金木犀とクリスマス・イブ

亜鉛とビタミン

金木犀とクリスマス・イブ

 小竹向原のひなびたアパートの一室は、季節外れな金木犀きんもくせいの香りに満ちていた。窓の外をみると、暗いグレーの夜空から白いぼた雪が降り落ちている。今日は年の瀬、十二月二十四日。恋人たちのクリスマス・イブである。


「どうして来たの」


 彼女は、それまで聞いたこともないような冷たい口調で言った。怒っているようでもなく、また失望しているようでもなかった。彼女はただ、僕に問うているのだった。つい先ほど部屋を追い出された立場でありながら、この部屋に来た僕の目的を。


「分かるだろ、言わなくても」


 僕は短く答えた。


「何、それ」


 彼女は僕に呆れているようだった。いつもより濃い口紅を塗った唇が、うっすらと開いたままになっている。僕たちが喧嘩になったとき、彼女は大抵、この表情になる。そしてこの表情になると彼女は意地になって、あまり話が通じなくなるのだ。


「香水を割ったことは、謝るから」


 僕はこの状況を打開するべく、話を切り出した。この喧嘩の原因は、彼女が大事にしていた金木犀の香水を、僕が割ってしまったことにある。


 もちろん故意があったわけではない。僕が部屋の棚に足をぶつけ、その衝撃で、棚にあった香水が落ちてしまったのである。冷え冷えとしたフローリングに落ちたガラス製の瓶は儚くも砕け、部屋には上質な金木犀の香りが広がった。その香りを嗅いだ瞬間、彼女は鬼のように激怒した。僕が平謝りしているのにも関わらず、


「もう、出て行って!」


 と鋭い怒声で言い放った。この部屋は、僕と彼女が家賃を折半して住んでいる部屋だが、そんなことで抗議しても事態を悪化させるのは明らかだったので、僕は素直に部屋を出て行くことにした。


 出て行くといっても、貧乏学生である僕には大した所持金もなく、こんな時に頼れる伝手や居場所もない。仕方なく有楽町線に乗って池袋まで出てみたものの、雪降るイブの街は残酷なまでに華やいでいて、居れば居るほど、虚しさと寒さとが増していくだけだった。そうして僕は再び電車に乗り、こうしてアパートまで戻ってきた。


「そう……」


 彼女はそう呟くと、静かな足取りで居間から出ていった。何をしに行くのだろう、と思いながら、僕は彼女の背中を見つめる。


 しばらくして、彼女は小さなホールケーキを持って戻ってきた。真っ赤なイチゴとホイップクリームで飾り付けられた、シンプルで可愛らしいケーキだ。


「これ、どうしたの……」


 僕は彼女に尋ねた。


「作った。一緒に食べようって思って」


 彼女は俯きながら答えた。


「そっか……」


 僕は彼女の顔を見つめた。もう、怒っている様子はなかった。僕たちの喧嘩は、大体いつもこんな調子である。急に始まって、急に終わる。原因が僕と彼女のどちらにあっても、それは同じだ。喧嘩するほど仲が良いとはいうけれど、今でも時々、彼女のことを掴み切れない瞬間がある。そこから目をそらすことには少し不安を感じるけれど、いつかどこかで理解できるようになるのだろう、とも思っている。


「香水のことは、本当にごめん」


 僕は、うつむいたままの彼女に言った。


 彼女は何も言わず、小さく頷いてくれた。

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