第24話 この世界に本当に存在しているのは私だけ




 喉の奥に血の味が滲む。

 はぁと一息吐いてから、チェスルームのいつもの椅子に、巡理は腰を降ろした。

 つい今しがた、ホールで幽霊の男をリリースしてきた。

 ツバメではない、他の皆が見ていた幽霊の男のほうだ。

 対峙した男の前で、巡理は静かに合掌をする。そして、そっと広げる。そこに、半透明な本のような影が現れる。巡理の目にしか映ることのない、世界にただ一冊の本。


 ――スケルトン・ブック。これが巡理の持つクライアントだ。


 男の姿をスケルトン・ブックから透かし見れば、その人生と思考、執着の正体がそのまま見える。それが巡理のリーディングだ。

 まさか今日、このタイミングで対峙することになるとは思わなかった。この男のデータは、昨日螢から届き、スケルトン・ブックにダウンロードされたばかりだった。

 今更ながら、この幽霊の男のリリースに臨むのが、もしデータのダウンロード前だったらと思うとぞっとする。対象〈ドリフター〉を直接リーディングすることは極力避けたい。心身に残る疲労が今の比ではないからだ。

 男はかつてヴァイオリニストだったらしい。戦前の人で、戦場に赴いた後、左腕を失った。本土へ帰還後、間もなく死亡。腕を失ってもヴァイオリンを弾きたい、というのではなく、「腕を失ってもヴァイオリンを引きたいと願っていた己の想いが世界から消失することを受け入れられない」という、まさしく残留思念のような厄介なタイプの〈ドリフター〉だった。


 生きたい。

 生きたい。

 俺を忘れるな。

 俺がいたことを忘れるな。


 濃厚な他者への要求は、実際の物理的な攻撃となって巡理の頬を裂いた。赤い一条が頬を下る。手の甲で頬を拭うと、巡理は自身の鮮血をなめた。舐める舌先がちらと赤い。拭うことで頬に伸びた鮮血は、まるで紅を刷いたようで、皮肉にも、巡理に凄烈な美しさを与えた。

〈ドリフター〉と対峙するには、時に応戦が必要になることもある。巡理自身、好戦的なタイプというつもりはなかったが、それでもなぜか、こういった場面に遭遇した時、心を占めるのは恐怖ではなく高揚だった。

 つかみかかってきた男の拳をよけると、巡理の身体が沈み、高速で反転した。巡理の右脚が、男の横面に食い込む。ぼきりという音と共に、首が折れたかと思うほど、男の顔が不自然に伸びて歪む。

 データを作るには、楽器を触るための指がいる。仕事のために、決して手を負傷できない。だから、どんな応戦時でも、巡理は拳を使わないと決めている。

 蹴りあげた右脚を着地と同時に軸足とし、左足で男の腹に踵を沈めた。男の身体がくの字に曲がる。仕留めた。と、確信した直後、男から伸びた右手が巡理の喉を掴んだ。

 巡理の蹴りを受けた男の顔は歪んでいる。斜めに長く歪んでいる。

 明らかに、生きた者の形ではない。

 巡理の喉が締め上げられる。ぎりぎりと。血流が止まり、目がかすんだ。頭頂部に熱が溜まる。

 男の手を喉から引き剥がそうと、懸命に男の手首を掴んだが、一向に効かない。ひやりとした生々しい感触だけが手のひらに残る。

 巡理は基本的に言葉で相手を説得し、納得させた上での自然なリリースを行うが、喉を絞められている以上言葉を発することはできない。

 相手の目に、視線を投げた。

 その視線は、相手の記憶と思念に、容赦のない事実を直接たたき込む。言葉という、音声に置きかえた物理的要素ならば、ある程度オブラートに包んで伝えられるが、直接視線から叩きこむ事実は相手を強制的に追いこむ。

 ――男のリリースは、瞬時に終わった。

 なるべくこの形でのリリースは巡理も避けたかった。状況的に致し方なかったとはいえ、後味が悪い。

 気持ちの上で、急ぎと焦りが多少なりともあったことは否めない。約束の時間が迫っていたのは事実だった。

 目を閉じたまま、ふぅと再び溜め息をこぼした。そして、ふっと目蓋を開く。


「――……静かだな」


 呟いた自分の言葉が、床やら壁やらに吸い込まれ、消失していくのが実感できるほどに静かだった。

 このチェスルームは、純粋にチェスを楽しむだけの個室ではないのかも知れない。盤上に向かいながら巡理は一人、ぼんやりとそう思った。

 ここは二人の人間が向かい合い、経験や主義を手駒とし、互いの心と駆け引きをしながら近づきあい、戦いあうための場所なのかもしれない、と。


「――十朗君には、ここにくること話してるの?」


 背後にあるはずの扉のあたりから、笑みをふくんだ声が聞こえる。


「いいえ」


 巡理は振り返りもせずに答える。喉元に手をやり、タートルネックを上まで引き上げた。幽霊の男に締め上げられた指の跡を、宮川なら目ざとく見つけ出しかねない。

 こつこつ、と靴音を立てながら宮川が近づいてくる。


「じゃあ、僕と会うことも内緒にしてるわけだ」

「私の行動全てを伝える義務なんてないもの」

「報告責務なんて、ないってこと?」

「あの子が私に報告を怠ることは赦されないけれどね」

「ああ、そういう関係なの?」


 巡理の左側から、ゆっくりと宮川が姿を現す。ジーンズのポケットに手を突っ込み、のんびりと草野を散歩するような風情で一歩一歩を進める。そして巡理の対局に向かう。そして、やはり彼はのんびりと巡理の正面にあるイスに腰をおろした。ゆったりと脚を組む。左脚を上にして。十朗と同じだ。ふと、その目が巡理の頬へ向かう。


「ほっぺた、どうしたの? ちょっと赤くなってるけど」

「別に。ぶつけただけよ」

「……もしかして、十朗君?」

「ありえないわ」


 十朗が女に手をあげることなどないというつもりで巡理は言ったのだが、続いた宮川の「そっかぁ、一瞬キスマークかと思っちゃったよ」という言葉に、巡理は険呑な微笑みで「――いっぺんぶっとばすわよ?」と低く呟いた。

 しかし宮川はまるで意に介さず、むしろ無邪気ともいえる笑みをさらした。


「こうしてみると、あれだねぇ。まるで、世界に僕と君しか存在していないようだねぇ」


 宮川がおどけて、両手のひらを掲げて見せる。巡理はそれを無視し、盤上を見つめたまま、すっと目を細めた。



「いいえ。この世界に本当に存在しているのは私だけよ」



 宮川はおかしそうに目を丸くする。手を下ろしながら、ゆっくり胸の前で腕を組んだ。


「へえ、本心を見せてみる気になったのかい?」

「あなたには、そうしてみてもいいと思った。あなたは、他の人たちとは全く異質だから」

「どう異質だと思ったの?」

「あなたは、この世界における自分がどういう存在なのかを知っている。だから異質なのよ」


 宮川は答えない。ただじっと巡理の言葉を待っている。


「あなた、これがどういうことか、本当にわかっている? 自分がこの世界においてどういう存在なのかを理解しながら、それでもここに留まれる者なんて、この世界を作り上げた者に『そういう状態でここにいることを求められた者』しかありえないのよ?」


 宮川の右手が動く。彼のすぐ手前右側にあるg1の白のナイトを手に取る。そして、当たり前の仕草で巡理のすぐ手前左側にあるg8の黒のナイトを同じ右手で掴み、そこに白のナイトを置いた。そして、巡理の持ち駒である黒のナイトを、盤上の外に追い出した。まるでチェスのルールなど存在しないかのような無作法な行為。しかし、それが全てを物語っているような気もした。

 彼には恐らく、ルールというものが適用されていないのだ。


「まあ、君は、まだ僕のことをよく知らないからね」

「ええ。知らないわ」

「でも、知る必要がありそうだ、というふうには、なんとなく思ってるんじゃないかな?」

「そうね。それも事実だわ」

「じゃあ、今僕に聞いてみたいことはある?」

「――……そうね」


 その瞬間、勝ったのは理性ではなく好奇心だった。

 巡理は、そっと静かに手のひらを合わせた。宮川のデータは螢から送られてきていない。だからこれは、直接リーディングだ。

 普段ではありえない行動をとる自分に、巡理は半ば呆れ、半ば感心していた。まだ自分の中にも、計算づくではない無鉄砲さがあると気付いた。それがおもしろかった。

 そして、ゆっくりと開く。その手のひら越しに、宮川の目を見つめる。

 その、巡理の呼吸が止まった。

 暫時、目を見開いて宮川を見つめていた巡理だったが、やがて手のひらを閉じると、すっと下に降ろした。突然、巡理の額から汗が噴き出る。呼吸が乱れる。脳全体が締め付けられるような激痛に襲われる。巡理自身、この強烈な疲労は覚悟の上だった。しかし、思いもしない事実を突き付けられた混乱は想定外だ。宮川は、そんな巡理の様子を見つめながら、含み笑いを浮かべている。

 巡理は静かに奥歯を噛み締めた。


「――色々とあるわ。でもまず、それについては私のほうで、ある程度の検討をつけてからでないといけないなとも思っているわ。不用意な質問が自分の脚をすくうことを、私は身にしみて知っているもの」

「それが、望ましい善良な人間のあり方、というわけじゃないことも、君はよく知っているのにね」


 首を絞められた以上の熱が頭頂部に集まる。疲労と混乱が巡理の心を真正直にしていく。


「そう。質問の意図の裏側に、相手を自分の意図どおりに導くための確固たるストーリーを準備して、相手を自分の掌中の駒にしてしまうというやり方は、利口ではあるけれど、善ではない」


 先ほどの宮川の暴挙は無視して、盤上の外に追い出された黒のナイトを取り返そうと、自駒に手をのばしかけた。指先が震える。


「ねぇ、もっとはっきり自分の本心を言ってみちゃって、いいんじゃない?」


 びくりとした。巡理は、宮川のその言葉で一瞬動きを止めた。そして、じろりとにらんだ。


「――イヤな男ね。そうよ、私は自分のそういう小利口なやり方ばかりするところが、ほんと嫌いよ。あと、単に臆病だからそういうやり方しかできないんだって、自分が一番よくわかっているのも嫌ね。みじめだから。でもそれが事実だからしようがないんだけど」

「まあ、どんな角度から見ても、カンジいいとは言えないかなぁ」


 巡理は、そこではじめてにやり、と意地悪そうに笑った。


「ほんとイヤな男ね。ヒトのこと見透かしたような顔してそんなふうに言うけど、あなただって、そういうやり方を善ではないと思いながら、平然とした顔してやってのけてるクチなのに」

「ああ、やっぱりわかる?」

「わかるに決まってるでしょ。あなたの集団心理誘導のテクニックは、はっきり言って頭抜けているわ。好ましい側面しか見せていないから、カンジいいようには見えてるけど。音楽家じゃなくても、詐欺師かなんかになったら十分大成するんじゃない?」


 ことん、と、ようやく黒のナイトを取り返し、巡理は手を引き戻した。


「かわいい顔して、ほんと手厳しいなぁ」


 盤上を睨みながら、宮川は腕を組んでにやりと笑った。巡理は手のひらに取り戻した黒のナイトに、きらりと光が反射したのを見た。


「――変わった」

「ん?」

「気が変わった」

「え?」

「だから、気が変わったのよ。今あえて、手駒も何にもなしで聞いてみておきたくなった。どうして私と十朗が魂の双子なんてもののように見えたの?」

「ああ、それは、君たちが同じところで、同じものに、同じように愛されているものだからだよ」

「それは、予想というか、推測ではなく、確定なの?」

「そう。君たちは間違いなく愛されている。この世界に」

「そうかも知れないわね。でも肝心の私たちが、そうだって実感できていないのよね。実感できないまま、今ここで生きている。だから幸福ではないのよ」


 静かな沈黙が落ちる。

 巡理と宮川の視線は、g8に置かれた白のナイトを見つめている。

 はじまりの場所で待機する、他の黒の駒たちの中で、その白いナイトは際立って異質だった。


「あなたは、私が話すことを聞きたいと言っていたわね。何が聞きたいの?」

「君自身のことをムリに話す必要はないんだよ。話したくもないプライヴェートなことなんかムリに聞こうなんて思っちゃいないから。……そうだな、例えば、君の周りの人間についてどう思っているかとか、それから、君の物事に対する考え方なんかについてとか、そういう、どうということもない、普段の当たり前の会話で出てくるようなことを聞きたいんだ」


 巡理が顔をあげる。宮川の視線と真っ直ぐにぶつかる。


「私の、考え方?」

「うん、そう」

「それは例えば、世界を構成するものについて、とか?」

「いいね。そう……例えば、人間の思考を左右するロジックとか」

「言葉、とか?」

「そう。言葉とか。文字とか。に関する君の所見をね」


 それは恐らく、何よりも巡理の人格を掘り起こして語ることに他ならないだろう。何よりも深い、巡理自身のことを明け渡すことと同義なのだ。

 巡理はそのことに気付いている。そして、恐らく宮川もそうとわかってそんな聞き方をしている。それでも巡理は、もう宮川との間に思惑を張り巡らせる気を失っていた。

 所感を語ることで、灰色の世界は、白と黒に塗り分けられてゆくことだろう。

 残酷なほどに明白な境界線をもってして。




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