第28話 〈カマー〉と〈ドリフター〉の違い
中央館の三階、コンピュータールームに続く階段を登るたびに、十朗は巡理から遠く切り離されていく自分を感じずにはいられなかった。
今日、朝から巡理の姿が見当たらず、子どものように慌てた。彼女が部屋にいないことに気付いたのは朝食前のこと。食堂にも姿がなく、練習棟にも姿がなく、ホールにも姿がなく、建物の周辺も回ってみたが、やはりどこにも姿が見当たらなかった。
そして、通常練習を終えた十朗は再び中央館にきた。時刻はすでに夕刻。もしかしたら巡理は、コンピュータールームの奥の収録室で何か微調整でもしているのかも知れないと考えたのだ。しかし、階段を登りながら、そこに恐らく巡理はいないだろうことを、十朗は悟っていた。
ぎぃ、とコンピュータールームの扉を押し開く。
窓際に、華奢な影が立ち尽くしている。
明るすぎる陽光の逆行で、墨の色に染まった背中に目を細める。そして、間もなくそれが探していた巡理の背中ではなく、ステルの背中だと悟る。いつここへきても、室内にいるのは、やはりステル一人きりだ。
「どうしたんですか?」
「え」
突然のステルの問いに、十朗は呆けた。何を問われているのか計りかねたからだ。
「まるで、迷子になった子どものような顔をしているから」
かっと十朗の頬が熱くなった。それほどまでに顔に出ていたかと。そしてそれを見破られたことに赤面した。半ばやけくそな気分で十朗は開き直ると、「巡理の姿が見当たらないので」と白状した。
「そうですか……。彼女の単独行動は、相変わらず活発なようですね」
「あなたも、相変わらず煙草を手にしている」
「相変わらず? ですか? ここ以外では吸っていないはずなんですが」
「だから、俺がここで見るあなたは、いつも喫煙姿だ」
ステルは無言のまま笑うと、見慣れた仕草で煙草を燻らせた。十朗は諦めていつもの席に腰を降ろした。どう見ても明らかに、自分の立場の方が弱い。
のんびりと紫煙を窓の外に吐き出す、何一つとして動じていないステルの様子を見ながら、十朗は、このコンピュータールームに自分が存在することに慣れつつあった。いや、正確には、ステルと二人きりで過ごす時間と空間に慣れつつあった。
「高海沢君」
「はい?」
「――以前、わたしが宮川君のことを、特別だと言ったことをおぼえていますか?」
ふと投げかけられた問いに、十朗は首を縦に振った。
「ええ。ずっと気になっていました。結局、あれはどういう意味なんですか?」
紫煙が、燻る。
「簡単に言えば、彼は、世界にありのままで受け入れられている唯一の人間だ、ということですよ」
「せかいに?」
「ふふふふふ」
ステルは、はっきりと声に聞こえそうな発音で笑った。十朗の背筋を、ぞっと冷たいものが走る。
「どういう意味だ? 世界に受け入れられている?」
「ねぇ、十朗」
ちりん、と心の隅でガムランボールが揺れる。
「――あなた、〈カマー〉と〈ドリフター〉の違いを本当に理解していますか?」
「ひっ」
十朗は無様にも床に崩れ落ちた。
視界が真っ赤にそまる。
知っている。この女は、〈カマー〉と〈ドリフター〉のことを知っている!!
「あんた……一体何者なんだ?」
「さぁ。わたしは、本当は一体だれなんでしょうね?」
ステルは静かに微笑んでいる。
ふぅと吐き出される紫煙。中空の煙と共にただようステルの視線。
朱と橙に染まるコンピュータールーム。十朗は、うっかりと思考の外に追いやられていたその事実に今更気付き、愕然とした。この目の前にいる女も、〈ドリフター〉の一人のはずなのだ。この世界の中に突然現れる仮想世界と、それを引き連れてくる〈ドリフター〉。しかし、〈ドリフター〉の存在と、その意味を知っている〈ドリフター〉など、この世界に存在し続けられたことなどない。一度たりとてないのだ。
「哀れな子。あなたも、それから彼女も」
十朗の混乱は頂点に達した。
世界を受け入れ、受け入れられ、世界の一部として定着していった〈カマー〉たち。
世界に逃げ込み、世界の中に無作法な領域を広げ、世界を歪めたため排除されつづけている〈ドリフター〉たち。
十朗たちの理解は、そういったものだった。しかし、この女は、その根本理解を覆そうとしている。十朗は自分の額に右手をやり、無意識のうちに頭を横に振っていた。
「教えてあげましょう、十朗。〈ドリフター〉は、神の世界に侵入してくる。だけど、神は〈ドリフター〉を排除しようとはしない」
「なに?」
「〈ドリフター〉を排除しようとしているのは、ただあなた達だけなんですよ。神は〈カマー〉を受け入れる。と同時に、神は〈ドリフター〉を受け入れる宿命を持っている。自分の世界を豊かにするために。それは〈カマー〉のためでもあるから」
「〈カマー〉のために?」
「そう。そしてやがて、〈カマー〉はその中からただひとりの〈ドリフター〉を選ぶことになる」
「〈カマー〉が? 〈ドリフター〉を選ぶ?」
「そうです」
ステルは肯いた。その顔にはなんら表情と呼べるものが浮かんでいない。
「やがて、〈カマー〉は〈ドリフター〉を選ぶことになる。自分に最も適した〈ドリフター〉を。そして選ばれた〈ドリフター〉と〈カマー〉は一つのものとなり、自然と神の世界から出てゆくの。あなた達が何もしなくともね」
十朗は、混乱した頭を右手で掴む。掴みながら、必死で今聞いている話を一つひとつ整理してゆく。
「――もし、それが本当の話なら、〈ドリフター〉と〈カマー〉はどうやって一つになるんだ? どうやって〈カマー〉は〈ドリフター〉を選ぶ?」
「それは、まだ人智の及ばない領域のことですよ。わたしにもわかりません。ただ、〈カマー〉が〈ドリフター〉に対して多少なりとも何か違うと感じてしまったら、それはその〈ドリフター〉とその〈カマー〉が適合しなかった、〈カマー〉がその〈ドリフター〉を受け入れなかった、という話になる。受け入れれば適合したということ。そのまま〈ドリフター〉は〈カマー〉の中に棲み付き、時が満ちれば〈カマー〉と一体化し、神の中から排除される。ただそれだけのこと」
ステルは、興味もなさそうな、当たり前のような顔で、ふっと紫煙を吐き出した。
「前に話したでしょう。人の心や魂と呼ばれるものがどうやって、何から出来上がっているのかと。その答えがこれですよ。〈カマー〉という転生した魂があり、〈ドリフター〉という、母体が最も影響を受けた精神があり、この二つが一つとなって、新たなスピリッツが誕生する。簡単で単純な話です」
十朗の手がふるえた。
……これは、この話が本当ならば、
今まで自分たちがしてきたことは、
自分たちが、神と世界の秩序を護ろうとしてしてきたことは、
そして、自分たちが存在するこの世界とは、
なによりも、自分たちという存在そのものが、
新たな精神の誕生を、殺してきたということになる。
愕然とした十朗の前で、ステルは前髪を掻き揚げる。
「あなたたちは、〈ドリフター〉と、あなたたちがいう仮想世界というものを排除し、その全容を音楽という形に置き換えてデータ化することで、仕事の処理をつけているのでしょう?」
だめだ。この女には全てを見通されている。この女は全てを知っているのだ。悟った十朗は、その瞬間に開き直った。
知られているのならば仕方がない。それでも、仕事を完遂することが自分の役割で責務なのだ。
「そうです」
「じゃあ、あなたたちの存在も、音源化することは可能ということでしょう?」
「不可能ではありません。まだ実践はしていないけれど。それをするのは、完全に組織を脱退する場合になる」
「……その意図は?」
「組織の残留者にとってのマニュアルとして。完成した仕事の方法をとれた者のデータを残すのは、必要最低限の業務だから。あとは」
「――脱退後、その人間が組織に刃を翻さないよう、または翻した場合に迅速な処分を下すため、でしょう」
「そうです」
「そして、その音源化の基礎理論を作り上げたのは、巡理でしょう」
「はい」
ステルは、ふっと、小さく笑った。
「実際にやってみたら、おもしろいことになるのに。――巡理の音楽は、ショスタコーヴィチの第五の仕様そのままになるから」
「どういう、ことだ」
「だって、わたしがこの音声式データベース言語の基礎仕様で、そうなるように設定したのだもの」
すっと、鋭いステルの眼差しが、十朗の視線を射抜いた。
「彼女が基礎理論を構築した? その思考のベースになっているのが誰だと思っているのかしら?」
くつくつと、押し殺した笑いが、やがて大きな甲高い笑いへと変わっていった。
そして、ぴたり、とその笑いがやんだ。
揺らがぬ、刃のような眼差し。
「わたしが組み上げたのよ。全てそうなるように。なぜなら、わたしが、この世界の神なのだから」
完全に肩から力の抜けた十朗の方へと、ステルはゆっくりと近づいてきた。ゆらり、ゆらりと、動く腕と指先にあわせて、紫煙が舞う。空に白いものを描く。
「ねぇ、十朗。どうして、こんなに現実はうまくかみ合わないのかしら。本当は、もっとシンプルに、もっと幸せであるはずだったのに。どこか哀しいけれど、でも、はじめからわたしたちは、ずっと隣に寄り添えるはずだったのに」
射抜かれたまま、視線は外せない。しかし、その鋭さに怖さはない。ただそこに見て取れたのは、静かな、そして強い、深い哀しみだった。
「ねぇ」
すっと、鋭い、巡理よりも鋭いステルの右目から、静かに、すうっと、涙が、
「ねぇ、お願いだから」
「……あたしを、好きになって」
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