動かす青年

西野ゆう

動かす青年

「石が、動いているのです」

 私は、彼の声を始めて聞いた日のことを思い出していた。その時の彼は、黒のスーツに身を包み、民家の低いブロック塀に手をついて、前かがみになっていた。

 学校帰り、住宅地の角を曲がって私の視界に彼が入ってから、その隣に通り掛るまで、彼はその体勢のままだった。気分でも悪いのかと「大丈夫ですか?」と声を掛けた答えがそれだった。彼の肩に掛けられた刺繍の施された白い肩帯を見て、近くの教会の牧師であろうとは想像できたが、あいにく教会に足を踏み入れたことのない私は、牧師という人々がどういう考えを持っているものかと、興味本位で質問を重ねた。

「石とは、どの石でしょうか?」

 彼と視線を同じくして訊いてみた。低い塀のすぐ先に、大名竹が数本植えられていたが、庭の様子は一望できた。民家にしては珍しく、枯山水のある庭だった。

 ふと牧師の横顔を覗いた。黒い髪に黒い瞳。言葉も流暢であるし、日本人かと思ったが、やや彫りが深くて鼻も高く、肌の色も白い。歳は二十代半ばくらいだろうか。

 彼は私の視線など気にする様子もなく、枯山水の山にあたる岩を指さした。

「あの、サークルの中心の石ですよ。動いているでしょう?」

 岩が動く? ピサの斜塔が地盤沈下で傾いたように、この庭の地盤が緩くなっているのだろうか。そう一瞬考えたが、枯山水の模様が、そう見せているのだと気付いた。

「私には水の方が動いているように見えます」

「水? どこにありますか?」

 彼は曲げていた腰をようやく伸ばして、私に訊いた。直立した彼の瞳は、私より少なくとも三十センチ以上高い位置にあった。私が少ない知識ながらも枯山水の説明をすると、彼はその瞳を輝かせて説明に聞き入っていた。

「なるほど。良く分かりました。しかし、お嬢さんには水が動いて見えて、私には山が動いて見える。不思議なものですね。あるいは、どちらかが本当に動いているのかも」

 彼はそう言うと片目を閉じ、ブロック塀の上に置いた彼自身の手と、大名竹、庭石を一直線に結んだ位置を見定めていた。そして、足元に転がっていた小さな石を摘み上げると、ブロック塀の上に置いた。

「来週もこの道を通る用があります。その時にもう一度見たら、本当に動いているか確かめられるでしょう」

 彼はそう言って、ようやくその場から離れていった。

 来週の、同じ日、同じ時間だろうか。

 離れていく彼の背中に、そこまで訊く勇気のなかった私は、奇妙な牧師に会ったという記憶だけを残して、動く石のことはすっかり忘れていた。今日のこの時まで。

「石は、動いていましたか?」

 数日後、見覚えのある牧師が、あの枯山水をやはり塀に手をついて眺めていた。

「ああ、お嬢さんですか。動いていたのは、山でも水でもなく、私自身だったようです」

「人が動くのは不思議でもなんでもないですね」

「いいえ。それこそが最も不思議なことなのですよ。そうは思いませんか?」

 私は、彼の言葉に、動かぬ枯山水を暫く眺め続けていた。

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動かす青年 西野ゆう @ukizm

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