羽化する母さん

最堂四期

「羽化する母さん」

 朝ごはんの時間になっても母さんが起きてこない。父さんが出張に行っているから気を抜いているのか、手を抜いているのか。母さんたちの寝室の扉をノックしても返事がないので、私は構わず部屋に入る。


 ベッドの上で、母さんはさなぎになっていた。


 まず私は夢を疑う。母さんは頭にカーラーを巻いていて、水玉のパジャマ姿。コメディドラマに出てきそうないつもの格好。寝起きで間抜けな母親そのままなのに、胎児みたいに丸くなって、半透明の膜に包まれていて。その膜は、一体なんなの?

「お母さん」

 声をかけると陽気な声が帰ってきた。

「あらー××ちゃん、おはよう!」

 陽気で愛情溢れる、まぎれもない母の声。

「母さん……」

「お母さんねぇー、そろそろ羽化するのよー!」

 嬉しそう。身体はかたく丸めているままだが、目を動かして私を見やる母さん。学校行かなきゃとか、列車事故があったよとか、そういう現実を一切合切押しやってしまうその姿。よく見ると背中から羽が生えている。


 ……これ以上は無理。私は口元を抑えて視線を逸らした。


「ウカって……なに? どうして?」

「あらぁ、××ちゃんは頭がいいから、羽化くらい知ってるでしょう?」

 知っているけど、理解はできない。

「お母さんねぇー、そろそろ羽化するのよー!」

 重ねてもう一度宣言された。確定事項らしい。

「……私もそうなるの?」

「ならないわよぉー、だってお母さんとお父さんの子どもだもの」

 もぞりと母さんが動く音が聞こえた。私は母さんをもう見れない。

「××ちゃん、お願い、窓をあけてほしいのよぉー」

 洗濯物干しておいてほしいの、とまったく同じ言い方で。


「わたしっもう学校行くねっ」

 もう無理。意味がわからない。私はカーテンを開けて、窓を全開にして、そのまま部屋を飛び出した。カバンを掴み、玄関をあけて、住宅街を突っ走る。空腹も厭わず駅のホームに転がり込むと、そこにはこれから会社だとか、学校に行くとか、そういう人々で溢れている。いつもの日常、揺れる電車は極めて現実的。


 ああ! 私は安堵する。世界の方は、まったくふつうだ!


 それでも現実逃避は長くは続かない。家には帰らずカラオケオールでもしようかと考えたけど、父さんが出張から帰ってくる日だから渋々家に帰った。

「おかえりなさい。遅かったじゃないか」

 父さんは笑顔で私を迎えてくれた。家はいつもの日常で、卓の上には美味しそうな夕飯が並んであって、朝の母さんは夢だったのではと言い聞かせるには十分なあたたかさがあった。私は父さんに促されて席につく。

「……うん」

「久しぶりだからな、父さん張り切っちゃった」

 いただきますと手を合わせ、箸で焼き魚をほぐして口に運ぶ。

「塩が多いよ」

「ちょっとしょっぱいくらいがちょうどいいだろ。母さんもしょっぱい方が好きらしいし。ところで、母さんは? 買い物?」

 私の箸は止まる。

「……いないの?」

 声が震える。

「うん。帰ったら家の中真っ暗で、父さん寂しかったよ」

 私は箸を置いて、母さんの部屋へ向かった。どうか父さんは来ないでほしいと願いながら。


 ……あァ。カーテンは開いていた。夜風になびいて揺れている。母さんはどこにもいなくって、ベッドの上にはしわくちゃの半透明の膜が残っていた。母さんは父さんに愛されていて、母さんも父さんを愛していて、私もふたりが大好きだったのに。どうして?


 リビングに戻って、席について、父さんが「どうした?」って聞いてきたけど、私はなんにも喋れなかった。そういえば、いってらっしゃいって、今日に限って言われなかったなぁ。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

羽化する母さん 最堂四期 @sochinote

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ