認知症の妻

さかもと

認知症の妻

 最初に、妻の琴美の様子がおかしいことに気づいたのは、二年前の夏のことだった。


 あの日は確か、かんかん照りに暑い日だった。

 在宅でウェブデザイナーの仕事をしている僕は、その日も朝からずっと一つの仕事に没頭していて、琴美が買い物に出かけたことにも気づいていなかった。

 お昼前に、手元の携帯電話のベルが鳴ったので、僕は画面をモニターに向けたまま、電話を掴んで耳に近づけた。

「卓也、どうしよう……」

 電話の向こう側から聞こえてきたのは琴美の声だった。いつもと違う、少しおびえたような声音だったが、それでも琴美の声だとすぐにわかった。

「どうした?」

 僕はモニターから目を逸らして、窓の外に目をやった。太陽の光がぎらぎらとまぶしそうで、思わず目を細める。

「うちのマンションって、どこだったっけ?」

 一瞬、琴美が何を言おうとしているのかわからなくなった。

「どういうこと? うちのマンションって、つまり、ここの場所ってこと?」

 琴美は、「うん……」とぼやっとした返事をした後、「ごめん、さっき買い物に出かけたんだけど、本当にわからなくなっちゃって、困ってるんだ」と、泣きそうな声で伝えてきた。

「今、どこにいるの?」

「駅前のスーパーを出て、大通りを渡った所。そこまで来たんだけど、そこからどうやって家に帰ればいいのかわからなくなっちゃって……」

 そう説明する琴美の声は迫真そのもので、どうやら僕をからかおうとして言っているわけではなさそうだった。今すぐ助けを必要としているように感じた。

「わかった、とにかく今からすぐそこまで迎えに行くから、じっとしててよ」

 僕はそう言うと電話を切った。

 自宅の場所がわからなくなるなんて、そんなばかなことがあるだろうか。もしかしたら、どこかで転んで、強く頭でもぶつけたのかもしれない。そんなふうに考えながら、僕は適当な服に着替えて、ばたばたと外へ飛び出していった。


 それから、琴美の挙動は日を追うごとにどんどんおかしくなっていった。

 最初のうちは、料理の途中で手順がわからなくなったり、食事をとったこと自体を忘れてしまって、また食事の支度を始めようとしたりと、そんなことがよく起こった。

 家事がだんだんできなくなっていくことと平行して、日常生活にも支障が出てくるようになっていった。僕との会話の途中で、何について話していたのかを忘れてしまったり、しまいには夫である僕の顔を見て、それが誰なのかわからなくなってしまう有様だった。

 若年性認知症。

 病院の医師からは、そう診断を下されていた。脳のCTでは萎縮が見られなかったが、認知機能テストを繰り返した結果、最終的に認知症であるとの診断が下りた。

 認知症といえば、高齢者のかかる病気だというイメージを持っていたのだが、僕たちのように30代でも発症する可能性は希にあるという。いずれにしても、現代の医療では治療することができない、やっかいな病気だった。

 僕は、在宅の仕事を続けながらも、徐々に琴美の介護に忙殺されるようになっていった。

 僕が少しでも目を離すと、勝手にどこかへふらりと出て行ってしまうので、四六時中目が離せないのだ。いっそのこと、手錠でベッドに繋いでおけたらどれほど楽になるだろう。そんな気持ちになることも、たまにあった。


 そんなある日のこと、風呂にも自力で入ることができなくなってしまった琴美の背中を、後ろからタオルで拭いてあげていた時のことだった。

「ごめんね、こんなに面倒ばかりかけてしまって……」

 珍しくそう話しかけてきた琴美に対して、僕はなんと応えてよいのかわからなくなってしまった。

「私達が知り合った時はよかったよね、お互い健康で、何一つ不自由ない暮らしができていたし。結婚して、こんなことになってしまったけど。それでもあなたは何一つ文句を言わずに私の身の回りの世話をしてくれている。本当にありがとう」

 琴美は私に背中を向けながら、そう続けた。顔は前に向いたままなので、彼女の表情はわからない。

「いいんだよ、気にしないで。僕たち、夫婦だろ。どんな境遇に陥ったとしても、支え合って生きていくのが当然だろ」

 僕がそう言うと、琴美はゆっくりと顔をこちらに向けながらこう言った。

「うん、ありがとうね、トシキ」

「トシキって誰だよ……、僕の名前は卓也だよ」

「ありがとう、トシキ、本当にトシキと出会えてよかった。私は本当に幸せ者だよ」

 そう言いながら、にっこりと口を横一文字に広げて笑う琴美の顔を、僕は暗澹たる気持ちで見つめていた。きっと僕のことを、他の男と間違えているのだ。たぶん、昔つきあっていた男なのだろうが、そこまで認知機能がおかしくなってしまっている琴美に、僕は絶望していた。

 もう、疲れた。

 これからも、ずっとこんな生活を続けていけるんだろうか。

 いっそのこと、二人で……。

 日頃の介護の疲れから精神的に参っていた僕の意識は、次第にそんな心持ちへと向かっていくのだった。


 琴美の様子がおかしくなりだしてから、二年ほどが経っていた。

 それまで抱えていた仕事に、ある程度の区切りをつけた僕は、全ての取引先に連絡を入れて、しばらく仕事を休ませてもらうことにした。

 そして、レンタカーを借りて、琴美と二人で人気のない山奥へと向かった。途中でホームセンターに寄って買い物を済ませ、山へ入ってからは鬱蒼と木が生い茂る静かな場所を探し出して、そこへ車を止めた。助手席にいた琴美はずっと、うつろな表情のまま無言でおとなしく前を向いて座っているだけだった。

 僕は、ガムテープを使って車内のあらゆる窓の隙間に目張りをしていった。そして、後部座席に練炭を設置して、ライターで火をつけた。琴美は僕のしていることを、不思議そうな顔をしながらずっと見ていたが、何も言わずにじっとしていた。

 僕は運転席に戻り、リクライニングシートを軽く倒した。隣にいる琴美と二人で手を繋いで、楽な姿勢になった。

 車内の空気が鉛のように変化して、徐々に意識がぼんやりとしてきた頃、琴美がふいに話しかけてきた。

「ねぇ、卓也。昔、浮気してたでしょ」

 思わず僕は琴美の方に顔を向けていた。その時の彼女の表情は、健康だった頃と変わりなく、活き活きとした眼差しをこちらに向けていた。

「私、知ってるんだよ。卓也が私と結婚してからも、他の女の人とよく会ったりしてたこと」

 そんな話をしてくる琴美は、なぜだか少しも怒っている様には見えなかった。目元が少し微笑んでいる。

「結婚する前から、他に女の人がいることは知ってたんだけど、私と結婚したら、自然にその人から離れていってくれると思ってたんだよ。でも、そうはならずに、卓也は私の目を盗んでずっとその人との関係を続けていた」

 僕は琴美から目を逸らしてうなだれた。琴美の話が、認知症からくる妄想などではなく、本当のことだったからだ。確かに、そういう関係をずるずると続けていた時期が、過去にあった。でも、もう過去の話だ。

「それで私、考えたんだ。どうやったら卓也が私の方だけを向いてくれるのかって。私が、何か介護が必要なくらいの重い病気にかかれば、卓也は私のことで手一杯になって、浮気相手と別れざるをえなくなるんじゃないかなって、そう考えたんだ」

 そう話す琴美の口調は、いつものようなぼんやりした調子ではなく、はきはきと自分の意志を持って話している、健康だった頃の話し方に戻っていた。

「私、この病気にかかって、よかったって今は思ってる。卓也が私のところへ戻ってきてくれて、こうやって一生を添い遂げることができて、今、本当に幸せだよ」

 僕が琴美の顔に視線を戻すと、琴美は僕の方を向いてにっこりと口を横一文字に広げて笑った。

「琴美、もしかして……」

 今までずっと、認知症のふりをしていたのか?

 薄れゆく意識の中で、僕はそう言おうとしたのだが、口からは何も言葉が出てこなかった。

 僕は再び琴美から目を逸らして、窓の外に目をやった。太陽の光がぎらぎらとまぶしそうで、思わず目を細める。

 左手で握っている琴美の手が、僕を握り返してくる力がほんのちょっと強くなった。

 それはとてもとても、暖かい手のひらの感触だった。

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認知症の妻 さかもと @sakamoto_777

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