あやしの山の七竈

有沢楓

第1話 あやしの山の七竈

 みやこの南に連なりし、小さき古き山々に、あやしの山があるという。

 黄昏時に鬼が赤き門をくぐりて、女人をかどわかすという。

 この山に名はなく、麓の村人はただ、その姿より赤き山とのみ呼ぶ。


              ***


「……さま、姫さま……」


 たっ、たっ。徐々に近く、狭くなる小刻みの拍子の上に、少女の声がゆらゆらと零れ落ちそうに乗っている。


 たん、と音が表の敷石でしたかと思うと、引き戸が木の擦れる音を立てて、がらりと開いた。


 途端に水無月の眩しい陽光がさっと入り込み、ほの暗い部屋が照らし出される。


「一の姫さま!」


 見慣れた少女はごとりと戸を最後まで押し込むと、そう彼女を呼んだ。室内からは逆光で少々見づらいが、声音と経験から少女が頬を膨らませていることは容易に想像がつく。


 姫と呼ばれた彼女は強張る両足を伸ばして立ち上がり、煤だらけの顔を竈から上げた。


「あら、どうしたの、茜?」


 開いた扉を挟んだ二人の少女は、年齢はそう変わらない。しかし、何もかもが対照的だ。


 茜の陽の光を受けた長い髪は丁寧に櫛削られ、白い単の上にきっぱりとした黄と浅黄の苗色襲を着ているのが若々しい。すっとした瞳は全て見逃すまいときょろきょろと動き、高い鼻にきりりと引き結んだ唇は、いかにも利発そうな顔立ちだった。


 対して姫と呼ばれた少女は、茜よりも長い髪をしていたが、首の後ろで束ねあげ、もともとの白い肌のあちこちに煤がこびり付き、どこが髪でどこが眉なのか分からないほどだった。単衣はくすんで灰白色になり、その上に一枚重ねた袿の存在が辛うじて貴族の娘であることを示していたが、煤だけでなくあちこちに跳ねた染料や汚れで元の布の色が分からず、そのおかげでつぎを当てた縫い目が隠れているようなありさまだった。


 茜が鼻をひく、と動かすと一の姫はおっとりと、白い筋の目立つ唇を開いた。


「ふふ、灰の香かしら? ああでも、お前にまで香りが移ってしまうわね」


 かさかさとした唇から流れる声は、それでも温かい春の空気をまとっていた。


「おいたわしい。このような煙臭い場所に、何故姫さまが……」


 茜は目元を抑えると、土間で裾が汚れるのも構わずにしゃがみこんだ。元より、先程扉を開ける時に、裾を上げるのに使っていた両手を放してしまっている。


 姫はそんな茜の手を取って膝に置く。ささくれだった手にはひびが入り、乾いた血がこびり付いていた。


「ひしおの香りとどちらがいいかしらね。一昨日は縫い物、昨日は台盤所、今日は竈……でも私、竈の日が一番好きなのよ」


 煙臭いと忌避されて、寝殿から離して立てられた大炊殿は、薄暗く煙臭く煤だらけだった。姫と呼ばれる身分の者が気まぐれにでも立ち入るところではない。まして使用人たちと共に働くなど、とんでもないことだった。


 縫い物ですら、ここの女房たちは面倒と嫌がってしないのだ。いわんや竈をや、である。


 それでも姫は茜ににっこりと笑顔を見せた。


 ……が、それは近づいてくる足跡によってたちまち霞のように消え失せてしまう。


「……くど! くどはおらぬのか!」


 茜は顔を顔をしかめた。ただでさえ声を聞くのも嫌な相手なのに、それが主人を呼ぶ呼び方ときたら侮辱と侮蔑に満ちていた。竈とは、煮炊きをする場所、それももともと煙を出す穴の名前だ。


 彼女は高く足音を鳴らすと、茜の後ろに立って二人を見下ろした。


「返事くらいおし。……まぁ、茜。またこんなところに来ているの?」


 この女性が、この中納言邸の女あるじ・北の方であった。


 美しいといえる顔立ちではあったが、一の姫に対する憎しみがさきに出ており、美しさよりも恐れを呼び起こす。彼女が来れば文句の一つも言わずに働く一の姫でさえ、俯いて耐えるように唇をかみしめるのだ。


 北の方は嫌そうに眉をひそめて口元を覆うと、


「ああ嫌な臭いだ。こんなところに来たくはなかったわ。


 ……茜、その着物はそこの小娘じゃなく、私たちがあげたものなんだからね。匂いが邸に染みついてはかなわないわ。早く着替えて、一の姫のところへ行っておいで」


 北の方の一の姫、と言う言葉に茜は顔を上げて反論する。


「姫さまはこちらにおいでです」

「解っているくせに、私の姫のところだよ。全く、使用人も全部取り替えられたらねぇ……邸も古臭いし」


 ぶつぶつと不満げに呟く。その古臭い邸の古臭い部屋から、今はくどと呼ばれる一の姫を追い出したことなど忘れているのだろう。


「まあいい。……ところで、くど。物詣がしたいとか言ってたね」


 北の方はころり、と打って変わって猫なで声を発する。姫は俯いたまま、小さく答えた。


「はい」

「最近大殿さまのお身体が悪いのは知ってるだろう? 役に立つ機会だよ。赤の山に行っておいで」


 茜が抗議の声を上げようとしたが、それを北の方はきつい視線で黙らせた。


「じゃあ、任せたからね」


 北の方は言い捨てると、用は済んだとばかりさっさと行ってしまった。


「姫といっても北の方が連れて来たんじゃありませんか。そのくせ大きな顔で、御帳台からもおいそれと出さず大事にかしずいて……」


 茜は溜息と共にゆっくりと横に首を振ると、自分の姫の手を取った。


「姫さま、何度も申しあげましたけれど、もう一度言わせてください。どうか、明日にでも母の家においで下さい」

「それはできないわ。お父様を裏切ることになるもの」

「姫様が亡き北の方から頂いた鏡や硯など、何もかも取り上げて、この仕打ち、ここにいてはいけませんわ。

 母は今、通いでさる名のある方に仕えております。小さな家ですが、心置きなくくつろいでいただけますもの。そのうち、いい殿方も見つかりますわ」

「でも、おまえの母にまで迷惑がかかるわ」

「母もお育てした姫さまのことを本当に心配して、すぐにでも二人で帰ってきなさい、と」


 茜の母は、姫の乳母であった。つまり茜は彼女にとって乳母子――姉妹のような間柄。


 前の北の方亡き後、この屋敷は父の中納言所有となり、中納言は後妻をその子と共に迎えた。先妻との間の子は一の姫ひとりしかない。先妻には親も亡くし、遠縁がいるばかり。


 中納言の多忙をいいことに、邸を任された北の方は、思うままに振るまった。今までいた使用人の多くは、主人を失ったり辛い仕打ちを受けたことにより、今は殆ど残っていない。茜の母、乳母もまたそれなりの身分と教養のある女性だったが、それゆえに北の方に暇を出されていた。


「赤の山――あのあやしの山には、鬼が棲むとか、獣や賊も出るとか。確かに昔、神社があったとか音に聞いていますが……あの北の方がそのような場所に姫さまをやるなど、到底善意とは考えられませんわ。気晴らしの物詣なら、他にいくらでも……」

「いいのよ、物詣がしたいといったのは私ですもの」

「姫さま……」


 ぼんやりと笑う姫に、茜は絶句する。


 昔は、こうではなかった。


 まだ髪を結う前の幼い頃、母が生きていた頃の姫は快活で、茜を引っ張りまわしていた。よく悪戯に付き合わされたものだ。その度に乳母に叱られたものだ。それを姫の母が楽しそうに見ていたものだった。


 姫がまた竈の前に座り込み、竹の筒息を吹き込む。薪がはぜ、火がぶわっと吹き上がる。


 手慣れた様子で下々の仕事を進んでするその姿に、茜は彼女のうちに決意のようなものを見て、落胆しながらその場を離れた。





 翌朝早く、一台の牛車が邸を出発した。供は雇ったばかりの若い牛飼い童と、無口な下働きの男の二人だけである。


 茜も同行を願い出たが、多忙だからと仕事を与えられてしまった。出発前に父親に合わせるために北の方が形ばかり整えた壺装束の、着古した単衣と袿は短く、四人乗りの牛車を埋めるには足りない。


 もとより身の回りのことは一通りしてきたのである、侍女がおらずとも大して困らない。それでも彼女は、母の庇護の元暮らしていた頃を思い出して寂しさを感じた。


 当時はぜいたくとも思っていなかったけれど、その日がなければ今の自分はもっとみじめだったろう。姫の母は字が綺麗な人で手習いもよく姫にさせた。そのために異母姉妹の恋文の代筆や歌の代作をさせられたが、外界とのささやかな繋がりでもあった。


手紙のやり取りをするためにと、読書は許された。辛い時は歌物語の世界に入り込み現実を忘れた。また詠んだ歌に誰か――おそらくは立派な公達が、様々な返歌をしてくれるのが嬉しかった。それが自分に向けられたものでなくても、自分の歌に心を動かされ、気持ち込めた歌を送ってくれることが。


(けれど、それも今日で終わり……。

 茜から伝え聞くに、先日、その代作をした北の方の一の姫のところへ、何とかの少将とかいう方がいらしたらしい。その時、姫君自らの手跡を見て、色々と尋ねたとか……)


 市内を抜けてしばらく行くと、床面がたがたと揺れる。道が悪くなっただけでないだろう。この牛車も動くたびに嫌な音がして、屋形の染め糸が何寸か垂れ下がっていた。


 やがて山道を長々と行き、長く続く揺れに気持ちが悪くなって来た頃……ふいに牛車は止まった。


「着きましたよ」


 牛飼い童に声をかけられ、彼女は降りた。一人で行くと告げて正面の獣道を歩いていく。


 鮮やかな緑と土の匂いが混じり合った山の、茂みを透かして、古い鳥居の向こうにこれもまた古い神社が見えた。


 単に古いというだけではない。朽ちかけたと言った方が適当だった。石の鳥居はともかく、木造の建物は傾きかけていた。何か祭神の名が炭で書いてあったようだが、すり切れて読み取れない。


 どんな神だかも聞いてはいなかった。そっと手を当てて土埃を払うと、彼女は市女笠を取り、丁寧に手を合わせた。


 そうしてまた笠を被って道を戻り、牛車にふたたび乗り込もうとしたが、戻ってきたときにその姿は跡形もなく消えていた。


 夏の陽は落ちてからが早い。丹色に染まった獣道のあちこちを探したが、何もない。


「どうしたの……?」


 声をかけたが、応えはない。人の気配すら。


「誰か……? 誰かいないの?」


 訊ねたが、しん、と静まりかえるばかり。


 呆然とする目の前をひゅう、と風が吹き過ぎて、返事の代わりにざわざわ葉が鳴った。


 寒気を感じて、身体をかき抱く。


 北の方だって、人間だ。賊に襲われたり、獣に襲われたりすればもうけもの……そんな、不可抗力を装うくらいだと思っていたのだが……。


「……捨てられたの……?」


 いまだ現実感がなく、自分の声を確かめるように呟く。


 すると「うわっ!」と、葉鳴りの向こうで男の悲鳴じみた声が聞こえた。


 牛車の轍を見付けて、通って来た細い道を小走りに駆けてしばらくいくと、そこには道の真ん中に倒れている牛飼い童と、今まさに慌てふためき逃げていく男の姿があった。遠くの森の中を頭を左右に振って奥へ駆けていく牛の尻が見えた。


 騒ぎの中心には見たこともない、青めいた毛色の獣がいた。それは逃げていく男を追おうとして走り出したが、すぐ引き返してくる。


 姫の身体は動かなかったが、獣が牛飼い童にのしかかったのを見て我に返った。


(……逃げなきゃ!)


 脚をもつれさせながら走り、引き返す。咄嗟に誰もいない牛車に再び乗り込み、息を整える。


 どうしよう、どうしよう――息を整えながら、考えを巡らせる。獣は鼻が利く、嗅ぎつかれたら薄い御簾など障害にもならない。


 来ないことにかけて閉じこもったら? 外は黄昏時が迫っており、あっという間に夜になるだろう。


 ぶるっと、身が震えた。身が震えて……、呟いた。


「死にたくない」


 消え入りそうな声だったが、明晰だった。


 ここに来るまでは、鳥野辺に行くこともあろうかと、覚悟を決めていたつもりだったが、本当につもりだったらしい。


 であれば……出て生きなければ。外に出ると、見付からぬように牛車の乗り口から降りて、黄昏の山を走った。陽が木々にさえぎられ、予想以上に暗い。迂回して、あの獣がいた道に出ようと茂みに足を踏み入れ、しばらく歩いて……道がないことに気付く。


(迷ったの……? ……あら、これは?)


 代わりに、赤く染まった道に、白い花が落ちていた。


 小さく可憐な白い五枚の花弁に、突き出た十何本以上はあろうか、おしべが攻撃的に見えて気味が悪かった。それが点々と誘うように落ちている。


 視線を辿っていくと、先程物詣をした鳥居と神社が見えた。その向こうに……さっきは気付かなかったが、裏手に小さな小屋があった。


(ここでなら一晩過ごせる……)


 夜がひたひたと迫ってきている。何も恐ろしいものが棲みついていないことを願って、扉を引いた。両手で思いきり引くと、固い手応えと共に埃とかびの匂いがかすかにした。


 しかし、ということは、此処には賊が棲んでいない、ということだった。


 幸いにも中には竈があった。懐から母の形見として唯一取り上げられなかった炭を置き、散らばっていた小枝をかき集め火打石で打つと、何度かの試みの後にぽっと火が点き、暖かな光が広がった。


 獣も火を恐れるという。今夜はここで過ごすとしよう。



「でも、これからどうしよう……邸に帰れなければ、京でどこかの下女として……?」


 でもそれでは、病床の父を見捨てることになる。彼女はぎゅっと拳を握りしめる。唇の端が一瞬震えた。


「ならばせめて、お父様のお身体に憑いた物の怪を追い払ってください……」


 父が病を得たのは再婚してからすぐのこと。


 始めはただの咳かと思われたが、徐々に具合が悪くなり、最近は出仕できないことも増えていると聞く。それを北の方はこの家に物の怪が憑いているからだと、姫を貶めたのだ。


「やはり、帰れぬのでしょうか。もし私が原因なら、もう二度と邸には戻りません。名も知れぬ神よ、ですからどうか……」

「願うのがそれか?」


 ――気配を感じなかった。


 肩をびくりと揺らして声に振り向くその鼻先にふわりと橘の香が匂った。こんな粗末な場所には場違いだ。


 彼女は目を見開く。そこにいたのは、一人の少年だった。白に青の菊重の狩衣に、女と見紛う線の細い顔立ち。昔、絵巻物で見た物語の主人公はかくやあろうか、といった風だった。


「何だ……顔などを出して。扇はないのか?」


 呆れたような少年の声に、つい魅入っていたことに気付くと、姫は咄嗟に顔を下げ、単衣の袖で口元を覆う。


「ないのか。しかしすり切れた装束だが、追剥ぎにでも遭ったのか? いや、それなら絹を持っていかぬ筈がないか。女房が暇を出されたのか?」


 睥睨するように立ち、大人のような言い方をした。確かに成人ではあったろう――彼は烏帽子を被っていた。それでも四つほどは年下であろうか、初冠したばかりといった容姿なのに、いかにも、老練な雰囲気を漂わせている。


 そのくせ狩衣の白よりも白そうに見えた指先は、重いものなど持った事が無いようで、姫は日に焼けた自分の手が急に恥ずかしくも思えた。


 しかし、何故そんな高貴な男がこのようなところにいるのだろう?


「何しにここまで来た?」


 疑問を訊ねる前に、彼はそう訊ねた。


「物詣に参りましたが供とはぐれ、道に迷いました」

「牛車からはぐれる? おかしなことを言うな」


 彼は笑った。自信ありげな顔だったが、少し年頃らしく可愛らしく見える。それで姫は落ち着きを取り戻し、口を開いた。


「それを言うなら、あなたもでしょう? こんなところに……人が住んでいたのね?」

「昔はそれなりの名がある社だったからな」

「昔は……って、あなたはここに住んでいる人ではないの?」

「何だ、ここをどこだと思っている? 拝殿の後ろにあるのは……まぁいい、おまえの名は何だ」

「女性に名を訪ねるなど、無礼ではないの? 使用人たちに顔を見られたような身とて、誇りはあります」

「それでは不便だ」


 姫はいっそう顔を俯かせると、瞼を震わせながら声を振り絞るように言った。


「ただ……くど、とのみ呼ばれています」


 ますます不思議そうな顔で、少年は姫の全身を改めて見渡した。不躾ではあったが、何故か不思議と嫌な感じではない。


「そんなものが本当の名であるはずがない。言え。山道を降りるには私の手助けが必要だろう。

 名を明かすなど無作法に思えるかもしれんが、獣や物の怪に出くわさないとは限らんぞ。私はこの山で暮らして長い。お前の力になってやれると思うが?」

「梓……です」

「では梓、お前に命じる。ここを掃除しろ。泊まらせてもらおうというのだ、それくらいは当然だろう。……さあ、裏手に小さな沢がある。そこから水を汲んで来い。この社の周りには獣も出ない」


 梓は幾つか不審を覚えないでもなかったが、大人しく従った。確かに明日の朝も、一人で無事に山を降りられるという保障はなかったからだ。


 箒で天井や壁を掃き終え、布で床を磨いていくと、その様子を竈に鍋をかけながら、少年は不思議そうに眺める。


「大分酷い雇い主だったと見えるが、それにしてはこの炭、ナナカマドの良いものだな」


 首を傾げる彼に、梓は床を磨き上げながら小さく答えた。


「……これは母の形見です。母は斎宮でした。京に帰って後に、お父様と結婚なさったと……今はもう鳥野辺に眠っておりますが」

「ほう、なんと宮腹であったか。私も伊勢に知り合いがいてな……会ったことがあるかもしれん」


 梓はふと、この社は山にいくつかある神社のひとつで、彼もまた管理する一族の者ではないかと思った。普段はここではなく、別のもっと大きな神社の側で暮らしているのかもしれない。この山にそういった神社があるとは、聞いた事が無かっただけで……。


「……驚いたな。手際がいい」


 あっという間に綺麗になった小屋に、彼は眼を嬉しそうに細めた。


「そうでしょうか」

「ああ、もう何十年もの間忘れられた本殿だからな。こうやって竈に火が入るのも本当に久しぶりだ――さあ、食事にしよう」


 その顔はとても満足げで安らぎに満ち、尊大な物言いに似合わず穏やかだった。


 ぐつぐつと煮立つ鍋の中には、鹿肉と山菜を煮込んだ暖かそうな食事があった。いただきます、と口に含むと、夏でも冷える空気にそれはありがたいものだった。冷えていた身体も心も芯から温まってくるようだった。


「……美味しい」

「だろう」


 正直な言葉が口について出ると、少年は得意げに笑う。こうすると年相応に見えるのが不思議なものだった。そう思って梓の頬がゆるんだ瞬間、彼は尊大な口調で、


「……そうだな、腹が膨れたら何か余興をせよ。楽器でもあればいいのだが……そうだな、歌は詠まぬのか?」


 と、言った。何杯かお代りをして食事を終えると、少年は拝殿に残っていた琴を持ってきた。梓が弾き、彼が歌い、手拍子を打ち、くつろいでくる。暖かくなり眠気も襲い、気が緩む。ぽつりぽつりと身の上話をするに及んで、少年はふうと、息をついた。


「そうか。……成程……おまえが邪魔になったのは、おまえ自身に原因があるのではないな。いや、そうとも言えるが。まぁ正体が何にせよ、どんな事情があるかは知らぬが、おまえにくど、などという名を付けた者だ。ろくなものではあるまい」


 腕を組んでいたが、何かを思いついたようにトントンと指で床を叩いた。


「どういうことでしょうか?」

「伊勢の知人はおまえの母上にどうやら贈り物をしたらしい。でなければおまえがわたしをあっさりと見付けることなどできなかったろうに」


 安心せよ、すべてうまくいく。と少年は頭を撫でた。


「な、何を……!」

「竈に火を入れ、ここを綺麗にした礼だ。おまえが望むなら、きっとまた元の通りの暮らしに戻れるはずだ」


 そう言って、彼はもう寝ると言って、寝ころんだ。


 梓もまた竈のそばで温かさを感じながら、寝入ってしまった。





 翌朝、彼は牛車のところまで送ってくれた。途中狼は寄ってきたが、彼の手の匂いを嗅ぐと首を傾げて行ってしまった。


「これを持っていけ、妖や賊が近づくことも、迷うこともない」


 梓は男が差し出した即席の松明を受け取る。竈から火を移したものだった。それを信じて坂を下へ下へと行くと、何処をどう歩いたのか、来た時よりもずっと早く、すぐに山を下りることができた。そうして、もう帰ることはないと思っていた邸へと帰って来た。


 茜が心配で裏手を覗くと、邸の使いをしていたのだろう、ゆきという顔見知りの下女がやってきて、声を上げた。


「まあ、姫さま、心配してましたのよ……どうやって此処へ……ああ、そんなことよりも、そうそう、そうでした。茜が塗籠に閉じ込められているのでございます!」


 さっと梓の顔色が変わる。


「お気を確かに。北の方の取り上げたものを持ち出したそうですの。どうかこちらへ」


 梓は敗れた築地塀から入り込み、ゆきに案内されて塗籠の前に辿り着いた。ガラクタを入れる倉庫のように使っているそこは梓も入れられたことがあるが、狭くて昼間でも暗い。


 扉越しに、茜のすすり泣くような声が聞こえる。普段泣き顔など見せない気丈な乳兄弟の声に、梓はかっと頬が赤くなるのを感じた。


「茜、茜!」

「姫さま……? ……どうして戻って……」

「そんなことより、今開けてあげるわ」


 つかえにしていた棒から外そうと溝に指先を差し込むが、なかなか外れない。


 そのうちに近付いてくる背後からの衣擦れに振り向くと、簀子に一の姫の姿があった。長い髪と単衣の上に煌びやかな五つ衣、細長を重ねた優美な姿に、扇で顔を隠している。


「お久しぶりですわね?」


 鈴を転がすような美しい声――その中に不協和音が感じたような気がして、ぞっと背筋が寒くなる。久しぶりも何も、今までに几帳越しに一度、姿を見たことがあるだけだった。


 梓は思わず息を呑んで後ずさる、その拍子に指に引っかかってつっかえ棒が抜けて、梓が転がり出てきた。


「あら、女房を出してしまわれて……その方、お母さまから盗みを働きましたのよ」

「この鏡を……何か分りませんが北の方が執着して。取られぬようにと抱いてきました」


 一の姫を一瞥すると、茜は懐から桜文様の金属鏡を取り出した。


「それを返して頂けませんか? 今日、お見えになる方のため飾りとして物入りなのです」


 一の姫は片手を差し出す。口調小曽丁寧だったが、扇で隠そうとして隠しきれぬ口元はにいっと歪められ、ひどく朱い。


「嫌です、返せません」


 梓は茜から鏡を受け取った、そしてそのはずみで――鏡面に映りこんだ一の姫の顔は、口元が耳まで裂け、牙と、長い髪から角が生え――それは、鬼であった。


「どういたしましたの?」

「……茜、おまえは逃げなさい!」


 茜にそう言うと、くるりと踵を返して梓は無作法にも小走りで庇を走った。お待ちになって、と背中から声が追ってくる。軽装の梓と五つ衣ではまるで重さが違うのに、その声は遠くもならずに追いかけてきた。


 追われ、庇から地面に飛び降り、逃げ込んだのは慣れたあの場所――煮炊きをする大炊殿だった。


「あら、どこかにお隠れになったのかしら?」


 扉から長い影が差し込む。火の消えた竈に隠れて、梓は息を止め、火打石を打った。


 あの少年が別れ際に言った言葉を思い出す。


 ――もし身に危険を感じたら、竈に逃げ込んで火を付けろ。


 煙が立てば、場所が明らかになる。


 熱い竈の火によって出来上がった梓の影にもう一つ影が重なった。恐る恐る顔を上げれば、すとんと落ちた扇の、持つ手が、爪が人ならぬ長さに一尺ばかり伸びていた。それがぐいっと梓の襟元をいたぶるようにしてから、ひょいと摘まみ上げる。


「鏡を返してくださればよかったのに? わたくしのお母さまはただ、我が子を守りたかっただけですのよ? 恵まれたあなたにはお分かりにならないでしょうけど……」


 目は清々しく笑っているのに、耳まで裂けた口は恐ろしく、言葉は丁寧なのに、もうその声には鈴の音は微かに雑音が殆どでひどく聞き取りにくかった。


 かっと開いた口から伸びた牙が、梓の顔にしずしずと迫る。


「さようなら、お姉さま」


 そう言って彼女が大きく口を開いた時……そこから悲鳴が迸った。


 竈の火が何かにあおられたように、吹き上がったかと思うと、五つ衣に移って体を火に包んでいく。火は見る間に燃え広がり、まな板を、釜の蓋を、壁を、天井を焦がしていく。


 爪からぽろりと落とされ、梓はしたたかに腰を打ち付けた。痛みよりも恐怖が強かったが、同時に安堵に包まれていた。不思議と熱くなかったのだ。


 やがて大炊殿は焼け落ち、絶叫と共に鬼は焼け――燃え落ちた灰の中から、煤だらけの梓が鏡を手に、呆然と座り込んでいた。茜の呼ぶ声が遠くに聞こえた。





「これは、亡き北の方の形見の品々です。残ったものだけですが」


 元々使用していた畳の部屋で。茜は、幾つか硯箱や鏡箱や、こまごまとしたものを梓に差し出した。


 彼女のしばらくの看病の末、病から回復した父には何も言えなかったが、北の方は狂乱した。今は療養のためと、寺にやられている。


「ありがとう。でもまだ預かっていて」


 茜は、はっとして目を見張る。


「お父さまは私がいない方が安心するでしょう。それに、人を一人殺めたのだから、私は私の罪を償わなければなりません」


 山のふもとまで送ってもらうと、彼女は牛車を降りた。あの日の残りの松明に火を付け、山に入る。


 そうして現れるのは、目の前には、紅葉する七竈の葉。



              ***



 あやしの山があるという。困窮した者が迷えば、神は宿と食事を与えてくれるという。

 しかし紅葉の季節には、人は立ち入れず、不思議と山のふもとに出てしまうと、後に、語られる。


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