第3話 蝿




 四人は、ステルの案内で駅を出た。

 駅の名は、異国の文字で古ぼけた看板に記されていた。歳月を経て看板の枠は錆びつき、駅名も部分的に落剥している。読み方もわからないため、特に由来を聞く気も起こらなかった。

 その駅からは、古びたバスが定期便で出ていた。それに乗って行くのだとステルから告げられ、十朗たちはバスターミナルへと向かった。

 停車していた赤いペンキ塗りの車体は、角がなくて、どことなく愛敬があった。胴にはブロンド色をした30㎝幅のラインが一本入り、上下が10㎝キッカリの幅で鋲止めにされている。車体の底部は荷が積める構造になっており、楽器と荷物は運転手によってそこにしまいこまれた。

 ぼんやりと、そのバスの形や様子をながめているうちに、十朗が最後になった。バスのドアべりに手を這わせて乗り込もうとしたところで、唐突に前のタラップを上がりかけていた巡理が振り向いた。


「どうした?」


 怪訝けげんに思い、十朗は巡理の目を見た。

 まるで、底の見えない沼のように、その眼差しは暗く白く光っている。


「――『理由がわからない』って字が顔に書かれてるようなツラだな」


 さらりと出る男口調。彼女は、時折こんなような口を利く。


「ああ。お前がそう思うのなら、そうなんだろうさ」


 十朗は、あごで巡理にタラップを上がるよう促がした。楽も佐久間も、それからステルも先に乗り込んでいるので、後がつかえているということはないのだが、わざとぞんざいにした。

 巡理は、ふっと表情を消し、きびすを返してタラップを上がった。

 そんな彼女の態度に、十朗は不安になる。

 十朗の知る彼女は腹の中を隠せない人間だ。思いがそれそのまま顔に出る。その眼差しは鋭く、時折獣のそれと見間違うことすらあるほどだ。全ての対象物を真っ向から直視する。直視することをためらわない。直視することで己が曝け出されることを厭わない。己を偽らない。彼女は彼女であることに完結している。

 つまりそれは、本当の意味で他者に対する警戒心を持ち合わせていないということだ。それは未熟さである。不完全さである。もろさを抱き合わせにした愚直さである。しかし十朗は、隠されることのない素顔を、まぶしい思いで見つめることがあった。

 なのに、今の彼女はそうではない。

 巡理は潔いと同時にプライドが高く、己を曲げることが出来ず、そして何より、他人からぞんざいに指図されることを極端に嫌った。特に、さっきのようなことをすれば激怒するのが常だった。

 なのに、今の彼女はそうではない。

 まるで別人のように、その心が掴めない。そのことに十朗は不安を感じる。

 変わってしまった。

 変わってしまったのだ。

 これまで、二人で数多くの仕事をこなしてきた。紆余曲折を経て、二人は、二人の手で磨き上げた秩序を手にし、暗黙の役割分担と、確かな信頼関係を築き上げてきた。それは手にとって目にすることも可能に思えるほど、自他共に認めることだった。そのはずだった。

 しかし、それも所詮、砂上の楼閣に過ぎなかったことを、今の十朗は痛いほどに知っている。

 あの日から巡理は変わってしまった。そう。ここへの仕事が決まったあの瞬間から。

 いや、恐らく変わってしまったのは十朗のほうなのだ。巡理自身はなにも変わってなどいないのだろう。ただ十朗が巡理の心の動きに気付けなかっただけで、本当は単に、あの日巡理の手によって終止符を打たれたに過ぎないのだ。その事実を目の当たりにして、十朗が一人その事実にうろたえ、受け入れられずにいるだけの話なのだ。

 理由がわからない。当然だ。あれから十朗がそう思わない日があったとでも思っているのだろうか?


「理由を聞いたら、答えてくれる気はあるのか?」


 小さな背中を見つめながら小声で問う。小声だが、そこに込めた思いは真剣だった。しかし、


「――どうだろうね」


 返る言葉はあまりにそっけなかった。十朗の問いかけは、まるで彼女の身体を背中から胸へとすり抜けてしまったかのように、あまりに軽く霧散してしまった。

 砂を噛むような思いで、十朗は息を吐いた。


(なぜだ?)

(なぜ、今更……)


 楽と佐久間は、バスの前列あたりで各々腰を落ち着けている。ステルは最後部座席の右端に座り、静かに窓の外をながめていた。

 十朗と巡理は、空いた車内の左側奥から三列目に居場所を定めた。巡理から先に席の中へ入る。続いて十朗も、その隣へ腰をおろしにかかる。車内に他の乗客はなく、がらんとした状態なのだが、それでもやはり二人は並んで座る。そして、そうやって座ると、十朗の体格のせいで、通常ならばさほど不便ではないはずの二人分の座席が、随分と狭いものになった。


「きついな」


 巡理がぼんやりと感想を述べる。


「十朗。あんたやっぱ育ちすぎだよ」


 座席の落ち着き場所を求めて座りなおす巡理に、十朗は、わざと自分の身体をぎゅうぎゅうと押しつけてみた。


「もうっ、重いなあ!」


 不満の声を上げながら、巡理はセーターの裾をなおす。十朗はその隙に、巡理の肩に左腕をまわす形で窓に手のひらをつけた。傍から見ている限りでは、長すぎる四肢の納まり場所を探すべく、とりあえずの重心の預け先を窓に求めたようにしか見えないだろう。しかし、一瞬ちらりと視線をよこした巡理には、十朗の真意は汲まれている。腕のリーチで計った身体つきは、以前と比べてかなり薄い。触れていなくてもわかるほどに。

 痩せたな、と思った。


「重いぞ」


 今度のこの言葉には、明確に二重の意味が込められている。そして巡理は、す、と目蓋を閉じた。


「すまなかったな」


 十朗も、二重の意味を込めて謝罪した。

 何年も昔に、不用意さから十朗がもらした一言が思い出される。

 巡理には双子の妹がいる。諸事情により、彼女らが共に育つことはなかったのだが、十朗はそのそれぞれと、短期間ながらも生活を共にしたことがある。そして十朗は、巡理と妹とを抱え比べた結果の感想を、こうもらしたのだ。


(重い! 仁統みすみはこんなふうに暴れて俺の腕に余計な負担をかけたことなんかないぞ!)


 それは、その前にあったやり取りの延長上で吐き出した一言だった。

 恐らく、月の物の時だったのだろう。貧血をおこしてうずくまった巡理を寝室へ運ぶため、十朗がふいと抱えあげた。あの時の「重い」という言葉は、嫌がって暴れる彼女を牽制するためだったのだが、同時に、常に御しがたい巡理に対して感じていた腹立ちの憂さを、無意識の内に晴らそうとしていた側面は否めない。

 しかし、あの一言を十朗が発した後に巡理が見せた、茫然と見開かれた目は、どれだけ忘れようとしても忘れることができない。

 巡理は、他人に触れられることを極端に嫌悪する。しかし、それ以上に双子の妹と比較されることに対し、過剰な拒否反応を見せる。

 加えて言うなら、その後彼女がはじめた絶食をやめさせるために十朗が払った労力は、並大抵のものではなかった。結局巡理は半月もの間絶食を断行し続けた。そのまま続けていたら間違いなく死んでいただろう。


「このまま、どこかへ遊びに行くのならいいのにな」


 ぽつりともれた十朗の言葉に、巡理はふっと微笑んだ。


「そうね。遊びに行くのは、いいことね」

「よく考えてみれば、二人でどこかへ遊びに出かけたことなんて、一度もなかったな」

「そうよ。そもそも私たちは遊ぶために二人で行動してきたわけじゃないでしょう?」


 巡理はそのまま顔を窓の外に向けた。切り捨てられた会話は、あっけないほど宙に浮く。拒絶という名の、うすら寒い空白が二人の間に立ちはだかり、それまでそこにあるような気がしていた繋がりのようなものは、残滓ざんしまでかき消えていた。仕方なく十朗も腕を組み、通路側のどうということもない辺りへ視線を落とした。

 そこに、蝿が一匹止まっていた。

 ちょこまかと動き回る蝿だ。その存在だけで世界は急激に生々しく匂い出す。視線は蝿を中心とし、少しずつずれて行く。まるで、時間と空間がずれこんでゆくかのように。

 それから、小一時間も過ぎただろうか。がくん、と身体が揺れて、バスが停車した。


「十朗。到着」


 横から巡理に言われ、初めて窓の外に目をやる。

 そこにあったものに、十朗は目を奪われた。

 


 ――そこにあったのは、白壁で全てを覆われた、一目で近代建築とわかる巨大な建物だった。




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