第八章 聖なる剣、魔なる剣

 空き家の一室を借り、家主に置き去りにされたベッドでリシェルは体を休めた。横になると溜まっていた疲労を思い出し、泥のように眠った。目覚めたのは日が高く昇った頃で、体の重さは抜けず、苦しみながらベッドから這いずり出た。

 空き家の中にはドライスはおらず、外へ出ようとしたところで、丁度ドライスと鉢合わせになった。

「腹は減っているか?」

 そう聞かれて、リシェルは小さな返事をして頷く。ドライスは部屋の隅に置いた荷物から干した肉と丸いパン、そして革袋の水筒を取り出してテーブルに置いた。干し肉とパンを食べる様にリシェルを促し、ドライスはリンゴをナイフで切りながら呟く。

「魔獣の気配はするか?」

 リシェルは干し肉を食みながら、感覚を尖らせる。逃走する際中もこの村に着いてからもはっきりと感じていた魔獣の気配は今や跡形もなく消えていた。

「なくなりました。あの魔獣は討伐されたみたいです」

「ならば、奴らは帝都の捜索をしているはずだ。真紅の聖女を瓦礫と焦土の中から探すとなると、時間は掛かるだろう」

 きっと解放軍の皆も自分を探しているだろう。それを考えると、何も告げずに消えたことが申し訳なくなってしまった。それに、ミーナとイルヴァニスのことも気掛かりだった。

「暫くは安全だが、ハッドは俺たちの目的を知っている。追いつかれる前に、ディアの町に着かなきゃならん」

「その後は?」

「悪いが、故郷に居着くことはできん。ファルーナの手が及ばないロフティエ大陸に逃げるしかないな」

 故郷で祖母と暮らす生活には戻れない。悲しいことではあるが、祖母と穏やかな生活を送れるのならば、異国でもあろうと耐えられると思った。リシェルはドライスが切り終えたリンゴをゆっくりと咀嚼し、飲み下した後、言った。

「ドライスさんが無事で良かったです。不運にも自分だけ落ちてしまい、離れ離れになってからずっと心配していました」

「不運じゃない。言っただろう。最初からハッドが仕組んだことだったんだ」

 ドライスはリンゴの一切れを鷲掴み、口の中に放り込んだ。ほとんど噛まずに飲み込むと、続きを話し始めた。

「光の矢と体を繋げていた縄。お前の縄には細工がしてあった。千切れやすいように切れ込みが入っていたんだ。つまり、俺とお前を分断しようと企んでいたんだ」

「何故そのようなことを……」

「俺がお前に入れ知恵するのを嫌ったんだろう。奴め、マシティアの情勢など知らんという素振りを見せていたが、大嘘だったんだ。国を救う選択を取らせるために、口うるさい俺を排除したというわけだ。まあとにかく、俺は縄の細工に気付いた時点でハッドが良からぬことを考えていると確信した。すぐにお前と合流しようと探し回ったが見つからず、それと分かる情報を手に入れた時にはお前は解放軍に入っていた」

「そこまで分かっていたのなら、追い付けていたのではないですか?」

「そうだな。だが、安否が分かっただけで充分だった。寧ろ、都合が良かった。お前のことは解放軍に任せて、俺はハッドの企みを探ろうと考えた。縄の切り口を見た時、あいつのことを思い出した。あいつならマシティアへの出入りは容易くできて、趨勢をハッドの下に送れると。切り口は刃で付けられたものじゃない。何か小さな生き物が齧ったようなものだった」

 誰がやったかを当てろ、と言わんばかりの視線をドライスはリシェルに向ける。リシェルも、それが誰なのか考えるまでもなく頭に浮かんでいた。

「ヒースキーさんが、やったんですね」

 ドライスは大きく頷く。

「奴がマシティアにいて、リシェルを監視していると踏み、潜んでいそうな場所に罠を仕掛けて待っていた。時間は要したが、奴を捕まえて自白させた。お喋りな獣で助かった。べらべらとご主人の計画を話してくれた。おかげで間一髪、お前を助けることが出来た」

「ドライスさんには頭が下がりっぱなしです。本当にありがとうございます」

 リシェルは深く頭を下げて感謝を示したが、ドライスは煙たそうな顔で返した。

「お守りを任されておいて、お前を放置してたんだ。褒められることじゃない。その詫びと言っちゃなんだが、ディアの町の情報も手に入れておいた。南の小領主、反乱を起こした反皇帝派のラノアが治める地にディアと呼ばれる町がある。皇帝軍とのいざこざもあったようだが、既に落ち着いているらしい。二、三日馬を走らせれば着くだろう。明日には此処を発つから準備をしておけよ」

 故郷に帰れる。祖母と会える。それなのに、心は晴れない。大きな不安となっているのは、皇帝ゾギアのことだった。ゾギアが帝都で聖絶士に討たれたとは、どういうわけか思うことが出来ない。ゾギアを捕らえて魔の剣を取り上げなければ、あの巨大な魔獣を何処かで呼び寄せられて多くの犠牲が出るかもしれない。

 リシェルは俯いて心配事に頭を悩ませていると、あどけない少年の声が耳に届いた。

「皇帝ゾギアは逃げ延びましたよ」

 リシェルが振り返る前に、ドライスが声を荒げて言った。

「なんで此処にいやがる」

 壊れた窓の枠に腰を掛ける少年は不敵な笑みを浮かべて竪琴を撫でる。リシェルは驚きと喜びの混じった表情で彼を迎えた。

「ロコロタさん!」

「お久しぶりです、リシェルさん。いやはや、途轍もないことをなさっていたようですね」

 お互いに近付き合うと、リシェルはロコロタの手を取り、固く握った。

「城で助けてくれたのはロコロタさんですよね? 本当にありがとうございます」

「豪胆な御方です。敵地に単身乗り込むなんて。たまたま僕がいて良かったですね」

「おい、てめえ、なんで此処にいるんだって聞いてるんだ」

 ドライスがリシェルをロコロタから引き剥がし、ロコロタに詰める。威圧する大男を前にしてもロコロタは物怖じしなかった。

「ついていくと言ったのに置いていかれたんですから、追いかけたきただけのことです。責めるつもりはありませんので、気にしなくていいですよ」

「ふざけたことを抜かしやがって。もっと分かりやすく言ってやろうか。俺は、どうやってマシティアに入ったか、と聞いてんだよ」

 それにはおどけた態度でロコロタは返した。

「吟遊詩人に不可能はないのです」

 ドライスは苛立った様子を見せたが、舌打ちを最後に詰問をやめた。ドライスが引き下がり、改めてリシェルとロコロタが対面すると、ロコロタは何事もなかったかのように話し始めた。

「ゾギアは二人の御供を連れて南へと去っていったそうです。その御供がまた奇妙でして、一人は爪が赤い怪しい風貌の男、もう一人はリシェルさんとそう変わらない年頃に見える少女だそうで」

 赤い爪の男はゾギアの傍らにいたディルクだろう。そして少女と言われて真っ先に思いついたのは、ミーナだった。そうではない、ゾギアに与する理由などない、と否定したかったが、ミーナがイルヴァニスを刺した記憶がそれを阻む。真っ当な理由が思いつかなくても、彼女の凶行が生んだ道が何処へ続いているかを考えれば、悪の権化へと辿り着いてしまう。

 イルヴァニスは、死んでしまったのか。ミーナはそれを望んで、自分についてきたのか。イルヴァニスを助けられなかったこと、イルヴァニスが託してくれたミーナを、彼の願いに応えらずに心を開かせられなかったこと、成し遂げられなかったものの重さがリシェルを酷く悔やませた。

 ドライスがリシェルの肩を叩く。リシェルは我に返り、顔を上げた。

「お前はやれるだけのことをやったんだ。後は解放軍とファルーナの連中にやらせておけばいい」

 マシティア帝国との戦いで考えれば、此処で引き下がっても後悔だけで済むだろう。だが、ミーナを思うとそうではなくなる。イルヴァニスだけでなく、自分の中にいるマリーも妹を救ってあげてほしいと言っている。今ある命はマリーから貰ったもの。マリーの願いであれば、叶えなければいけないし、自分自身もミーナを放っておけないという気持ちが強くあった。

「追いかけます」

 ドライスは不満を溜め息で示した。続けて言葉ではっきりと伝える。

「お前が責任を感じることじゃない。皇帝を追えば、ハッドと出くわす可能性が高くなるんだ。そうなれば故郷にも帰れないし、婆さんとも二度と会えないんだぞ」

「未練を残したままお婆様と会いたくありません。泣いてばっかりで、ただいまも言えずに帰ってきたあの時と同じ姿を見せたくない。強くなった姿を見せて、お婆様に喜んでもらいたいんです」

「お人好しという言葉ですら足りないくらいの大馬鹿者だな。分かった、好きにしろ。俺はもう口を出さないからな」

 ドライスは吐き捨てる様に言って、外に出ていった。面倒を被らせている自覚はあったので、リシェルはその背中に深く頭を下げた。

「追いかけるにしても、南へ逃げたということしか分かってませんよ。僕たちもあまり目立った行動は取れません。聖絶士さんに見つかってしまいますからね。いそいそ隠れながらの旅路で果たして、皇帝一行に追いつけるでしょうか」

「魔の気配を探ってみます」

 言ったものの、確かな保証を持った試みでないことは分かっていた。パギンドゥではゾギアを目前にするまで、魔の気配を感じ取れなかったし、ディルクに至ってはその気配を自身で制御して隠しているようだった。しかし、ゾギアたちに近付くためには、魔の気配を追うことは必須だ。気のせいかもしれないほどの僅かな気配すら逃すまいと、リシェルは感覚を研ぎ澄ませる。だが、リシェルの頭の中には何も入ってこなかった。

「まあ、追うなら早めに発ちましょう。皇帝一行が遠くへ行けば行くほど、気配とやらも感じにくくなるんじゃないですか」

「そうですね。ドライスさんにも伝えて、今すぐ出発しましょう」

 リシェルは急いで荷物を纏める。それを終える頃に、ドライスが戻ってきた。

「ドライスさん、あの……」

「馬は用意した。お前が乗っていた白い奴、とんでもない暴れ馬だな。こっちまで持ってくるのに苦労させられたぞ」

 言わずともすぐに発つことを察して馬を用意してくれていたようだった。リシェルが言い直そうとするが、それも遮ってリシェルの手から荷物を取り上げる。

「土地勘がない以上、慎重に進路を決める。これだけは文句を言わせないからな」

「はい。お願いします」

 踵を返して外に出るドライスにリシェルはついていく。外で待つ二頭の馬、その白馬の方に近付き、首筋を撫でる。その後、荷物を自分の馬に括るドライスに視線を向ける。

「どっちにロコロタさんを乗せますか?」

 ドライスは荷物を括りつけながら苦い顔をする。

「連れていくわけないだろうが」

 そう呟いたドライスの背後にロコロタが立つ。

「あちらの白馬はなんだが怖いので、この大人しそうな子にします。手綱はドライスさんに任せますね」

 ドライスは唸り声混じりに溜め息を吐いた。ロコロタはドライスの横を抜けて馬に飛び乗り、高らかに言う。

「さあ、急ぎましょう。のんびりしていると、皇帝一行に逃げ切られてしまいますよ」

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