彼女は俺の自殺を止めたいらしい

七篠透

「私、気づいてあげられなかった……!」と彼女は泣いた

「……疲れた」


 真っ暗な部屋の中で、俺の声が虚しく響く。


 蛍光灯が一昨日に切れてから、交換していないのだから仕方ない。


 明かりがないのは少々心もとないが、まあ、構うまい。


 俺は暗い部屋の中で、半ば手探りで探し当てた折り畳みナイフを開き、首筋に当て―――。


 息を切らし、乱暴にドアを開けて入ってきた女性に、手を掴まれた。


「何してんの?」


 部屋が明るければ声を聴かずとも分かっただろう。

 怒髪天を衝く、そんな言葉がよく似合う、怒りに震える声で俺を問い詰めたのは、3日前から連絡を取っていない、俺の彼女だった。


 それまでは、毎日連絡をとれていたのだが、ここ3日は、そうできなかった。


 怒りを飲み込むためにか、数回深呼吸をして息を整え、冷静であろうと努めているのがよくわかる声色で彼女は言う。


「毎日連絡してくれてたのに、3日も連絡ないし既読もつかないから、心配になってきてみたら……何なのこの状況……なに持ってんの」


「いや、これは―――」


 弁明を試みるが、彼女は俺の手首を掴んだまま、ナイフの刃を掴もうとする。


「貸して」


 彼女がナイフの刃を掴むことは容認できない。

 俺は首を横に振った。


「いや、それは―――」


 だが、彼女も強情だった。


「いいから、貸して」


「駄目だ」


 しばらくの押し問答の末、互いの手の動きは少しずつ力ずくの色を帯び。


「なんでよ。いいから、私にそれを渡して。危ないからこんなの。持ってちゃいけな――あっ」


 当然の帰結として、刃を握ろうとした彼女の指先を、ナイフの刃が抉ることになった。


「お、おい、血が」


「大丈夫、こんなの。ちょっと指先切っただけよ」


 おろおろと心配するしかない俺に、彼女は強がって見せる。


「くそ、救急箱をしまった場所もわからねえ……」


 蛍光灯がつかない今のこの部屋では、ちょっとしたものを探すだけでも一苦労だ。


「あんたさ、これで何しようとしてたの?」


 だが、彼女は自分の怪我などお構いなしに、ナイフを握って俺を問い詰め。


「私、気づいてあげられなかった……!」


 泣き出した。


「ごめんね……! あんたが、死にたいくらい辛いことがあったなんて、私知らなかった……!」


 号泣だ。

 こうなると俺も、とりあえずは彼女をなだめるしかないが。


「それなのに、連絡くれないから浮気でもされてるのかななんて、自分本位に呑気なこと考えて、とっちめてやろうと思ってあんたの家に来てみたら、あんた死のうとしてるんだもん!」


 ここまで大泣きしながら心配されることが妙に嬉しいと思ってしまう自分が、どうしようもなく情けない。


「なんでよ! なんであたしに言ってくれないの! なんかつらいことがあったなら、まずあたしに言いなさいよ!」


 泣きわめきながら俺をなじる彼女に、これほど大切に思われていたのかと、奇妙な嬉しさを覚えながら、彼女をそっと抱きしめる。


「慰める立場かよ…ぉ…! あんた、あたしのことなんだと思ってんの? あんたの彼女でしょ! あたしに何も言わずに勝手に死のうとしないでよ!」


 俺の腕の中でしばらくじたばたともがき、ナイフが俺に当たりかねないことに気づいてか力を抜いた彼女は、そのまま俺の胸で泣き続けた。


「何かあるならあたしに言ってよ……! 死にたくなるくらいのことだったら……そんなに辛いなら、あたしも一緒に死んでやるわよ! あたしはそのくらいあんたのこと好きなんだよ! わかってる!?」


 そこまで思ってくれていることは嬉しいが、死なれては困る。

 そう思ったのがばれたのか、彼女はまた俺を睨みつけた。


「あんただって、あたしのことちゃんと好きでしょ。指先ちょっと切ったくらいであんなに動揺するくらい好きでいてくれてるでしょ! そのくらい心配してくれてるでしょ!」


 そしてまた、すぐに泣きだした。

 怒ったり泣いたり、彼女は実に感情豊かだ。

 まあ、そういうところも好きなのだが。

 ……これは惚れた弱みという奴だろうか。


「あたしだって、あんたのこと心配したいよぉ……! でも、言ってくれなきゃわかんないんだもん! あたし、そういうの気づけなくて、あんたのことちゃんと理解してあげられなくて……!」


 だがすごく気まずい。 


「あんたがそんなに思い詰めてるなんて微塵も思わなくて、浮気してたらとっちめてやろうとか考えて家に来たら、あんた電気もつけずに真っ暗な部屋で、ナイフを自分に向けて死のうとしてるんだもん!」


 俺にしがみついてひとしきり泣いた後、彼女は哀願するように俺に口づけた。


「お願い。置いていかないで」


 ……すごく、すごく気まずい。


「何があったか、後でゆっくり聞くから。だから、今はとりあえず、あんたのこと、抱きしめさせて」


 言いづらいなぁ。

 でも、言わないといけないよなぁ。


「……すまん、髭を剃ろうとしていただけなんだ」


 彼女が一瞬で真顔になった。


「……は?」


「3日前から、急に仕事が立て込んで、君に連絡する気力すらなくなってしまった。 そんな時に限って、間が悪く蛍光灯が切れて安全カミソリがどっかいって……仕方がないからたまたま手に触れた折り畳みナイフで髭を剃ろうとしていたんだ。朝はギリギリまで寝てしまって、髭を剃る時間も取れなくてな……」


 本当に気まずい。


「え、じゃあ……その、あたしの……勘違いってこと?」


「そう、なるな……」


 彼女は俺の襟首をつかんで力強く揺さぶった。


「……あたしの涙返せー!」


「いやほんとすんません」


 俺には、平謝りする以外の選択肢などなかった。

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