第4話「碧への慟哭」

 服のデザインができたという連絡を受けた。湊斗は携帯を握りしめながら、深く深く、ゆっくりと息を吐き出した。

 

 やり遂げたいことを、やる日が来たのだ。


 胸にある酸素の全てを表に出すと、アトリエに向かった。


「湊斗くん、待ってたよ!」


 明るい滉が、今日はより弾んだ声で出てきた。


「本当は服が完成してから……と思ったんだけど、湊斗くんの意見も聞いておきたくて。何か気になるところがあったら言ってほしいんだ」

「デザイン案はどこに?」

「こっちだよ」


 机の上には、一枚の画用紙が挟まれたスケッチブックがあった。滉は湊斗に背を向け、机に近づいた。

 湊斗は、鞄の中に手を入れた。


 画用紙を手にした滉は振り返り、そうして、息を飲んだ。


「な、」

「動くな」


 湊斗は包丁の柄を握る手に力を込めた。無機質な灰色の光が、滉を捉えていた。


 ドアは湊斗の後ろにある。他にドアはなく、滉にとっては袋小路だ。湊斗を突き飛ばすなりすれば逃げ出せるかもしれない。しかし、逃がすつもりはなかった。差し違えてでもやり遂げるつもりだ。


 滉は口を開けて、かかしのように立ちすくんでいた。完全に呆けていた。身に覚えがないと言いたげに。


 なぜ、と体を巡る血の温度が上がっていく。


「知らないとは言わせない。……碧衣のお腹に、子供がいたことを」


 好きな人ができたと報告されてから程なくして、はち切れんばかりの笑顔の碧衣から、その人と付き合うことになったと言われた。相手は年上で、おかげでいつも頼りになる、精神的に深く寄りかかれると愛おしげに語っていた。その日以後、碧衣と二人で過ごす時間は減った。


 数ヶ月後、碧衣から更なる報告を受けた。お腹に子供ができたというのだ。恋人との子だという。

 そしてお腹の子供が五ヶ月になる今年の二月、碧衣は死んだ。


「あの灯台から身投げした。お腹の子供の父親から、君達はもういらないって言われたんだ。それで死んだ!」

「なんでクラスメートの君が、そこまで」

「碧衣は言ってなかったようだから教えてやる。碧衣は、俺の双子の妹だ」


 滉は瞠目した。初耳だったのだろう。湊斗もずっと知らなかった。


 湊斗はそれまで別の町にいたが、高校入学を機に昔住んでいたこの町に戻った。

 碧衣と会ったのは、全くの偶然だった。両親は幼い頃に離婚し、湊斗は父に、碧衣は母に引き取られた。以降面識はなかったが、海で会ったときにはっきりと感じ取った。彼女は、自分の家族だと。その後調べてみたら、本当にその通りだった。碧衣も驚いていた。


 碧衣から初めて湊斗と呼び捨てにされたとき、嬉しかった。それまでのくん付けにどこか感じていた距離の壁が消え、家族と認められたようで、くすぐったかった。


「子供ができたって聞いたとき、俺は反対しようとした。でもできなかった。碧衣は本当に嬉しそうだった。幸せそうだったんだよっ……!」


 まだ学生なのに母親になるなど。けれど、無上の幸福を撫でるようにそっとお腹に触れる碧衣を見ていたら、面と向かって反対だと言えなかった。家族の夢について知っていたので、尚のこと。


 湊斗はきっといい伯父さんになると言われた。ならば伯父として、碧衣とその子供を守ろうと思った。自分の持ちうる最大限の力を尽くそうと。自分にできる全てのことをしようと。


 一発殴りたかった碧衣の恋人の詳細はわからなかった。姿の見えない父親は、本当に責任を取ってくれるのか不安だった。その嫌な予感は、的中してしまった。


 。二月の深夜。闇に耳をざわつかせる波音が轟く中、肌を突き刺す冬風が吹きすさぶ中、全てを飲み込まんとする黒い海の中に、碧衣は沈んだ。


 灯台には揃えられた靴と遺書があった。そこには恋人から、別にこちらは本気でなかったこと、本当に産もうとしていて困っていること、婚約者がいてそちらと結婚すること、もういらないと言われたことが書かれていた。


「碧衣を捨てたあんたが、何も知らない顔で碧衣との思い出を振り返って、他人事のように記憶を語って、あまつさえ服を作ろうとして……! 碧衣を殺したあんたが、何様のつもりだ!」


 遺書に恋人の名前は書かれていなかった。葬儀にもそれらしい人物は来なかった。


 しかし何の因果か、湊斗は滉と会った。結局何も守れなかった自分に残されたできることと言ったら、一つだけだ。湊斗は一歩二歩と、滉に寄った。


「碧衣は息のできない、暗い海の底に沈んでいった。なのにあんたは地上でのうのうと酸素を吸っている、それが絶対に許せない! 碧衣の抱いた苦しみを、悲しみを、絶望を、せめてほんの一欠片であっても味わわせる!」

「僕を殺した後、君はどうするんだ。きっと、すぐ捕まってしまう」

「碧衣の死んだ場所で死ぬ。だから別にいい。そして仇はとったって、碧衣に報告する!」


 捕まるなど恐れていない。死ぬのも怖くない。そんなものは自分の決意を揺らすに足らない。


 動揺一色に染まっていた滉が、凪いだ水面のように真顔になった。くるりと振り返り、後ろの本棚から一冊のファイルを取り出す。開いたそれを、湊斗に差し出した。


「これが碧衣さんを誑かした相手だよ」

「……は?」

「探偵を使って調べさせた。碧衣さんのバイト先で知り合ったらしい。婚約者がいたが、碧衣さんには隠していたようだ」


 ファイルには書類が纏められており、それらは調査報告書だった。中に滉より少し上に見える、知らない男性の写った写真があった。頭が回らなくなった。まずでたらめだ、と思った。けれど、偽物にしてはよくできた報告書だった。


 なぜ、と零した。どうしてただのお客のために、そこまで。

 すると滉は当然のように言った。


「碧衣さんが好きだったからね。でも言うつもりはなかった。ずっと」


 子供のことは知っていた、と滉は言った。碧衣がいつかデザインしてほしいと頼んだ服が、子供に着てほしい服だったから。女の子だとわかったから、大人になったこの子に似合う服をとオーダーされていたと。


「伝えておけばって、後悔している。言っていれば何か変わっていたのかと思わずにはいられない。でももっと後悔しているのは、何もできなかったことに対してだ。償いのために服を作ろうとしたが、結局自己満足でしかない。この男についても、僕自身が調べたんじゃない。全部他人の力を使った。既に社会的制裁は与えてあるが、その程度で良かったのかと今でも思っている。……君のようにはできなかった。自分では、何もできなかった」


 滉の口調は静かだった。あまりにも静かで逆に苦しくなるほどだった。滉の言葉を聞く度、湊斗の胸に痛みが走った。

 滉はそっとファイルを閉じた。


「僕が何もできなかった罪は重い。殺されて当然だ。でも、君が死ぬつもりなら……止めなきゃと思った。碧衣さんはいつも、君のことを話していたから。とても大切な人だって」


 何かが聞こえた気がした。海の音のようでもあるし、碧衣の声のような気もした。からん、と硬いものが床に落ちた。


 包丁を落とした湊斗は、床に膝をついた。調子の外れた嗚咽が止まらない。水で歪む視界は、やがて何も映さなくなる。


 泣き続ける湊斗の背に、滉の手が触れた。温かい手だった。

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