第26話 宮川 澄の記録
バッハの無伴奏チェロに感動して、両手をばたばたさせていた四歳の僕を見て、「チェロを習わせてみたらどうか」と両親に持ちかけたのは、父方の叔母にあたる
でもはっきり言って、そんな子どものころの記憶なんか、僕には残っていない。
ただ、物心つく前から、僕は透先生にチェロを(本当にお金持ちの家庭でもなんでもなかったのでびっくりするぐらいの格安で)習っていたし、親父とキャッチ・ボールをするよりも、友達と遊ぶ時間よりも僕はチェロの傍らにいたし、それが決して苦ではなかったから、きっと理屈より何より、僕はチェロが好きだったんだろうと思う。
僕の『澄』という名前は、透先生から音を、親父から『澄朋』の一字をもらってつけたものだと、以前母さんが言っていた。透先生は結婚したあとも子どもに恵まれなかったので、僕は実の子どものように可愛がられながら、死ぬほど厳しくチェロを仕込まれた。小さかった僕が不眠症になるほど精神的に追いつめてくれたのは、間違いなく彼女だった。――いや、僕の腱鞘炎と肩凝りの持病化の原因となったのも透先生なのだから、僕という人間に対して全面的に責任と原因があるのは、明らかに透先生なんだと思う。
思春期のころ。僕にとって、音楽というものは、それそのものが独立した存在なんだと、信じて疑わなかった。
「音楽だけしか、大事にできないから」
その一言を免罪符に、中学生のころから女の子たちを何人も振ってきた。時に彼女達に「変態なんじゃないの!?」なんて罵倒されたりもした。平気で、少しだけ困ったような顔をして見せていたけれど、本当の僕は、やっぱり傷付いていたんだ。
「音楽だけしか、できないから」
そう。僕はそう言いつづけてきた。だけど、そんなのは欺瞞だった。その幻想は、高校三年の時に、もろくも崩れさった。
(――――「あたしは、知ってたよ」)
あのころ、僕らはお互いの中にある
愛情が、生きる糧だった。
やわらかな菊音の微笑み。やわらかな菊音の髪。
何もかもが、幸せな日々だった。
あまやかな秘密の、いつかは実を結ぶ秘密の、幸せな日々。
太陽の下で、いつか必ず全ての人に祝福されるんだと。
誰よりも幸福な日々が訪れるんだと。
――――あのころの僕は、信じて疑わなかったんだ。
菊音は、僕の妹だ。ただし、実の妹ではない。彼女が僕の家に来た日のことを、まるで昨日のことのように鮮明に思い出すことができる。
†
そこで、突然映像が途切れた。あまりの唐突さに巡理はとまどった。
「螢? どうしたの?」
映像は途切れたままだ。何も壁には映し出されていない。ただ〈巡理〉と、螢の声だけが届いた。
〈ここまでで、もう十分でしょう?〉
「どういうこと?」
〈あとは、彼を見ていればわかる。そして、やがて彼が語ってくれる。彼が語らなくても、いずれ全てが明らかになる〉
「螢!」
〈私があなたに見せられるのはここまで。いえ、私があなたと関われるのが、ここまでなんですよ〉
その瞬間。
ふわりと。
一片の雪が巡理の視界の隅で舞い落ちた。
言葉を失い、巡理が空を仰ぐ。一片にすぎないけれど、今確かに雪が舞い落ちたのだ。
ついに。雪が、落ちたのだ。
「――時間切れということね」
〈ええ〉
螢は、わずかながら、寂しげな色を声に混ぜた。
巡理は、じっと螢が映りこんでいた辺りの壁を見つめた。
この仕事をはじめてから四年。それはつまり、巡理が螢と出会ってから四年という意味だ。
螢と出会うまで、他人と協力しあうという行為の意味を理解することすら出来ずにきた巡理にとって、螢という存在は奇跡に近い。
〈ドリフター〉のリリースを円滑に行うため、一時的にではあるが、アカシックレコードの改竄と調整が必要になることもある。それができるのは螢一人だけであり、また、サーバーへ〈ドリフター〉のデータをアップデートできるのも螢一人だけだ。
つまり、螢一人だけが情報ソースに触れられるのだ。
データベースを構築した巡理本人ですら、その管理はできないと匙を投げた。〈ドリフター〉と仮想世界の出現は、アカシックレコードにおいてはバグの発生であるが、その所在を捜しあてること自体が至難の業なのだ。例えて言うならば、国会図書館なみの蔵書の中にある、たった一冊の本に書き加えられた落書きを見つけるようなものである。それを丁寧に消し、かつ他に用意された本の中にそのデータを一字一句過たず書き写し保存し直す。それがデータ化作業だ。
細やかさと確実性を求められる作業である。土台、現場の実働部隊ではデータの管理チェックまで手が回らないのだ。
言い換えれば、最低限、巡理と螢の二人がいれば〈イーシァン〉の業務は遂行できるということでもある。
しかし、それも今回で全てが終わる。
そう。十朗はまだ気付いていない。
解散は巡理と十朗のチームだけの話ではない。
〈イーシァン〉の業務自体が、これで最後になるのだ。
「螢」
〈はい〉
「……螢」
〈ええ。聞こえているわ、巡理〉
途切れがちな声に残る、確かな温もりに、巡理は目を閉じた。
「……ありがとう。ほんとうにありがとう。今回の、この最後の仕事がはじまることが決まった時に、十朗抜きで、先に私に知らせてくれて」
さあっと、静かな風が吹き抜ける。上空を渡る、鳥の影が大地を滑りぬけてゆく。
「目が覚めた時に、何もおぼえていなかった私に、あえて何も言わないでいてくれてありがとう。私は……おかげで、少しの間だけでも、幸せな夢が見られた。全て知った上であなたが黙っていてくれたから、どうして私たちにはこういう結果しかなかったのか、ようやく理解できたのよ。最後の最後まで、幸せでいさせてくれてありがとう。――十朗の傍にいさせてくれて、ありがとう」
〈巡理〉
はたはたと、胸に暖かい雫が落ちていくのを留められなかった。もう、螢からこちらのことが見えていないことを知っていたから、ようやく言えた言葉だった。ようやく流せた涙だった。
「怖い。怖いし、寂しいよ、螢」
〈――私も、こうしてあなたと向き合える日が終わることは、とても寂しい。だけど、ここから始まるんですよ、全ては〉
あの日のことが巡理の脳裏を過ぎる。
この、最後の仕事が決まったと螢に告げられた時、見せられた〈ドリフター〉のデータは、巡理の心臓を鷲掴みにした。そして、その瞬間に全てを知り、全てを悟った。自分が全てのことを忘れていたことも、なぜこんなに仁統に対して、いや、双子の妹というものに対して、そして父と母というものに対してここまでの執着と絶望があったのかということも。
仁統が、どれほどの『罪悪感情』を抱いたのかも。
螢の声が、途切れがちに続けられる。
〈巡理。あなたと過ごせた時間は、私にとっても、貴重で幸福なものでした。あなたに必要であろう、あらゆる情報を手渡すという、その役割を担えたことを、とても幸福に思っています。忘れないでください。全ての死は誕生であり、終焉は再生のはじまりだということを。――どうか、元気で。幸せに〉
ぷつり、と映像が完全に途絶えた。壁にわずかながらも残されていた染みも、やがて乾いて消えた。
巡理は、これで螢との繋がりも完全に絶たれたことを悟った。
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