第9話 《革命》




 十朗は、壇上に立った女の姿を見る。

 静かな女だ。その身のうちには、すっかり全ての質量を投げ出してしまったような空洞が感じられる。それは豊かな空洞だ。まるで、水晶の殻でできたような肉体ひとつを持ち、ただそこに音楽が響くのを待っているような潔さを感じる。

 先ほどの宮川の話ではないが、質量を失った世界に音楽は響かないだろう。しかしこのコンは、空の身の中で受け入れられるだけ全ての音を吸収し、世界に余すことなく解き放つために、あえて己を空にしているような真摯さを、究極の覚悟を感じるのだ。

 ゆっくりと、ステルは皆の顔を見渡してゆく。皆がコンの一挙一動を見守る。

 彼女の動き一つひとつが、何かが羽化する瞬間を見守る心地にさせる。

ふわりと、その口元が笑んだ。薄い唇が、まるで蜻蛉が薄い羽を広げる瞬間のように開く。


「みなさん、おはようございます。先日ホールに集まって見えた方たちはすでにご承知のことと思いますが、ついにわたしたち『唯一の交響楽団』のメンバーが全員、一堂に会しました」


 皆の間から、漣のように拍手が湧き出す。ささやかな、小さな、しかし確かな熱狂と共に。


「あらためてご紹介します。チェロ二名、佐久間 洋平さんと高海沢 樹十朗さん。それからバスが二名、坂井 楽さんと仁名 巡理さんです」


 再び拍手。今度はさっきよりも少しばかり大きな音で歓迎の意を表す。先着の楽団員たちが、最後の四名の顔を見ようと新顔を求めて首を巡らせる。


「さて、では今日のミーティングの本題に入りたいと思います」


 ステルのささやくような声がはっきりとステージ上に通る。とたん拍手がぴたりと止む。


「以前から、先に到着されている方たちの間では様々な憶測が飛び交っていましたが、ようやく全員がそろいましたので、我々が取り組むことになっている曲目を発表します」


 皆が静かに息をつめる。待ちに待ったその瞬間が訪れた。そんな気配が足元から凝って固まってゆくようだ。十朗は、音を立てぬように静かに深く息を吸い込み、そして同じ速度で吐き出した。

 そして、ステルは冬の朝の白い吐息をはくようなさりげなさで、告げた。



「――曲目は、ショスタコーヴィチの交響曲第五番、ニ短調、op.47」



 皆の間から、おお、というどよめきが沸き起こる。十朗も息を飲む。

 そうか。なるほど。という納得が全身に満ちる。

 ――ドミトリー・ドミトリェーヴィチ・ショスタコーヴィチ。

 かつて、この大陸の北方全土を覆うような形で存在した、ソヴィエト社会主義共和国連邦という大国の存在を、現代に生きる人間がどれほどのリアリティを持って回想することができるだろうか? そして、かつてそのソヴィエトのモーツァルトとたたえられながら、幾度となく当局より批判の嵐に曝され、しかしその都度驚異的な処世のバランス感によって、当局を納得させ、かつ音楽的にも水準を落とすことのない作品を世に送り出し続けることに成功した、この真の音楽の寵児を、果たしてどれほどの人間が記憶しているだろうか? 

 また、彼にシンパシーを感じる魂を持つ者が、どれほど現代に生きているだろうか?

 十朗の脳裏に、昨日見た、あのだだっ広い大地が広がる。呆気ないほど広い灰色の大地が。

 この世界も、この施設も、この楽団員たちも、全てはこの第五のためにあつらえられた駒なのだ。ショスタコーヴィチが第一次批判の只中から抜け出る切掛けとなったため、《革命》とも、ベートーヴェンになぞらえて《運命》とも副題される、この稀有なる交響曲第五番。

 純音楽的でありながら、強烈に個性的。

 すでに十朗の中には、あの衝撃的な第一楽章の出だしが響きはじめている。おそらく、ここにいる全ての楽団員の中にも、それぞれの第五が響きはじめているのだろう。それぞれがこれまで聞き込んできた第五。身のうちに集めてきた第五。ショスタコーヴィチという、自分の作品を完璧に再現することに対して極めて貪欲で、そのため全ての指揮者とオーケストラを完全に支配できねば気のすまなかった、潔癖な作曲家のイメージ。

 そんな楽曲を選んだコンは、究極の暴れ馬の手綱を一手に引き受けると宣言した御者である。それも完璧に操縦することを宣言した御者である。いわばこれは、作曲者と演奏家に対し、指揮者より手渡された手書きの宣戦布告のようなものだ。

 なんと豪胆なのだろう。

 十朗の驚愕をよそに、ステルは淡々と編成の調整を告げてゆく。

 『唯一の交響楽団』の楽団員の人数は、曲目を明らかにされてなるほど、この曲を演奏するために集められた数だったのだと納得する。ショスタコーヴィチは楽団のパートの音数にも己の意図を曲げることを赦さなかった。この仮想世界は、その意思を尊重するらしい。

 しかし、これは見た目ほど穏やかなやり取りではないのだろう。

 これは作曲家と指揮者の戦争だ。過去と現在の攻防だ。亡国と新国とのしのぎの削りあいなのだ。

 ぎりぎりにまで張りつめられた、蜘蛛の糸のように繊細でか細い繋がりの上で行なわれる駆け引きなのだ。それが張りつめきった最後の瞬間、りん、とか細い音を奏でる。その音色こそが、両者の勝敗を分けるのだ。


「荻窪さん。今回はピッコロをお願いいたします」

「わかりました」


 巡理の隣に立つ少女がそう答えるのを幕引きとし、その日の朝のミーティングは終った。

 鮮やかな興奮冷めやらぬ熱を、十朗の胸に残して。


          †


 その日の練習をチェロパートが終えたあと、十朗はバスパートの練習ルームへ巡理を迎えには行かず、一人練習棟を後にした。確かめておきたいことがあったのだ。

 愛器を抱えて練習棟の外に出て、寄宿舎の方角へと向かう。ぼんやりと歩きながら周囲の風景を見るともなく見る。白樺の木々の向こう側に見える西空は、赤い夕焼けに染められていた。

 この『唯一の交響楽団』の専用ホールが非常に大きなコミュニティであることを、到着してすぐに十朗は知ることとなった。

 最初に通されたメインホールは全ての中核となっており、かつここに到着して最初に通る入り口の役割を果たしている。メインホールの裏門を出てはじまる通用路を行くと、その道は練習棟に直結している。練習棟は四階建ての鉄筋コンクリート仕立てで、とりたてて特筆すべき箇所のない建築だった。その練習棟のさらに裏手にあるのが中央ツェントラル館と呼ばれる三階建ての建物で、これは文字通り全敷地の中央に位置しており、建物内には色々な設備が整えられていた。

 一階にあるのは、生活必需品を扱う小規模の売店と、換えの弦やマウスピース、楽譜などを取り扱う楽器店。「ヴェーチェル」という名の、レストランと銘打たれてはいるが実質は軽食も扱うという程度の喫茶店。片隅にぽつんとある郵便局は、表側が全面スモークガラス張りになっているが、その扉が開けられていたためしはなく、常に電気も灯っていないため機能しているのかどうか不明――の四つだった。

 二階には小会議室が三部屋と大会議室が一つ。それから楽譜庫と呼ばれる図書室がかなりの面積を占めていた。

 そして最後の三階には、その全スペースを割いて情報室が整えられていた。青い絨毯張りのその部屋には、パソコンがずらりと並べられており、その約四分の三がウィンドウズで、残りがマッキントッシュだった。そのスペースを大抵の者はコンピュータールームと呼んでおり、その最奥に二つある扉の右側のほうをくぐると、そこは出力室となっていて、通常のレーザープリンターやドキュカラープリンターが設置されていた。どちらも多くはPDF化された楽譜などを出力するために使われているらしい。さらにその奥にはサーバールームがあった。

 男女両寄宿舎と食堂がある団員の生活スペースは、その中央館の更に奥に位置しているのだが、中央館の前まできた十朗はそのまま通り過ぎるのではなく、中へと足を踏み入れていった。

 目的は、三階の情報室だった。

 エレベーターは存在しないため、楽器を抱えたまま階段をのぼる。階段は薄暗く、しかもステップの幅が狭いため上がりづらいことこの上なかったが、注意深く一歩一歩を進めることで、なんとか踏み外さず到着することに成功した。

 情報室の扉を押し開けて中に入る。すると、室内は思いもよらぬ朱と橙の混合光に満ちていて、十朗は思わず入り口で歩みを止めた。電気は全て消されていたが、窓のブラインドが上げられた状態にあったので、西日が全て差し込んでいたのだ。


 目が眩む。


 目頭を押さえて、ひとつ頭をふってから、ようやく十朗は中に踏み入った。

 この部屋の奥には出力室とサーバールームがある。それは二つ並んだ扉の右側の奥にあるのだ。では、左側の奥には何がある? それを確かめようとして十朗はここにきたのだ。

 愛器を入り口近くのイスに立てかけ、十朗はひとり奥へ進んだ。左側の扉の前に立つ。もとは白い扉だ。しかし西日の色に染められて、赤い。

 ノブに手をかけた。

 その時だった。


「――あなたは、一体誰?」




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