、そのまま楽と共に先へと向かっていった。そう、舞台の中央へと。


「〈アゲハ〉のツバメ! 答えなさいよ!」


 ツバメは佐久間たちを見送りながら、小さく溜息を吐いた。


「佐久間 洋平は、弱かったんだよ。弱くて寂しくて哀しすぎたから、こんなところに坂井 楽を引っ張り込むことになってしまったんだ。嘘ついてゴメンね、仁名 巡理。佐久間 洋平も、僕が仕事をした被告だったんだ。もう終わってはいるんだけどさ」


 ツバメは腕組みしながら、舞台へと出て行った佐久間と楽を見つめる。


「坂井 楽はさ、殺されたんだ。音楽業界がらみの事件で」

「――……。」

「佐久間 洋平は、長年一緒に音楽をやってきた坂井 楽の死を受け入れられない。同郷の友で、同じ夢を追って、ずっと一緒にやってきた。そんな彼を死なせてしまった、失ってしまった、そんな全ての事実を受け入れられなくて、坂井 楽と共に音楽を続けている夢を見ている」

「――じゃあ、楽さんは」

「そんな〈ドリフター〉ははじめからいないよ。ここにいたのは、坂井 楽って男と一緒に音楽をやり続けている夢を見たかった、佐久間 洋平っていう哀れで矮小な魂だけだ」


 ツバメが、巡理の両肩に手をかける。


「ああ、仁名 巡理がいつも言っていたのはこうだっけ? 彼らは仮想世界という、哀れで矮小な模倣プログラムエミュレーターを作り出すって」


 正面から向き合い、二人は視線を外せない。


「佐久間 洋平の心は壊れている。こんな穏やかな顔をしながら、徹底的に壊れている。佐久間 洋平はステルを手元に引き取って、過去のあらゆる喪失の身代わりにして支配しつくした。文字通り、心も身体もね。だけど、その隙間にかすかにあった罪悪感は、常人に比べれば破壊的な深さだった。気付いたのは、手元からステルが離れた後だ。――佐久間 洋平に相応しいのは、過去の徹底的な破壊のみ。だから……」

「――……まさか」


 ツバメは、凍りついた表情で、その事実を差し出した。


「だから、佐久間 洋平への罰として、坂井 楽は命を落としたのさ」


 巡理は、こくりと喉を鳴らした。


「そして佐久間 洋平は、結局あらゆるものを失って、つい一月ほど前に独り静かに死んだよ。脳溢血だ。まだ四十代前半だったのにね」

「――ねぇ、前から聞いてみたかったんだけど、その刑はあんたが決めているの?」


 ツバメの眼差しは、静かで、どこか淋しげだった。


「いや。僕は罰の形なんか決めない。量刑を計るだけだよ。罰の形は当人が決めているんだ。被告自身によって完結するんだよ」


 ツバメの手が、巡理の肩から離れた。



「――ねぇ、仁名 巡理。 。オレはもう君に罰を与えた。君の罰は、もうとっくに終わっているのに、どうしていつまでも僕を見るの?」



 巡理の脳裏に、茫洋としていた全ての記憶が蘇えった。


 あの日。

 かつて、、螢が持ってきた資料を見て仁統は昏倒した。それは、の資料だった。

 仁統は知ったのだ。自分が何を踏み台にし、誰を拒絶し、今どういった状態にあるのか、その全てを。

 驚愕に全身が粟立ち、冷たい汗と体内の異常な熱に混乱を来たした仁統の目の前に、突如訪れたこのアゲハの死神は、静かにこう言った。



「――黄色人種のクセをして、白人よりも白い皮膚だ。その、作り物の皮膚に包まれた身体が、一体誰を食い物にしてできているのか、君は今まで知らずにきた。――さぁ、知った今、君はどうする?」



 仁統は崩れた。そのあまりの罪悪感と、それを上回る強烈な共感によって、自分が仁統であることを手放した。仁統の肉体も、仁統のままで存在してきた事実ですら。

 仁統をそこまで追いつめたその資料は、巡理が、最後の仕事として螢に渡された〈ドリフター〉の資料と同じものだった。


 そう。仁統はその〈ドリフター〉を受け入れたのだ。

 受け入れて、ひとつのものとなり、巡理となったのだ。

 その記憶を失ったまま。


 巡理は、自分の肩を抱いて、小さく崩れ落ちる。

 なぜ、ふたつは酷似するのか。

 決まっている。

 それは、寄生するものと、されるものの関係だからだ。






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