暗い地下道は帝都に入ってきたそれとは違って圧迫感は少なく、足元の地面も、暗闇で見えないが、舗装されているようでしっかりとしていた。

 壁に手を当てて進んでいけば見えずとも着いている、とミーナは言っていたので、全くの闇の中、ざらざらとした手触りの壁を左手で確かめながら、前を歩くミーナについていく。

 沈黙が闇を重くする。足音を聞くだけでは気が滅入りそうになった。リシェルは心すらも闇に溶け込ませないよう、何かを考えて紛らわそうとする。真っ先に思いついたのは、この先で待つ、皇帝ゾギアのことだった。

 神器を操り、暴虐の限りを尽くす悪帝。施政は民の生き血を際限なく啜る圧政。気に食わないのなら家臣すらも殺そうとする。かの行いは到底、許されることではない。ゾギアを玉座から引きずり下ろさなければ、マシティアが救いのない死の国となる。

 自分が生まれた国が、ほんの十年いない間にこうも激変してしまったのは悍ましいことだ。感慨を抱く隙すらなく、人々の怨嗟が体に纏わりついてきた。皇帝の徒に虐げられ、ひもじい生活を強いられ、魔獣に怯える日々を過ごしてきた彼らを思えば、怒りは延々と湧いてくる。その首魁たる皇帝に対し、どのような罰を下すか。憤怒に委ねれば、答えは一つだろう。だが、刃に刃を返すやり方で全てを終わらせることが本当に正しいのか、と考える自分がいた。命を取り合う覚悟はしたし、それを全うした戦いもしてきた。だが、遍く責を負うべき者に対して、問うべき罪の贖い方がそれで良いのか、分からなかった。

 聖なる神アルテナの力が宿る剣も、マシティアに来てから随分と血を浴びてきた。いくら斬っても切れ味は落ちず、血も滑るようにして刃を流れて跡一つ残さない。白銀の刃は旅立つ前と全く変化していない。魔を祓うためのこの神器は、本来与えられた役目を果たさなくとも、相対する者を蹂躙してきた。刃とは、武器とは、それがために利用されるのだから、戦い始めてしまったら終結に至るまで、力尽くで事が進む。このアルテナの剣も戦いが終わる瞬間まで振るわれるはずだ。聖なる剣が、ゾギアの命を奪うことで戦いを終わらせるのか、それとも、違う形で剣を振るうことになるのか。現状、どちらに天秤が傾くのか、判別のしようがなかった。

「もうすぐ出口だ」

 その言葉でリシェルは我に返った。暗闇に変化はなかったし、壁の感触も続いている。構わず進もうとすると、ミーナにぶつかってしまった。小さな舌打ちが鳴り、瞬時に闇に消える。

 ミーナは立ち止まったまま、何かをし始めた。頭上で重たい石が擦り合うような音がした後、ミーナの体が跳ねて、行方を晦ました。戸惑うリシェルの頭の方からミーナの声が届く。

「手を出せ」

 声のする方に右腕を上げると、手首を掴まれて体が浮き上がった。宙を掻く左手が何かを引っ掻くと、右腕を引っ張ってくる力に合わせて、そこを掴みながら自力で体を持ち上げる。

 何処かへとよじ登ったようだが、暗闇で何も分からない。リシェルは見えるものがないかと辺りを見回す。そうしている間に、ミーナは何処かへと一人で歩いていき、微かな物音を立てた。

 チッ、という軽い音が鳴ると、小さな灯が浮かんできた。それにミーナの顔が照らし出され、灯と共にリシェルに近付いてきた。

「もう城の中だ、行くぞ。いつでも剣を抜けるようにしておけ」

 そう言うと背を向けて、また歩き出す。明かりは小さく、全てを照らしてはくれないが、石壁に囲まれた部屋にいるらしいことは分かった。ミーナはその部屋の端にある鉄の扉を、音を立てないようにゆっくりと開けた。

 僅かに開けた扉の隙間を、ミーナはすり抜けていく。リシェルも急いで後を追い、部屋を出る。薄暗い通路らしき道を進み、その先に続く螺旋状の階段を上がっていく。人の気配はなかったが、ミーナは足音を殺しながら歩いていた。リシェルも剣の柄に手を掛けながら、息を殺してミーナについていく。

 階段を上がり切ると、此処が城内であることがはっきり分かる場所に出た。装飾が施された円柱が並び立つ広い回廊は、見上げても天井が闇に遮られて高さを測れない。回廊の中央には豪奢な絨毯が敷かれ、途切れることなく何処までも続いていた。

 その絨毯に沿い、円柱を陰にしながら進んでいく。明かりはミーナの手元にしかないので、誰かがいるはずがないのだが、気は抜けなかった。リシェルは何が起きようと反応できるように全身に意識を向けていたが、結局、誰とも遭遇することはなかった。

 やがて回廊は幅の広い階段へと繋がり、その奥に明かりが漏れる大きな扉が見えてきた。それと同時に、頭の中に刺すような気配を覚えた。それを感じ取った瞬間、リシェルは憶測であった全てを確定させた。

 階段を上がった先、扉の奥に皇帝ゾギアがいる。禍々しい気配はゾギアに内包されたまま、渦を巻くようにして激しく流れている。そして、激烈な毒気のような気配がゾギアに重なるようにして感じられる。剣だ。剣そのものだと分かるほどにはっきりとした気配が、ゾギアに何かを吐きかけて霧散させながら、強く脈打っている。

 全ての元凶と呼ぶに相応しい気配がそこにあった。リシェルは柄に掛けた手をぎこちなく動かして、階段を上がろうとするミーナの肩を掴んだ。

「此処からは私一人で行きます」

 ミーナはリシェルに顔を向け、訝しむ目で睨む。少しの間を置いた後、眉根を寄せたその顔を崩さずに体を反転させ、リシェルの前からゆっくりと退いた。

「今更、勧告も必要ないな。好きにするといい。あたしの役目は終わりだ」

 リシェルはミーナに深々と頭を下げた後、静かに息を吐いて階段に足を掛ける。一段一段、上がっていく度に感じる魔の気配は濃度を増し、リシェルを引き返させようとしているようだった。柄を強く握りしめ、意識を充満する魔の気配の奥へと集中させて前進し続けた。

 扉に手を掛けて軽く押すが動かない。力を徐々に込めていくと、光と魔の気配を溢れさせながら扉が開いた。目を細めながら正面にある玉座を見る。豪華な装飾が施された赤銅色の玉座に、強い気配を放つ者が漆黒の剣を抱えて項垂れていた。

 視線が手前に移ったのは、玉座の前に平伏した男が立ちあがったからだった。その後ろ姿に垣間見えた、左手薬指の赤。振り返り見せた顔は、ランベルで襲ってきた者と記憶に違いがない。リシェルは思わず、大きな声を発した。

「どういうことですか!」

 くつくつと笑ったのは玉座にいる男、皇帝ゾギアだった。垂れていた頭を上げて、二つの眼でリシェルを捉える。

「本当に来たではないか。死を売るだけの商人ではなかったか」

 商人と称された御前の男は正面に向き直り、再び膝を折る。

「あれを殺せば、賊軍は崩壊の一途を辿るのみでございます。聖神器を砕けるのは魔神器のみ。陛下のベリアルの剣であれば、あの小娘諸共、聖神器を破壊できるでしょう」

「どの口が言う。貴様も魔神器を持っているだろうに。あれの首を我に売りつけるというのも、商いになろう」

「御戯れを」

 商人が魔の神器を持っていることをリシェルは知っていた。だが、商人からは魔の気配を感じない。警戒は怠らず、アルテナの剣を抜いて玉座の方へとにじり寄る。

「なぜ、貴方がいるのです? 何が目的で、私の前にまた現れたのですか?」

 商人は答えず、跪いたまま微動だにしなかった。

 知りたいことは山ほどある。それをいちいち口にして問うには、状況が良くない。商人もゾギアも拘束して、彼らの関係と正体を吐かせる。リシェルはそれに剣を振るう理由を作った。

 鞘を腰帯から抜き、素早く刃を納めると、商人の背に飛び掛かる。鞘に納まった剣で商人の脇腹を叩こうとした。

 突然、魔の気配が増幅した。その気配を感じ取るや、目前にいた商人が姿を消した。姿は消えたが、残光のように魔の気配が行き先を伝える。リシェルは身を翻し、鞘を盾にする。鋭利な短剣の一撃を寸前で受け止めた。

 衝撃を感じる間もなく、短剣は引っ込められ、商人も飛び退く。放っていた魔の気配は短剣に集約されたかと思うと、忽然と消えた。ゾギアの高笑いだけが余韻となった。

「その首、安くはないようだな。ディルク、お前は下がっていろ。我が首の刈り取り方を伝授してやろう」

 ゾギアがゆったりとした動作で立ち上がる。それに応じて、ゾギアの持つ剣から魔の気配が緩やかに沸き立つ。それに気を取られた一瞬の隙に、ディルクと呼ばれた商人が姿を消した。微かに残る魔の気配を追うと、ゾギアの背後にディルクが立っていた。

 リシェルは体を反転させながら、ゾギアから距離を取った。強い魔の気配がゾギアの剣から溢れて出ているのを感じたからだ。今まで感じたどの気配よりも強く、悍ましく、目から得る情報のように、明らかな事実として錯覚した。

 鞘から抜いた剣からは刃と共に魔の気配が噴出する。やがて気配は巨大な手を象り、ゾギアが刃を振ると同時にその魔手がリシェルに目掛けて伸びてきた。空気を歪ませながら迫る魔手に対して、リシェルは剣を抜く。体に聖なる神器が持つ防壁の力を巡らせて、魔手を弾き返そうとした。

 魔手が掌でリシェルを押し潰そうとする。防壁に剣も加えて魔手を弾き返そうとし、刃の腹を手で支えながら待ち構える。剣が魔手とぶつかり、互いに非常識な力で押し合う。防壁の力も作用していたが、それでも魔手を弾き返せない。リシェルはその場に留まろうと足に力を入れるが、魔手に少しずつ押され出した。

 ゾギアがもう一度、剣を振る。魔手は更に迫力を増し、力を強めてリシェルに伸し掛かろうとする。リシェルもありったけの力を込めて剣で押し、それに伴って防壁を再度巡らせる。

 刃が交わるような鈍い音が鳴る。魔手が強風に吹かれたかのように掻き消える。リシェルは強い力で弾き飛ばされて壁に激突した。微かに残った防壁の力で衝撃を抑えたが、それでも背中に強い痛みが残り、立ち上がれなかった。聖なる剣で床を突き、辛うじて膝を立てる。

背中を打った影響か、喉が締まり上手く呼吸が出来ない。か細い息を肩を使って吐き、朦朧とする意識で、魔の気配だけを捉える。ゾギア自身が纏う気配は変わらないが、魔の剣は大人しくなっていた。痛みが少しずつ引いていき、呼吸が落ち付き始めると、ゾギアの表情が見えた。余裕のある笑みを浮かべていた顔は引きつり、侮蔑と怒りの混じったものとなっていた。

 ゾギアが叫び出そうとしたその時、扉の方から騒がしい音を立てながら、武装した兵士たちが雪崩れ込んできた。

「陛下、ご無事でありますか!」

 兵士たちはゾギアを守る者たちとリシェルを取り囲む者たちの二手に分かれた。ゾギアは苛立ちを露骨に見せつつ、先程と違う口の形を作って叫んだ。

「生きたまま捕らえろ! かの賊軍の首魁、聖女を名乗る叛徒だ!」

 兵士たちは皆、皇帝の言葉を遵守するための行動を取った。生きたまま捕まえるために、万が一にも殺してしまわないように剣を抜かずに、腕力でリシェルに掴みかかろうとしてくる。皇帝の意に少しでも反することがあれば、どうなるか知っているからこその遵守であり、更には一見すると年若き少女でしかないリシェルへの侮りも合わさって、兵士たちは緊張と油断を同数所持する奇妙な状態に陥っていた。

 リシェルは触れてくる兵士たちに対して、防壁の力を作用させる。我先にと掴みかかろうとして群がっていた兵士たち全てが、その力で軽々と吹き飛ばされた。得体の知れない現象に見舞われた兵士も、それを見ていた兵士も、困惑を態度に滲ませていた。

「ひ、怯むな!」

 兵士の一人が震える声で怒鳴る。それに背を押されて、全ての兵士がなりふり構わない様子でリシェルに向かっていった。リシェルは立ち上がりながら、無秩序に突っ込んでくる兵士たちを防壁の力で次々と弾き返した。

 神の力を前にすれば、どれだけ鍛え上げた強者であろうと雑兵と変わらない。だから、彼らを相手取るのは造作もなくて、体勢を整える充分な猶予がリシェルには与えられていた。背中の痛みがぶり返すのと同時に、魔の気配が迫ってきているのを感じた。魔手は兵士たちの頭上を飛び越え、リシェルの真上で止まる。

 目一杯に広げられた魔手が、音もなく、影も作らず、落ちてくる。防壁がリシェルを守り、魔手を受け止めるが、重たさを伴った魔の気配が伸し掛かり続ける。周りにいた兵士たちは魔手が醸し出す圧力の餌食となって押し潰されていく。鎧を砕かれる音と悲痛な叫びを聞きながら、リシェルはゾギアへの怒りを募らせていく。

 アルテナの剣を魔手の掌に突き立てる。刃がずるずると魔手を穿ち、根元まで入ると力を込めて斬り下ろした。魔手は気配を分散させて薄れていく。重たい感覚も消えて、リシェルは防壁の力を弱めた。周りで倒れる兵士たちは惨い死に姿だった。魔手の力をまともに受けたのだろう。砕けた鎧と肉片が血溜まりに浮かび、形を保っている死体はなかった。

「何をしている。捕らえろ、と言っただろう」

 常軌を逸した死を目の当たりにして戦慄する兵士たちに、ゾギアは冷たくそう言い放った。兵士たちはたじろぐが、その足はじりじりと引っ張られるようして少しずつリシェルに向かわされていた。

 仲間の残骸を踏み越えて、兵士たちは恐怖と嘆きの雄叫びと共にリシェルを斬りつける。リシェルは剣を交える気が起きなかった。防壁で彼らを拒絶するが、すぐに立ち上がって覚束ない足取りのまま向かってくる。皇帝に与し、その圧政を甘受している以上、彼らも許すべきでない敵であるが、命を握られて前に進むことしか許されていない姿は憐れでしかなく、斬り伏せようと思う気力を削がれた。

 増援が呼ばれ、玉座の間は兵士で溢れかえる。リシェルは誰一人として斬らなかったので、数は減らない。そうなると、防壁を絶え間なく維持し続けねばならず、次第に効力が弱まっていった。

 ゾギアさえ倒せれば、と玉座に向かおうにも兵士が立ち塞がる。撥ね退けても撥ね退けても、兵士は群がってきて進ませてくれない。兵士の相手をする最中、魔の気配の増幅を感じた。気配は大きくなりながら、手の形に変化する。

 リシェルは防壁の力が尽きかけていることを察していた。魔手を止めるには力が足りない。あれに襲われたら、兵士たちと同じく無惨な死が待っている。今までの魔手より大きく禍々しい姿に変わる魔手を仰ぎ、悔しさが胸からせり上がってくる。

「どうすれば……」

 屈しかけた言葉を、竪琴の音色が包む。何処からか奏でられる清らかな音の律動が、玉座の間を満たし、緊張と恐怖を和らげていく。兵士たちは音色に魅入られたかのように呆然と立ち尽くす。

 完成されつつあった魔手は音に合わせて砂のように崩れていく。ゾギアは剣を手にしたまま硬直していた。リシェルも唖然としたまま、辺りを見回していたが、音色に乗ってやってきた言葉で我に返った。

「今のうちに逃げてください」

 リシェルはその声に従い、アルテナの剣を納めて立ち尽くしたままの兵士たちの間を素早く縫っていき、玉座の間から脱した。扉の近くや階段の下を見ても、言葉を届けてくれた人物は見当たらなかったが、リシェルは足を止めずに階段を駆け下りて暗闇の回廊を突っ走る。

 足元も分からない中、感覚だけで真っ直ぐ走り続けていると、目の前に小さな明かりが浮かび上がった。近付いていくと明かりを持つ人物が見えてくる。その顔を確かめて、リシェルは立ち止まった。

「また会ったな。奇怪な剣を持つ少女よ」

 イルヴァニスは明かりを床に置いて剣を抜く。頼りない光はイルヴァニスの顔を闇に置いていってしまった。

「我が主に害をなす真紅の聖女。君を殺すことこそ、我が主に絶対の忠義を示す好機。情けはかけないが、君に戦士としての誇りを保つ権利は与えてやる。さあ、剣を抜きたまえ。戦いの末、君の望む形で死なせてやろう」

 リシェルは静かに首を振る。

「貴方を斬ってしまえば、ミーナさんにもミゲイルさんにも恨まれてしまいます、イルヴァニスさん」

 暫しの沈黙の後、闇の中からイルヴァニスの声が届く。

「やはり、ミーナたちの手引きがあって此処に来たのか。さりとて、君を斬らない理由にはならない。皇帝の剣となり犬となり、マシティアを脅かす者を排除するのがイルヴァニス家に生まれた者に課せられる宿命だ」

「ならば、ミゲイルさんや捨て犬街にいる人たちを助けたのはどうしてなんですか? ゾギアは彼らを殺そうとしていた。貴方はそれに背いて彼らを救った。その血に継承されてきた忠義を覆すくらいに貴方は彼らの命を尊び、ゾギアの行いを許しがたいと思っていたのではないですか」

 リシェルは闇の一点だけを見つめ続ける。

「ミーナさんを私に託してくれたのは、イルヴァニス家の生き方を真似てほしくなかったから。そして、道を外れた皇帝のために力を尽くしてほしくなかったから。貴方はミーナさんを正しい道に向かわせようとし、同時にゾギアへの反抗を示した。宿命とやらを背負い、全うせんとする人間が果たしてこのようなことをするでしょうか。はっきり言います。貴方に忠義はありません。イルヴァニスの血などというものの前に、貴方個人として正しいことを見定めて行動しているじゃないですか」

「戯言を。もう交わす言葉などない。剣を抜け。抜かぬのなら、死ぬだけだ!」

 明かりに映るイルヴァニスの足が動く。リシェルは剣を鞘に納めたまま、不動の姿勢で足音を聞いていた。駆ける音は目前まで迫り、そこで止まる。荒い息が顔に掛かり、落ち着きを取り戻しながら退いていく。

「何故だ」

 呼吸を整えながら、イルヴァニスは言う。

「何故、剣を抜かないんだ」

「斬る理由がないからです。私にも、貴方にも」

 深い溜め息が聞こえた。その後、刃が鞘に納まる音がした。

「私は償いきれない罪を犯した。それを贖うには皇帝の犬として死ぬしかないと思っていた。マシティア帝国は滅びる。新たな国を築くのはマシティアの民たちだ。その旗印たる聖女に殺されることでしか、民への贖罪にはならないだろうと」

 リシェルは床に落ちた明かりに拾いに行く。それを手に、イルヴァニスに近付く。

「死ぬことこそ、罪滅ぼしにはなりませんよ。貴方が救った人たちを置いていかないでください。この先、マシティアに平穏が戻った時、彼らには道標が必要です。その役目を果たせるのは貴方だけ、トゥーダさんだけなんですから」

 明かりがイルヴァニスの顔を照らし出す。憂いを帯びた瞳に小さな灯が映る。視線を幾許か迷わせた後、リシェルの視線に合わせた。その、刹那。

 短い呻き声を漏らし、イルヴァニスが闇の中に沈んだ。その背後から姿を見せたのはミーナだった。ミーナはイルヴァニスを無表情で見下ろしながら呟く。

「許されるはずないでしょう? 裏切ったのは貴方なんですから」

 その手に持つ短剣にはべったりと血が付き、刃先から滴っていた。ミーナは視線だけをリシェルに向ける。

「感謝するのは二度目だな。ありがとう、聖女様。あたしを捨てた下種野郎を殺させてくれて」

「なんてことを……」

 そう言いかけて、言葉が止まった。意識が足元の更に下に向く。魔の気配、魔獣のそれが遥か地中から凄まじい速さで上昇してくる。気配だけで、形を掴めない。途轍もなく大きいということだけは確かで、その形を掴みかけた時、激しい揺れが発生した。

 城全体が悲鳴を上げて揺れる。立っていることすらままならない。明かりが手から零れ落ち、床を滑っていく。轟音が響き、瓦礫が落ちてくる。リシェルは防壁の力を振り絞り、いるはずのイルヴァニスとミーナに授けようとする。が、激しい揺れのせいなのか、防壁の力は二人を捉えられなかった。

 闇が全てを閉ざしていてリシェルには見えていなかったが、頭上の天井は崩れて、瓦礫の塊となって落ちてきていた。それに気付かずとも、アルテナの剣はリシェルの意志なく、力を行使した。降り注ぐ瓦礫を防壁の力により弾き、リシェルは何かが起きているのを感じながら、事態が落ち着くのを待った。

 揺れが収まる。冷たい霧雨が体をじっとりと濡らす。城は崩壊し、瓦礫だけがそこに残った。リシェルは天を仰いだ。月光を雲の帳が遮り、地上には黒い影だけが立っている。雨音すらない夜の闇に無数の人の声が目立つ。それに増してリシェルの意識を向けさせていたのは蠢動する巨大な魔獣だった。

 太い胴とそれを支える四本の短い足、胴の後ろからしなやかな尾が伸び、その反対側に、尾と遜色ない長さの首が五つ。その先端にある蛇に似た頭はそれぞれが異なる方向を見て忙しなく動いていた。

 リシェルは魔の気配から魔獣の全貌を把握した。城と変わりないほどの大きな魔獣は瓦礫の上に立ち、辺りを探っている。何処かで上がった大きな声を拾い、その方向に全ての首が向いた。その一つが口を開けると、闇に光が齎された。

 魔獣の口から突然、炎の塊が生まれて地上に吐き出された。異様な明るさが魔獣の姿を暴く。異形の化け物と、それが吐く炎に方々で悲鳴が起こる。魔獣はその声に反応し、首を散らしてそれぞれの口から炎を吐いた。

 炎が地上を焼き尽くしていく。リシェルはその光景を唖然と眺めていた。皇帝かディルクが魔獣を呼び出したのだろう。その魔獣が城に居た人々を無差別に蹂躙している。その炎は城の跡地だけでなく城下の町にも及ぼうとしていた。

 頭の一つが此方に向いていることに気付けなかった。炎の塊が正確さを持ってリシェルの真上に落とされる。放心しているリシェルに向かって、炎の落ちる速さを越えて迫るものがあった。白い体の獣は駆け抜けながらリシェルを咥えて炎から逃げる。液体のように広がる炎を躱し、白馬リーンはリシェルを落とさないようにしっかりローブを噛んだまま、魔獣から遠ざかっていく。

 追走する炎から逃げ切り、城下の広場でリーンはリシェルを丁寧に離した。

「ありがとう、リーン。よく来てくれたね」

 どうやって帝都に入ったのかは分からないが、聖獣であるリーンならば容易いと思うことで納得した。労いと感謝を込めて顎の下を撫でた後、鞍に乗り手綱を握ってリーンを操った。首を回らせて炎の海に浮かぶ魔獣を見る。

 魔獣は炎を撒き散らしながら、ゆっくりと城下に下りてきていた。侵攻を止める方法は思いつかない。アルテナの剣ならば、斬れるのだろう。だが、巨大な魔獣を仕留めるのに何度斬りつければ良いのか想像も付かない。それに防壁の力も空になってしまったため、己の身を守る手段もない。それでも、魔獣に立ち向かえるのは自分しかいない。

 リシェルは意を決して魔獣に向かっていこうとするが、リーンは嫌がり進もうとしない。リーンに危険が及ぶ寸前までは彼の足を借りたかったが、それすらも許してくれないようだ。魔獣から離れようとするリーンを制そうと苦心していると、空に一筋の光が見えた。見覚えのあるそれに視線が奪われた。軌跡を残し、光は魔獣の頭の一つに突き刺さった。

 魔獣は悶えながら、炎を所構わず吐き散らす。リーンを操り、飛んでくる炎を避けながら、空に残る光の軌跡を目で辿る。消えかける軌跡をなぞるようにして、また光の一矢が飛んできた。今度は魔獣の炎に阻まれて当たらなかったが、その後もまさしく矢継ぎ早に光は放たれていた。

 魔獣は光の矢を炎で撃ち落とし、躱し、暴れながら遅々とした足取りで町に下りてくる。魔獣の動きを鈍らせてくれているのは光の矢だ。あれを放っているのは、ファルーナの聖絶士ハッドなのだろうか。彼も国境を越えてマシティア帝国に入ってきたということになるが、その理由がリシェルには見当が付かなかった。

 手綱を迷わせている間にリーンは勝手に走り、魔獣から離れていく。燃え盛る町の中、逃げていく人々が通りに溢れる。帝都から脱出しようとする彼らは我先にと駆けていく。倒壊し、燃える家屋によって狭まった道が人の流れを滞らせ、彼らの不安定な足取りのせいでリーンは止まらざるを得なくなった。リシェルは魔獣が放つ炎を気にしながら、リーンを何処に向かわせるかと考えていた。

「リシェル!」

 自分を呼ぶ声に反応する。背後から駆けてきた馬に乗っているのは屈強な大柄の男。まさかと思い、リシェルはその男の名を口にする。

「ドライスさん!」

 安堵を見せるリシェルに反し、ドライスは険しい顔をしていた。

「そっちから逃げるな。南門を抜けるぞ、ついてこい」

 でも、と言葉が出る前にドライスは馬を反転させて駆けていく。有無を言わせてもらえなかったが、躊躇う暇はない。リシェルはドライスを追って、人の少ない裏道を止まらずに駆け抜けていった。炎を受けて崩れた門を越えてもドライスは止まらない。なだらかな丘を登りきった所でリシェルは振り返って帝都を見下ろす。

 炎の海の中心で、魔獣が暴れている。降り注ぐ光の矢と炎によって、周囲の様子もよく見える。今立っている丘の反対側から列を成す大勢の人々が帝都に向かってきている。解放軍全員でも、その人数の半分にも満たないだろう。その列の後方から光の矢が次々と放たれていた。

「ファルーナの正規軍だ。おまけに聖絶士が何人かいる。魔獣は討伐されるだろうが、時間は掛かる。逃げるなら今の内だ」

 リシェルは振り返ってドライスを見る。

「何から逃げるんですか? もう魔獣の脅威から逃げ切りましたよ」

「馬鹿か。ファルーナの連中からに決まっているだろう。勝敗は決した。マシティア帝国はファルーナ教皇国の助力によって人民の手に渡る。奴らの目的は新たなマシティアとの協和。それにかこつけて南のロフティエ大陸へ勢力を伸ばすこと。そして、リシェル、お前を捕らえることだ」

 リシェルはぞっとする寒気を背中に感じた。自分の推測を口にする前にドライスがそれを言い放った。

「最初からハッドの掌の上だったんだ。お前に穴を穿たせて、勝機があればファルーナ軍と共にマシティアに侵入、解放軍を助けて新たな国となったマシティアに恩を作る。その後はお前を回収して口封じをしてしまえば、万事己の手柄となる。もし、お前が帝国に負けても、神器持ち逃げの幇助は誰も知ることではないから、奴は罪に問われない。むかつくが、どちらに転んでも損をしない上策だ」

 ドライスは馬の腹を蹴って進ませる。

「南に行けば、奴らの手はまだ及ばない。それに、目的地もそっちにある」

「まさか、ディアが?」

 ドライスは強く頷く。

「とにかく落ち着ける場所まで走るぞ。詳しい話は後だ」

 頭の中の整理が付かないまま、ドライスと共に帝都パギンドゥから離れていく。置いていったものの多さが心残りだったが、取り返すだけの力を持っていなかった。夜通し駆けて着いたのは、住まう者が消えた廃村だった。

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